四
天文二一年四月十七日。赤塚の戦いがあった。
信秀が没してすぐ、信長が家督を継いで最初の戦いである。
鳴海の城主山口教継が謀反を企て、今川義元に通じ、駿河勢を尾張領内へ引き入れたのである。
教継は、弾正忠家の家督を継いだ信長はまだ若く、遠からず潰れると踏んだのだった。
「親父に目をかけられていたにも関わらず、何という奴らだ!」
相変わらずの大音声。
お元気そうでなにより、と末盛城から慌ただしく駆け付けた信勝は頼もしく思った。
「兄上、どうぞ冷静に……」
信長はぎろりと信勝を睨み、踵を返した。
「すぐに出るぞ!」
「私もお供を、」
「いらぬ」
にべも無い。
台詞も途中で遮られた。
「お主は留守番しておれ。お濃、こやつに茶でも点たててやれ」
「畏まりました」
濃姫は慎ましやかに頭を垂れる。
「いってらっしゃいませ」
そして艶やかに微笑んだ。
信長は満足げに頷く。そして足音高く出立した。
兄を見送り、信勝は少し困った様に濃姫を見た。
確かに昔から、とろい、鈍くさいなどと言って、信勝を置いていくことの多い兄ではあったけれど。
ことは戦であるのだが。
留守番とはこれ如何いかに。
濃姫は動じた様子もなく泰然としている。
「義姉上、如何致しましょう」
「茶を点てまする。勘十郎様、どうぞご一服を。白魚羹などございますので」
白魚羹は白い豆の粉などを魚の形に製し、蒸した菓子である。
信長の好きなものの一つでもある。
茶室は戦の準備の音も聞こえず、酷く静かな空間だった。
こぽこぽと湯の沸く音がする。
茶杓がかつんと茶碗の縁を叩く。
静かに茶筅の音が耳に届く。
さらさらと心地良く。
「どうぞ」
柔らかく白い手が、そっと茶碗を置いた。
信勝は手を揃え、ゆっくりと頭を下げる。
「お点前頂戴致します」
茶は甘く柔らかかった。
「大変美味しゅうございました」
濃姫はにこりと微笑む。
艶やかな黒髪。涼しげな目許に長い睫毛。
瑞々しい唇。陶器の様に滑らかな頬。
相変わらず人形の様に美しいが、瞳が強く煌めいていて。
儚さよりも力強さを感じる姫だ。
「今後も、どうぞお気軽にお越しくださいませ。勘十郎殿とは仲良くしとうございます」
「畏れ入ります。また是非に」
穏やかな空気がふっと流れた。
「けれど」
濃姫はそっと睫毛を伏せた。
「これからは中々、難しくなるやもしれませぬね」
信秀の生前と比べ、戦はまず、間違いなく増えよう。
「……はい。力及ばず、申し訳ございません」
己が配下の動きすら抑えきれぬ信勝の、心からの思いだった。
信勝にもっと力があれば、全て従わせ、信長に傅いただろう。
或いはもっと力がなければ、信勝を担ぎ出そうなどと思う者も居なかっただろう。
「勘十郎殿の所為ではございません。殿がもっとお強く御成り遊ばせば、いずれ収まりましょうが。大殿亡き後、有象無象が我先にと襲って参りましょうから」
濃姫は悪戯っぽく笑った。
「我が父も、言うに及ばず」
「これはこれは」
手厳しい台詞に、信勝は思わずといったように笑い声をあげた。
信長は八〇〇人余の軍勢を率い、那古野城を出た。
中根村を駆け抜け、小鳴海へ進み、三の山へ登った。
山口教継の息子教吉は三の山の東、鳴海から北の赤塚へ、軍勢一五〇〇ばかりで出陣。
それを見た信長も赤塚へ進軍した。
矢戦の後に槍戦となったが、敵味方の距離があまりに近過ぎたので、双方とも討ち取った敵の首級を取ることもできなかった。
首を落とすのも中々時間が掛かるのである。
乱戦は巳みの刻より午の刻。
信長方で討ち死にした者は三〇人に及んだが勝敗はつかず、元々は味方同士、顔見知りの為、生け捕りにした兵は交換しあい、また敵陣に逃げ込んだ馬も返し合った。
信長はその日の内に帰陣した。
その後、山口教継、教吉父子はその後、義元に呼ばれ駿河に行ったが、再度信長への寝返りを疑われ殺害されたという。
