九
弘治元年十一月。
信光が暗殺された事で城主不在となった那古野城の留守居役に、林秀貞が任じられた。
信長の一長であるが、同時に信勝擁立の筆頭でもある。
信長がそのことをどう思っていたかはわからないが、ともかく秀貞が那古野城を任された。
同じ頃、美濃にて政変があった。
斎藤道三が息子義龍に城を追われたのである。
時同じくして、尾張上四郡の守護代である織田伊勢守信安が信勝に書状を送った。
「潮時か」
信勝はそう呟いた。
信安は美濃の義龍と組んで信勝を援護、反信長の旗を上げようというのだ。
ついに来てしまったと思った。
信長と正面から対立する。
胸は痛む。
しかし、その時が来てしまったからには覚悟を決めるしかない。
弘治二年、四月二〇日。
長良川合戦にて斎藤道三討ち死に。
一七五〇〇もの兵を率いる義龍に対し、道三に従ったのは僅か二七〇〇余りであった。享年六三。
信長は援軍に向かったが間に合わなかった。
道三が間に合わせなかった、というのが正しい。
道三は信長を巻き込むのを善しとせず、自ら死期を早めたのだった。
道三討ち死にとの通報があり、信長勢は大良の本陣まで退いた。
本国尾張へは大河を隔てているので、兵員、牛馬をすべて後方へ退去させ、「殿は信長が務める」と言って全軍に川を超えさせた。
信長の乗る舟一艘だけを残し、他の兵たちが川を渡った時、義龍方の騎馬武者が何人か川端まで駆けて来た。
すわ大将首、と勇んだ所、川向こうから鉄砲が撃ち込まれた。
川の中では鉄砲をかわすことはまずできない。
大勢が騎馬から撃ち落とされた。
見事な手腕であった。
信長は一兵も損ねることなく、尾張へと帰還した。
信長は大きな後ろ楯を失ったが、道三は死の間際、信長に美濃一国を譲るという遺言状を託したという。
大きな、大き過ぎる置き土産であった。
しかしこれを拠り所に、信長が美濃を手に入れるには更に何年もの時が掛かることとなる。
同年五月二六日。
信長は一人の供を連れただけで清州から那古野の城の留守居、林秀貞の元を訪れた。
その弟の通具は、絶好の機会とばかりに信長暗殺を兄に訴えた。
しかし秀貞は首を縦に振らず、そのまま信長を帰した。
「それでよい。もしもそなたらが早まったことをしでかしていたら、私がそなたらを斬っていた所だ」
ことの顛末を信勝に報告した秀貞は、ただただひたすらに頭を下げた。
「しかし勘十郎様、惜しい事をなさったのではありませぬか。信長の殿とのを早々討ち取ってしまえば……」
「控えよ蔵人。戦国の世ではあるが、せめて兄上とは堂々と立ち合いたいのだ」
甘いことをと思ったが、津々木蔵人は黙って頭を下げた。
一両日過ぎて後、林兄弟は信長に敵対の旗色を明らかにした。
林方の荒子城も熱田と清州の間を遮断し、信長に敵対した。
米野城と大脇城も林の一味として信長に敵対することとなった。
信勝は、信長の直轄地である篠木三郷を横領。
信長は信勝に先んじて砦を築こうとし、八月二二日、佐久間盛重に命じ、於多井川を渡った名塚という所に砦を築かせた。
佐久間盛重は信勝の宿老であったが、弾正忠家臣の多くが信勝方に走る中、同族の佐久間信盛らと共に信長に味方した。
先の見えぬ馬鹿な奴等だと、信勝方からは嘲笑の的であった。
「先の見えぬのは、果たして誰であろうな」
信勝はそっと溜め息を漏らした。
翌二三日は雨。川の水かさが著しく増えた。
その上、信長方の砦工事もまだ完成はしていないと見て、柴田勝家が一〇〇〇人ばかり、林通具が七〇〇人ばかりの兵を率いて出撃した。
秀貞は通具に兵の全てを託し、自身は出陣しなかった。
信長も清州から軍勢を出し、川を渡った所で先陣の足軽に戦いを挑んだ。
柴田勝家は稲生の村外れの街道を西向きに、林通具は南の田園地帯の方から北向きに攻めかかった。
信長は村外れからやや下がった所に軍勢を配備。総勢七〇〇人ばかり。
「こちらの半分以下か」
