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信長の弟  作者: 浮田葉子
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 天文十八(一五四九)年、三月六日、 三河(みかわ)岡崎(おかざき)城主松平弘忠(まつだいらひろただが)死去。享年二四。


 弘忠は織田弾正忠(だんじょうのじょう)家に人質として取られている竹千代(たけちよ)、後の徳川家康(とくがわいえやす)の父である。


 竹千代は、もとは松平から今川への人質として出されたのだが、護衛の家臣が裏切り織田についたため、横流しされたというか、掠め取られたというか。何とも微妙な立場にあった。


 岡崎城主頓死の報に、 駿河(するが)今川(いまがわ)義元(よしもと)はすぐに軍勢を三河に差し向けた。


 そして松平家の所領を支配すると共に、国人領主を直接支配下に取り込んでいった。


 同年十一月。義元は信長の庶兄信広(のぶひろ)が守る三河の安祥(あんじょう)城を攻略。

 殺されなかったのは良かったのか、悪かったのか。

 捕らえた信広と交換に、竹千代を取り戻した。


 安祥城を巡っては、 天文九年(一五四〇)から 同十八年(一五四九)にかけ織田信秀(のぶひで)と松平、今川がこの城を巡って何度も戦を起こしている。 小豆坂(あずきざか)の戦いもこのひとつである。




 安祥城は西三河地方の覇権を巡るにあたって、格別重要な城であった。

 信広は何度も城の防衛に成功していたが、今回ばかりは守りきることができなかった。


 天文二十年(一五五一)信長(のぶなが)帰蝶(きちょう)との婚姻より、瞬く間に三年が経った。

 尾張(おわり)美濃(みの)との同盟は成り、大きな戦もなく、それなりに穏やかな日々が続いていた。




 信勝(のぶかつ)は十六になった。


 凛々しさは(いや)()し、本人の気持ちとは裏腹に、弾正忠家内でますます信勝擁立の動きは大きくなっていた。


 信長の後見に美濃の(まむし)がついていようと、うつけはうつけという見方は変わりはしなかった。


 帰蝶は濃姫(のうひめ)と呼ばれるようになり、大過なく過ごしている。

 信長と濃姫とは仲睦まじくしているようで、時折連れ立っては遠乗りになど行っているようだ。

 どちらかと言えば信長が無理矢理に連れ回しているのではないだろうか。


 付き従う小姓たちも、悪童と然程(さほど)変わらぬ振る舞いと聞く。

 妻を迎えたからといって、信長の振る舞いが改まることはなかった。

 それどころか激しさを増しているようにさえ見える。


 相変わらず武芸に励み、鷹狩りに興じ、冬以外は水練に勤しんでいる。

 時にはそれに濃姫を同行させることすらあった。


 そんな乱雑に、大事な姫を扱ってよいのだろうかと信勝は思うのだが。

 そんな有様だから子が出来ぬのだとか、所詮うつけの飯事(ままごと)だとか、口がさない者らはさざめいているが、信勝は兄が羨ましくもあった。


 信勝も先日妻を迎えた。

 和田備前守(わだびぜんのかみ)の娘、高子(たかこ)である。

 それなりにうまく付き合ってはいるものの、仲睦まじくとまではいかず、どうにも空回ってしまう。


 高子は 所謂(いわゆる)深窓の令嬢であった。

 彼女は和歌が得意であったが、信勝は気の利いた和歌を容易(たやす)く作れる程には熟達しては居なかったし、信勝は百舌鳥(もず)を可愛がっており、それを用いた珍しい鷹狩りを好んだが、高子はそういったことには興味を持たぬようで。会話が弾むことも滅多に無かった。


 政略結婚とはそのようなものと思いながらも、信長と濃姫の遠慮のない遣り取りが好ましく、二人のようになれたらと思うこともしばしばあった。


 自分ではまさか高子を遠乗りになど誘えはしないけれども。

 少しでも歩み寄ろうと、先日来暇を見つけては古今集など読んでいる。


 とはいえ上達はまだまだ先のことになりそうではある。

 今は父の補佐の仕事を覚えるのに精一杯なのだ。


 最近、父信秀(のぶひで)は信長と信勝とを政務に関わらせることが増えた。

 文書(もんじょ)を作成したり、 制札(せいさつ)を出したり、安堵(あんど)(これは主君が家人に対して土地の所有権、領有権、知行権を与えることを充行(あてがい)といい、既にあてがわれたり、買得されたこれらの権利を確認または承認することをいうのだが)したり。


