第二章 戦を買う男
宗景と聞けば、今でもその名を覚えている方はいるでしょう。もっとも、その名を懐かしく思い出す者はまずおりますまい。兵算府でも、荷市場でも、城番の詰所でも、宗景の名が出ると、人はみな冷たい鉄でも手に乗せられたような顔をしたものでした。
それも無理はありません。あの男は一口にいえば、兵を売り、飢えを買い、門を値切り、人の心の底にまで値をつけた男だったのですから。
もっとも、戦争商人といえば、ただ武具や兵糧を右から左へ流して利を取る下卑た成り上がりのように思う方もおられるでしょう。けれど宗景は、そういう手合いとは違っていました。
たとえば槍一千本をどこへ運び込めば、春の終わりにどの城の蔵が先に軽くなるか。米三百石をどこの川舟に積めば、敵方の兵が何日目に不平を漏らし始めるか。宗景はそういうことを、夜目の利く獣のように嗅ぎ当てたのです。だから、宗景が荷を動かしたと聞けば、その時点ではまだ太鼓も鳴っていないのに、城主たちはもう眉を曇らせたのでした。
実際、私の知る限りでも、宗景がその知恵一つで城を落とした話は一つや二つではありません。
北の荒城で、堅固で知られた石見坂の砦が、わずか二十日で膝を折ったことがありました。外の者はみな、大殿様の兵威によるものだと言っておりましたが、実際はその二か月ほど前に、宗景が城下の塩問屋へひそかに銀を流し、塩の値を三度までつり上げさせたことが始まりだったのです。
塩が上がれば魚が減る。
魚が減れば兵の飯がまずくなる。
飯がまずくなれば番は眠くなる。
番が眠くなれば夜番頭は下の者を打つ。
打たれた者はいよいよ城を憎む。
宗景は、そういう筋道を絵でも引くように細かく帳面へ書きつけていたのでした。
私はその覚え書きを一度だけ横目で見たことがありますが、行のあいだあいだに小さく「ここより崩る」「まだ早し」「鍵は人の胃にあり」と書いてありました。あれには、さすがの私も気味の悪い思いがしたものです。
また、南の湿地の先にある鷺沼の小城では、宗景は兵を一人も送らず、矢一本も放たせずに門を開かせてしまいました。
どうしたかといえば、城主の姉婿が多額の借財を抱えていることを嗅ぎつけ、その証文を三手に分けて買い集めたのです。そうして最後の一枚だけを、わざと敵城の台所役の手へ渡し、「これを旦那へお見せ申せ」と言いつけました。
するとその晩のうちに城中で諍いが起こり、三日後には濠の外へ白布が出たのでした。
あとで宗景は、何でもない顔でこう言ったそうです。
「城というものは、石で立っているのではない。内へ隠した恥で立っている」
それを聞いた私どもは、面白いような、ぞっとするような気持になりました。
ですから宗景の周囲には、兵や荷主や使者だけでなく、恨みを呑んだ者も絶えませんでした。荷市場では、宗景の乗る輿が通るたび、売れ残りの干魚を足もとへ投げつけた者もいたし、兵算府の若い書役などは、あの男が部屋を出て行ったあとへ、こっそり唾を吐く真似をして笑ったりもしたものです。
もっとも、そういう連中に限って、自分の持ち場の兵糧が足りなくなったり、門番の交替札に偽りがあるとわかったりすると、真っ先に宗景の黒簿房へ使いを走らせるのですから、人間というものも勝手なものでした。
宗景が、ただ利にさといだけの下司でなかったことは、その出自を見てもわかります。もとは東の小さな家の生まれで、系図をたどればそれなりの名家につながるとも聞きました。けれどその家も、戦続きの折に焼け落ち、残ったのは古びた印璽と、虫に食われた系図と、父祖の名を書きつけた数巻の巻物ばかりだったそうです。
宗景自身も若いころは、直垂の袖を切り詰め、足袋に泥をつけたまま、都の質屋や問屋の軒先を渡り歩いていたといいます。ところが、その零落の中で、かえってあの男は、家名より銀のほうが人を動かすことを覚えたのでしょう。
誰が、いつ、どこで折れるか。何を失う時に、人は初めて本当の顔を見せるか。宗景はそればかり見ているうちに、とうとう家の再興そのものより、「値の立つ瞬間」そのものへ心を奪われてしまったように見えます。
しかしまた不思議なことに、宗景は生まれつきの町人のように、ただ算盤づくだけの男でもありませんでした。時折、大殿様の御前ですら、鼻持ちならぬ高言を吐くことがあったのです。
ある時兵算府で、一人の書役が「銀は銀、兵は兵、人の面目はまた別のもの」と言いました。すると宗景は細い唇の端をわずかに上げて、
「別だと思うのは、まだ秤に載せたことがないからだ」と答えました。
さらにこうも言ったのです。
「銀に値があるのではない。失う時の顔に値がある」
その場にいた者たちは、みな顔を見合わせました。もちろん、あの男がそんな口を利けたのも、大殿様がその働きを認めておられたからでしょう。ほかのお邸なら、とっくに追い払われていたに違いありません。
それにしても宗景の仕事ぶりは、まるで人の命を勘定箱へ流し込むようでした。城を一つ落とすにも、まず敵の蔵高を数え、次に川の水位を見、さらに門番の年や家族の数まで調べ上げるのです。荒間という、もと傭兵上がりの大男がいつもその手足となって働いておりましたが、ある折、酔った拍子に私へこう言ったことがあります。
「旦那は斬られる奴より、斬られる前の奴の顔を見るのが好きだ」
私はそれを聞いて思わず眉をひそめましたが、荒間の顔には笑いとも怯えともつかぬものが浮かんでいました。あの男に仕えていた者は、誰しも一度はそういう気味悪さを感じたのでしょう。
だからこそ、宗景が兵算府へ出入りすると、帳面を持つ手の白い書役たちでさえ、胸の底を探られているような顔になったものでした。何しろあの男は、相手の言葉を聞くより先に、相手が何を失えば黙るかを見ているのですから。
私も一度、兵糧の受け渡しに半日の遅れが出た時、宗景からこう問われたことがあります。
「その半日で、どの番所の誰が一番先に嘘をつくか、ご存じか」
私は返事に窮して黙っておりますと、宗景は私の顔を見たまま、
「知らぬほうがよろしい。知れば、その者の顔を見るたびに値が見える」
と言いました。今思い出しても、いやな気持になります。
こういう男ですから、宗景を憎む者が多かったのも当然でしょう。瑠璃僧都などは、あの男の名を聞くだけで袈裟の襟を撫でながら、
「何でも秤に載せたがる者は、終いには己が心まで売る」
とよく仰っていました。もっとも、その僧都でさえ、いざ兵糧施しの割付けになると、宗景の計算を借りずには済まなかったのですから、これもまた世の皮肉というものでしょう。
しかし、この宗景にも――城門の鍵にも、兵の飢えにも、人の恥にも値をつけたこの男にも、たった一つだけ、どうしても勘定に入れまいとしていたものがありました。
その頃の私どもは、それを見て、あの男にも人並みに情があるのだと思うくらいでした。けれど今になって考えてみれば、宗景のあらゆる勘定は、実はそのたった一つを勘定の外へ置くためにこそ磨かれていたのかもしれません。
その一つというのが、ほかでもない、凪白という養い子だったのです。




