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カットカット

作者: 愚身
掲載日:2026/06/21

 蒸し暑さに負けてクーラーをつけた。部屋が徐々に冷やされる。冷たい空気は下に行くのだから、ベッドより布団のほうが合理的かもな、と思った。

 寝ている私の隣はまだ空間がある。時間が経てばそのうち気も紛れるさ、という言葉はよく聞かれるが、ならば空間も紛れるのだろうか。できることなら、時間も空間もすべて省略したい。楽になるのは早いほうがいい。私もさっさと楽になりたいのだ。私が苦しんでいる間にも、きっと日々を楽しんでいるのだから。


 目が覚める。気づかぬうちに、眠りに落ちてしまっていたようだ。クーラーのタイマーを設定していたはずだったが、部屋がひんやりしている。寒いくらいだ。涼しくなっていく過程が好きなのに、主に蒸し暑さか寒さかしか体験できないのは、残念だとしか言いようがない。睡眠は最も効率的な時間の省略方法だと思う。でも結局ただ回復を先延ばしにしているだけなんじゃないかとも思う。


 家を出る支度をする。といっても男であるというただ一点のみの言い訳で、髪の毛さえセットせず生やしっぱなしだし、化粧をするわけでもない。朝ごはんさえ食らわない。そのかわりにあるのは、ショート動画である。ブルーライトの効率的活用法であり、起き上がるためのドーパミンを出す最短の方法……と言うのはいささか強引ではあるが、ともかくモーニングルーティンとなってしまっているからしょうがない。いや、モーニングルーティンにも空白がある。かつて、といっても2週間前までではあるが、前髪を"なんとか"して、化粧をしている姿をみるのも密かにルーティンだった。一方で、と思う。どうだったのだろうか。かつては、起き上がってからダラダラしている私を見るのが日課だったのだろうか。


 駅までの道を歩く。気温はいつもより低めなのに、体感温度は高かった。湿度が高いからだろうか。私を囲う空間は、様々な要素が絡まり合ってできている。水蒸気、酸素、地表、重力。いずれかでもなければ、きっと私はニュートンの法則に合わせてどこかに飛んでいってしまうことだろう。でも、私はここにいる。惹き合う力がなくなった今でも飛んではいないということは、他の人間というのは案外自分の空間には必要がない、ということなのかもしれない。


 電車に乗る。ちょうど席が空いたので座らせていただく。向かいの席には、髪を短めに切った女性が座っていた。ボブというのだろうか?自分の好みの髪型なのに未だにイマイチ違いが分かっていない。前髪が切り揃えられていて、耳元が隠れている。襟足は長くはない。

 正直、似ているな、と思った。それだけのことなのに、大いに気分が悪くなった。おそらく、もうトラウマの類なのだろう。目を閉じる。スマホを見る気分ですらない。ただ、瞳を閉じることしかできない。それでも思考は止まらない。なぜ自分はこうなってしまったのか。自分だってこの状態を望んだはずなのに、なぜ?どうして自分はここまで半端な人間になってしまったのだろうか。


 駅に止まる。たくさんの人が乗り込んできた。平日の11時すぎなのにこれだけの人が乗るのはさすがといったところか。目の前にも人の気配を感じる。片目を開けると、スーツの男性に阻まれて向かい側の女性が見えなくなっていた。安心してスマホを開く。SNSでも開こうと、アイコンをタップしかけてやめた。Twitter、Instagram、BeReal。自分にはもうどれも必要のないものだ。流石にLINEを必要としないわけではないが、そこにたくさんのメッセージがいまだ残されていることを考えると、最近は一日に1回でも開くことが億劫になった。仕方なくまた目を閉じる。日本人は自分の目的駅に着くと睡眠から目覚める能力がある、というような話があるが、自分には少なくともそんな能力はない。他の人だって私と同じように寝たふりをしているだけだろうと思ってしまう。


 ちっとも面白くない。今までだって同じ行動をしてきたはずだった。目が覚める、家を出る支度をする、駅までの道を歩く、電車に乗る……。別に最近始まった生活じゃない。だのに、全く楽しくない。今までは違った。ある種の詩情があった。カラスが鳴き、日差しが差し込み、隣にぬくもりを感じていた。鈴を転がすような声、開いたカーテンから溢れる朝の気配、目玉焼きの黄身の温かさがそこにはあった。太陽によって暖められていく肌の表面、木陰の少し涼しげな空気、照り返すアスファルト。人類によって何度擦られたかわからないが、人間なら当たり前に感慨深くなる日常生活によって生かされていた。


