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信長の弟  作者: 浮田葉子
3/11

 天文二一年(一五五二)三月三日、織田弾正忠(だんじょうのじょう)信秀(のぶひで)死去。

 末盛(すえもり)城にて頓死(とんし)であった。

 享年四二。


 かねてから病がちではあったとはいえ、あまりに呆気ない死の訪れだった。


 嘆き悲しむ土田(つちだ)御前(ごぜん)を慰めながら、信勝(のぶかつ)は静かに涙を流した。

 戦場で首討たれたのではないのは、果たして幸福なのか不幸なのか。

 暗澹(あんたん)たる思いが胸を覆っていく。父は跡継ぎを(しか)と定めず逝った。


 ひと波乱あるだろう。

 いや、必ずある。


 母の肩を抱きながら、信勝は冷たい予感に唇を血の出るほどに噛み締めた。




 信秀は生前万松寺(ばんしょうじ)という寺を建てていた。

 葬儀は尾張(おわり)国中の僧侶を集め、盛大に行った。折から関東に上り下りする旅の修行僧たちも多数参加し、その数は三〇〇人にも及んだという。


 実質尾張の大名といえる信秀に相応しい式であった。


 信長には(よん)(おとな)である林秀貞(はやしひでさだ)平手正秀(ひらてまさひで)青山(あおやま)信昌(のぶまさ)内藤(ないとう)勝介(しょうすけ)らが供として従った。


 信勝は、やはり宿老(おとな)柴田(しばた)勝家(かついえ)佐久間(さくま)盛重(もりしげ)佐久間(さくま)信盛(のぶもり)長谷川(はせがわ)宗兵衛(そうべえ)山田(やまだ)弥右衛門(やうえもん)を供とて従えた。