 同じ末盛(すえもり)城中で父の教えを乞い、信勝(のぶかつ)は着実に実力を伸ばしていた。


 (まつりごと)は、難しいが面白い。


 信勝は早く一人前になりたかった。

 今の自分は少しづつではあっても、理想に近付いている手応えがある。


 父を支え、兄を支え、家を守る。

 いつかは辿り着きたい理想の姿であった。


 最近は父の体調が思わしくないこともあり、なるべくその負担を減らしたくもあった。


 そんな信勝の気持ちなど露知らず、家中では密やかに信長(のぶなが)廃嫡(はいちゃく)の企みが巡らされていた。


 なんと信長の(いち)(おとな)である(はやし)秀貞(ひでさだ)が、信勝擁立勢力の筆頭であるという。

 信長の身近であるが故に、奇行が余計目につくのだろうか。

 その考えに信勝の守役(もりやく)である柴田(しばた)勝家(かついえ)、秀貞の弟である林通具(みちとも)も同調しているという。


 嘆かわしい、と信勝は睫毛を伏せる。


 そんな微かな仕草さえ麗しく、憂いの為か妙に艶めいてみえる。

 城の女たちに騒がれているのを、信勝本人だけが知らない。


 廊下の端できゃあ、と可愛い歓声があがった。

 視線を遣れば、誰かが慌てて隠れようと転んだらしい。結構痛そうな音がした。


 それはさて置き。


 信勝(のぶかつ)は兄信長(のぶなが)こそが嫡男に相応しいと思っている。

 兄こそが、戦国の世を生き抜くに相応しい大器であると。


 しかしながら、その器は(いささ)か大き過ぎるのだった。信長の行動は普通の感性で量れるものではない。


 小さな盃に樽一杯の水は酌めない。

 (ことごと)く溢れだすだろう。


 だからうつけなどと呼ばれるのだ。


 本物のうつけは自分達であることにも気付かず信長を嘲笑(あざわら)う。

 理解が及ばぬものを忌避し、見下す。


 家中で信長(のぶなが)を正しく見ているのは父、信秀(のぶひで)だけかもしれない。

 そして自分だ。


 信長の守役(もりやく)平手(ひらて)政秀(まさひで)は信長を可愛がってはいるが、小言ばかりで (しか)と捉えているのかは疑問であると信勝は思っていた。


 信勝は父を尊敬し慕っていた。

 その父に認められている信長に憧れていた。


 兄の様になりたいかといえば、それは違うと答えるのだが。


 父を、兄を支え弾正忠(だんじょうのじょう)家を守って行く。

 それが信勝の望みだった。


 ささやかながら難しい願い。


 信勝は戦国の世には珍しく争いを嫌い、血を嫌い、家族の和を望む青年だった。


 信勝は多忙な父の補佐を末盛(すえもり)城で務め、信長は那古野(なごや)で政務を執る。兄弟揃って父の助けとなり、織田弾正忠家を支えていく。

 美濃(みの)斎藤(さいとう)との同盟は成り、 駿河(するが)今川(いまがわ)も今は鳴りを潜めている。 三河(みかわ)松平(まつだいら)が今川に呑み込まれつつはあるけれど。


 尾張(おわり)は束の間、平穏だった。




「信勝、何やら美味い砂糖饅頭があると聞いた故、来たぞ」


 ひょいと信長が顔を覗かせた。


「これは兄上、おいでなさいませ。義姉上もようこそ」


 隣に濃姫を連れ、信長は相変わらずの派手な出で立ちで末盛城にひょっこりと現れた。

 相変わらず何とも機敏な。

 きっと供も 前田(まえだ)犬千代(いぬちよ)やらの小姓数名なのだろう。

 乳兄弟の池田(いけだ)恒興(つねおき)辺りが胃を痛くして探しまわっているのではないだろうか。


「では、取らせて参りましょう」


 砂糖は当時貴重品であった。

 饅頭は野菜を入れた菜饅頭や、塩饅頭が普通で、甘い餡を入れた饅頭は、砂糖饅頭と特別に呼ばれた。


「よい。自分で行く。お濃も参れ」

「はい」


 本当に、軽やかというか行動力があるというか。

 もう少し重々しくても良いのではないかと、時々思う。


「では、参りましょうか。私も食べたくなりました」


 しかしそれが信長らしさであり、鈍重な様は如何いかにも兄らしくはない。

 そのような瑣末なことに頓着するのでは、信長では無い気がした。


「兄上はどうぞそのままで」

「何がだ」


 信勝はくすっと笑った。


「砂糖饅頭のお好きな兄上のままで、いらしてくださいね」


 信長と濃姫は顔を見合わせ、同じ角度で首を傾げた。


「甘いものは嫌いにならんぞ」

「はい。存じております」




 変わらなければいい。

 ずっと、このまま。


 束の間の平穏が、いつまでも続けばいい。

 今が少しでも長く続くよう、信勝は祈った。




 だがそれは叶わなかった。


 (てのひら)から砂がさらさらと零れ落ちる様に。

 呆気なく終わりは訪れた。

ずっと続けばいいと思っていた日々がぷつりと断たれました。

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