 電車が目的地に着く。階段を降りる。人混みの中をやや下を向きながら歩く。単線的で、自分本位で、誰に対してでも言葉だけで説明可能な、そんな生活を繰り返している。


 ふと、視界の上端に、見覚えのある歩き方が映った気がした。陽射しが容赦なく自分を襲う。額に汗を浮かべる。周囲を歩いていた同じ大学に通う男女グループの声がつんざく。足がにわかに重みを増した。気のせいだろうと思った。大学生の染めたピンク髪が、乱反射して白さを増すアスファルトの照り返しが、築40年の校舎の建物の焦茶のような染みが、私の目を撹乱した。そう思った。でも、目が追ってしまう。目で追いつけなくて顔で追いつこうとする。自分の首の制動がきかない。ただ一人の人間を追ってしまう。華奢なくせに少し大股で、デニムのグラデーションを際立たせる。

「やっぱり」

 という音が聞こえた。消え入りそうで、到底聞こえるはずがない距離にいた独り言が、聞こえてしまった。相手は真っすぐ前を向いていた。あたかも私の存在を無視するかのように、先ほどより大股になって通過した。


 真っ昼間なのに通勤快速のように通過していく姿をただ呆然と見ることしかできなかった。気づけば茫洋とした空間が彼女との間にできていた。その間隙を他人が埋めてからもまだ足は動かなかった。その髪だけは彼女が駅に入る直前まで目視できた。長かったものが、なくなっていた。肩より上で切り揃えられた髪が、少し湿っぽい生暖かい風に揺れていた。昔、彼女にショートカットが好きだと言ったことがあった。別に深い意味はなかった。ラーメンなら味噌が好き、くらいの気軽さだったと思う。しかしそれから1週間も経たないうちに彼女は髪の毛を切った。女の生命とも形容される髪の毛をあっさり切った。初めは当惑した。嬉しさよりも驚きが勝った。ワンテンポ反応が遅れたことは彼女を苛立たせたが、何よりもその姿が似合っていて、心から褒めたとき、彼女は照れ笑いを隠せなかった。ラーメンなら味噌が好き、という状態をあらゆるもののなかで味噌ラーメンが好きだと断言するようになるには十分だった。

 まさにその瞬間が私たちの最高到達点だった。言葉では著したくない、あえて言うのであれば幸福というものそのものがそこにはあった。しかしその後、彼女の髪が伸びるごとに徐々に私たちの間に笑顔が少なくなったように思う。


 なぜ彼女はまた髪を切ったのだろうか。私の時と同じように男の影響なのか。それならその相手は彼女を褒めたのだろうか。私のようにワンテンポ遅れることはなかったのだろうか。私のように人生史上最大の幸福を得たのだろうか。そうあってほしくはないなと思う。私の感性は未だ成熟しない。他者から見ても、はっきり言って変な感性の持ち主だと自負している。だから、彼女には似つかわしくなかったと、今でも思っている。彼女は真っ直ぐで、純朴で、爛漫だった。私のような捻くれた男と同じ感性のものと一緒になるべきではなかったのではないか。だから私と同じ反応をするような男とくっついてほしくない。


 思考がグルグルする。唸りを上げたようにも思う。陽射しは今も私の黒い髪を照りつけているのに、そんなことは意識の外であった。自らの感性を恨む。自らの理性も同時に貶す。こんなことをいつまで続けるのだろうか。こんな日常をいつまでも続けるのか。ふと、自分も髪を切ってしまおうと思った。いや、切るのではなく刈ってしまおうか。5mm程度にしてしまおう。この世界で自分が占める体積を、少しでも減らしたかった。もう懲りた。私のような人間が幸せになる方法は恋以外にないものか。なくてもいい。でももうしばらく、こんな様態とは縁を切りたかった。

 再び自分の頭に意識が向く。もうどれほどここで突っ立っていたのだろうか。黒い髪は熱を集め、今にも炎が出そうだった。

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