信勝は呟く。
柴田勝家らに押し止められ、またも出陣はならなかった。
末盛城に在って報告を受けるのみである。
何とも歯痒く、口惜しい。
せめて戦場で敵として、兄と真向かいたかった。
せめて対等な者として、立ち会いたかった。
信勝の表情は暗く、重い。
そこへ市が走って来た。
「これ、市。此処へきてはいけないと申し付けたであろう。母上の所へ戻りなさい」
優しく諭す信勝に、市はいやいやと大きく頭を振る。
「信勝の兄上。兄上は信長の兄上と戦をなさると聞きました。本当なのですか」
今にも泣き出しそうな幼い妹に、信勝は神妙に肯いた。
「そうだよ」
「なぜ? なぜ、兄上方が戦うのですか!」
「戦国の世だからだ」
「意味がわかりません!」
「戦国の世だから、家の主は強くなくてはいけない。家をひとつに纏めなければいけない。兄上か私か。弾正忠家の主は、どちらか一人でなくてはならないのだよ」
市は悔しそうに地団太を踏む。
「どうして仲良く二人で治めてはいけないのですか! 兄上は信長の兄上をお嫌いなのですか?」
「いいや」
信勝は小さく笑った。
穏やかで優しい声は少し震えていただろうか。
「好きだよ」
その顔は泣きそうであった。
泣きそうに笑っていた。
「ならばなぜ!」
「生まれた時代が悪かったのだ」
もう行きなさい、と信勝は市の背を押した。
もはや、どうしようもないのだと悟って。
市は泣き出した。
大好きな兄二人が争い血を流す。
自分には止められない。
静かになった広間で、信勝は小さく呟いた。
「天が選ぶだろう」
兄か弟か。
どちらが当主に相応しいか。
こうして奥に守られている自分か。
それとも自ら前線に出て戦う兄か。
「わかるはずだ」
自嘲気味に信勝は天井を仰ぐ。
この戦いで誰もがわかる筈だ。
器の違いが。
そうでなければならない。
そうでなければ、謀反を起こした意味が無いのだ。
自分は間違いなく地獄へ往くだろう。
自分を信じ、付いて来てくれた者たちを裏切るのだから。
その心を踏み躙り、兄信長の勝利を願うのだから。
誰の目にも明らかにせねばならない。
どちらが相応しいのかを。
八月二四日、午の刻。
まず東南方の柴田勢に向かって、信長は過半の兵を攻めかからせた。
散々に揉み合い、柴田勝家は山田治部左衛門を討ち取った。
しかし勝家も手傷を負い、後方へ退いた。
柴田勢は佐々孫介他、屈強な者たちを次々と討ち、この時信長の周囲には織田勝左衛門、織田信房、森可成ほか、槍持ちの中間衆四〇人ほどしか居なかった。
信房、可成両人が、柴田勢の土田の大原という武者を、突き伏せ揉み合い、首級を取った所へ双方から掛かり合い戦った。
酷い乱戦であった。
すうっと信長が息を吸い、大音声を上げた。
「織田弾正忠信長であるぞ!」
敵方といえど身内である。
あまりの威光に誰もが打たれ、立ち止った。
「当主に弓引く覚悟のある者のみ、掛かって来い!」
一瞬の静寂。
そして柴田勢は、わぁっと逃げ崩れた。
次に信長は南へ向かい、林勢に攻めかかった。
黒田半平と林通具は長時間に渡り斬り結んでいた。
半平が左の手を切り落とされた時、信長が駆け付けた。
「謀反人林美作!」
その声に通具がゆっくりと動きを止める。
「これは信長の殿、よくぞここまでお越しになられた」
ふてぶてしくも通具は信長を見遣り、笑った。
満足げな笑みであった。
「謀反にござらぬ。拙者は勘十郎信勝様こそ弾正忠家の当主たるべきと思ってござる」
「よくぞ申した!」
信長はにやりと笑った。
そしてぶん、と力強く槍を振るう。
「その首級、此処ここに置いてゆけ!」
「此方の台詞にござる!」
二人の槍が交差する。
槍が通具の胸を貫き、ゆっくりと倒れ込む。
通具は少し笑ったように見えた。
信長自ら敵大将を討ち取ったのは、これが最初で最後であると伝えられる。
兄弟対決ですが、信勝はまたも戦場に立つことはかないませんでした。