 信勝の従える面々は、嫡男の信長と変わらぬばかりか、もしや勢力は上かもしれない。

 もう少し控え目にすれば良かっただろうか。

 しかし、自身の配下に恥を掻かせるわけにもいかない。


 その加減が、信勝には酷く難しかった。


 割と何でも卒なくこなしていると思われがちな信勝だが、その実とても不器用だった。

 すべてにおいて当たり障りなくを心掛け、却って失敗することも多い。

 今も堅実に努めようとし、却って目立ってしまっている。


 いや寧ろ目立っているのは兄信長なのだが、その隣に居る以上、対比されるのは仕方のないことなのであって。


 葬儀の席であっても、信長は長束の太刀と脇差を藁わら縄で巻き、髪は相変わらずの茶筅(ちゃせん)(まげ)、袴も穿()きはしない。

 そして胡坐をかいてどっかりと座っている。


 うつけ、とは誰が呟いたのか。


 対して信勝(のぶかつ)は折り目正しい肩衣(かたぎぬ)、袴を着用し、礼にかなった作法であった。



 そんな風にしか、自分は在れない。

 何がうつけか。

 その堂々たる振る舞いは、まさしく国を治めるに相応しい風格ではないか。



 信勝がそんな風に思って居るなど、この場の誰が知ることができよう。


 隣の兄さえ知りはしまい。

 正座した膝に手を添えて、静かに睫毛を伏せ、父を悼むその姿は一種清らかで。


 誰が見ても、跡目に相応しいのは信勝の方であった。

 普通の感性の持ち主であれば、だが。


 そんな気配を首筋にジリジリと感じ、信勝はますます暗い思いに捕らわれていく。


 視線が痛い。突き刺さる様だ。

 足許にぽっかりと穴があいて、そこへ吸い込まれて行くような心持ちだった。

 胃の腑がきゅっと掴まれるようで、頭の中がぐらぐらと揺れた。


 目には霞がかかっているようだった。

 暗いのに妙に白っぽい。


 読経(どきょう)が、何処か遠い所で響いているように思える。

 まるで波の音の様だ。


 遠く近く。深く浅く。

 重なる声の妙たえなるかな。


 これは夢ではないかと。

 夢ならば早く醒めると良いと。


 愚にもつかぬことを思う不甲斐無さに、我がことながら情けなくて涙が出る。


 肩に圧し掛かる重みは、耐えるのがやっとだ。

 己の器の小ささが悔しかった。


 寺では土田(つちだ)御前(ごぜん)、その隣に濃姫(のうひめ)。そして大勢の父の妾らや、異母兄弟らが、行儀よく並んで涙している。


 小さな子らは、何が起こっているのかよくわからずに、きゃらきゃらと笑い遊んでいて。

 それが余計に切なく胸に染みた。


「ご焼香を」


 僧侶の言葉に、隣の信長(のぶなが)がすっくと立ち上がった。


 迷いのない動作だった。

 一歩一歩を踏み締めるかの如く。信長は足音高く仏前に向かう。


 兄は、どのような表情(かお)をしているのだろう。

 信勝は顔を上げ、そして次の瞬間、その場の誰もが目を剥いた。


「喝!」


 大音声(おんじょう)で叫び、信長は父の位牌に抹香を掴み、投げつけたのである。


 しんと静まり返ったかと思うと、小波(さざなみ)の様に動揺が広がった。

 ざわつく場を物ともせず、信長はそのまま走り去ってしまった。


 土田御前はあまりのことに震えながらその場に突っ伏し、濃姫はその隣で大きな目をまんまるに見開いていた。


 (いち)はまだ幼く、ことの次第をよくわかっていないのだろう。

 信勝の元にとことこと走って来て、


「あにうえさまはなにをおこっていたの?」


 などと、袖を小さく引いて小首を傾げている。


「兄上は、怒っていたのではないよ。きっと悲しみを、溜めこんではおれなかったのだろうね……」


 そっと抱き寄せて頭を撫でてやれば、にこにこと微笑んで頬を寄せてくる。

 温かさにますます涙がこみ上げる。


「なんたること…」

「これでは国が保てまい…」

「やはり廃嫡を…」

勘十郎(かんじゅうろう)さまこそ家督を継ぐに相応しい…」


 今度こそ、確かな囁き声が信勝(のぶかつ)の耳にも届く。


 嗚呼、と信勝は哀しげに吐息した。




 父が死んだというのに。

 跡目の心配が一番か。

 いや、それは当然のこと。

 自分だけではなく、一族、家族を守っていかねばならないのだから。


 立場というものがどれほど大切なのか、信勝は知っている。

 知っているつもりだった。




「勘十郎様、ご焼香を」


 促す僧侶に頷き立ち上がると、信勝は父の位牌にそっと手を合わせた。

 このままでは、弾正忠(だんじょうのじょう)家は二つに割れてしまう。


 だけならばまだしも、信長と対するのは同母弟の自分だけではない。


 恐らくは叔父の信光(のぶみつ)信次(のぶつぐ)、そして庶兄とはいえ長子の信広(のぶひろ)らが、当主の座を狙うだろう。


 宿老(おとな)たちも反旗を翻し、乗っ取りを企むやもしれない。


 下剋上は戦国の世の常だ。

 だが、それだけではことは済まない。


 今までは織田信秀(のぶひで)が、実質的な尾張(おわり)の大名であった。周囲に睨みを利かせ、どうにか国を守って来た。


 しかし信秀という大きな砦を失った弾正忠家は、このままでは守護代の伊勢守(いせのかみ)家、そして大和守(やまとのかみ)家に呑み込まれ、潰されるだろう。


 それはきっと呆気なく。


 更に事は尾張一国では済まない。


 美濃(みの)には斎藤(さいとう)道三(どうさん)駿河(するが)今川(いまがわ)義元(よしもと)




 織田が、一族が。家族が……。跡形もなく踏み(にじ)られるであろう未来が、信勝(のぶかつ)の眼裏を過った。


 このままではいけない。

 守らなくては。




 目を開ければ、父の位牌が静かに佇んでいる。無論のこと、何も言ってくれはしない。


 ゆっくりと頭を垂れる。

 深く、深く。


 きゅっと唇を噛み締め、顔を上げた。

 位牌に背を向け、歩き出す。





 そしてその日。


 信勝は兄に謀反を起こすことを決めたのだ。

家族のために。未来のために。信勝はこの時決意したのだと思います。

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