「阿呆め。大人しくわしに従っておれば良かったものを」
信長は苛立たしげに吐き捨てた。
また同年八月十五日。萱津の戦い。
この頃、下四郡を支配する清州衆、つまりは守護代織田大和守家、その当主は達勝から信友に移っていたが、実権は又代である坂井大膳が握っていた。
大膳は同輩の坂井甚介、川尻与一、織田三位と謀議。
清州城から松葉城、ならびに深田城へと攻め込んだ。
両城ともに占領し、松葉城主織田伊賀守、信長の叔父にあたる深田城主織田信次を人質として、信長に敵対する意思を明らかにした。
翌八月十六日。
信長は払暁と共に那古野城を出立。稲庭地の川岸で、守山城から駆け付けた叔父であり信次の兄でもある信光が合流。
兵を松葉口、三本木口、清州口の三手に分け、信長は信光と共に萱津口に攻め寄せた。
敵も清州から出撃、萱津村に進出した。
この時、信勝は守役の柴田勝家を参陣させている。
ただ信勝の参陣はまた叶わなかった。
相変わらず、留守番を申し付けられたのである。
心遣いなのか、嫌がらせなのか。
いや、きっと優しさなのだろうけれど。
戦に出られぬのは何とも歯痒い。
辰の刻、合戦の火蓋が切られた。
数刻後、清州方は敗れ、坂井甚介は討ち死に。首級は中条家忠と柴田勝家が二人がかりで取った。
他、五〇騎程が討ち死にした。
松葉城の敵は城の外郭を囲むようにして守ったが、数刻の矢戦で信長方に追われ惨敗。
撤退できたものは僅かだった。
深田城はこれといって防塁となるものもない所であったため、即座に攻め崩された。
かくして信長は深田、松葉の両城へ攻め寄せた。
敵は降参。両城を明け渡し、清州城へ撤収した。
城も人質も取り戻す見事な手腕であった。
信長は余勢を駆って清州の刈田を行った。
以後、大和守やまとのかみ家と信長との敵対が続くこととなる。
柴田勝家からことの顛末の報告を受けた信勝は難しい顔で頷いた。
「よくやってくれた」
「ははっ」
「これから益々こういったことが増えるであろうな……」
勝家はちらりと信勝を伺う。
憂いに満ちた主の表情からは、険呑なものは露ほども見られない。
信勝には、いずれ信長に取って代わって貰わねばならない。
あまり信長を勢い付かせるのも良くはないのではないだろうか。
その割に、信長の軍勢に加わった上大活躍し、うっかり感状まで貰ってしまった勝家は、しまったかもしれない、と思った。
勝家の働きを気に入った信長は、また頼むぞとの言葉までくれた。
ますます以もってやり過ぎたかもしれない、と勝家は一人反省する。
「兄上は戦上手であろう」
勝家の視線に気付いたか、信勝が少し微笑んだ。
「家督以前に、弾正忠家が無くなってしまっては困る。私は政務で地盤を固める。戦働きは兄上にお任せしよう。その代わりに権六、そなたが私の代わりに手柄を挙げよ」
勝家は目を見開き、深々と頭を垂れ、額を畳に擦り付けた。
「なんと勿体無いお言葉、身に余る光栄に存じまする!この権六、粉骨砕身努めて参りまする!どうぞご存分にお使い下され!」
感動し震える大きな身体を前に、信勝はこっそりと苦笑する。
実直な人柄は好ましいが、勝家は謀略には向かない。
鬼柴田だの、かかれ柴田などと呼ばれてはいるが、勇猛果敢で温情ある良い男だ。
裏表無く、まっすぐに突き進んでゆく。
「そなたは私よりも……」
「は」
「……いや、なんでもない」
小さくかぶりを振った。
兄信長にこそ相応しいのだろうな、という言葉は呑み込んだ。
志がある。守りたいものがある。
だから、必ずや遣り遂げる。
織田弾正忠家をひとつに纏め上げる。
そして家中だけでなく、いずれは尾張をも。
信勝の中には明確な未来図が浮かび上がっていた。
思い描く未来のため、今は布石を打っておきましょう。




