十
稲生の戦いにて、信勝側で首級を取られた者は四五〇以上とも言われる。
「多くの者を死なせてしまった……」
暗い顔をする信勝に、津々木蔵人などはわざとらしく明るい声を出してみせた。
「何を仰せられますか。一度くらいの敗戦、何のこともございません。さあ、もう一戦、信長に目に物見せてくれましょう」
否、と信勝は首を横に振った。
これ以上の犠牲はいらない。
十分だ。
十分すぎる犠牲だ。
「いや、此度の戦で思い知った。私は当主の器では無い。潔く腹を切り、兄上にお詫びを申し上げよう」
信長、信勝の母である土田御前は慌てふためいた。
信勝に腹を切らせてはならぬと、清州の村井貞勝、島田秀満の二人を末盛城まで呼び寄せ、自分の使者として信長に様々詫び言を伝えさせた。
信勝は止めたが、母は聞く耳を持たなかった。
「なりませぬぞ!お前様を死なせてなるものですか!」
「兄上が聞き届けましょうか。ここは潔く」
「なりませぬ!」
信勝は困ったように吐息を零す。
こうなると、母は梃子でも動かない。
信長の返答は簡潔であった。
「赦す」
信勝は嗚呼、と天を仰いだ。
「兄上……」
何と甘い。
清州城、ゆったりと座る信長の前で。
墨染の衣を纏った信勝は泣き笑いの表情を見せた。
隣に跪く母が大きく息を吐いた。
安堵の溜め息だった。
何と言う器の大きさか。
だからこそ、私は貴方に此度の戦を仕掛けたというのに。
兄に反逆するものすべて纏めて刈り取る為。
己を旗印に担ぎ上げようとする者すべて。
洗い出し、その芽を摘む。
その為の謀反。
だからこそ、信勝がここで死ぬ必要があった。
旗印を残していてはいけない。
しかし、思った以上に兄の器は大きかったようだ。
その程度は構わぬと、まるごと呑み込むと。
揺らぎもしない。
柴田勝家、津々木蔵人も揃って墨染の衣。勝家など綺麗に頭を丸めてしまった。
今回のことで、信長に甚く心打たれたと見える。
「何とお礼を申してよいやら……」
土田御前も信長に深く深く頭を下げた。
「これからは兄弟揃って弾正忠家を盛り立てていこう」
信長はからりと笑った。
これで家中も全て、信長の度量に打たれることだろう。
もしかしたら本当に、兄を支えて生きる道が開けたのかもしれない。
しかしそれが甘い考えだった言うことを、信勝は遠からず思い知ることとなる。
同年、稲生の戦いから然程経たぬ頃のこと。
織田三郎五郎信広謀反。
美濃の斎藤義龍と申し合わせてのことだった。
信勝が敗れたのは正面から戦ってのことと思い、信広は策を用いることとした。
敵が攻め寄せるといつでも信長は軽々しく出陣する。
そのような時に信広が出陣し、清州を通る。
そうすれば清州城に留守居で置かれている佐脇藤右衛門が必ず出て来て接待をする習慣になっている。
今回もいつものように出てくるだろう。
その際に佐脇を殺害。
その混乱に乗じ清州城を乗っ取り、合図の煙を上げよう。
それを見たら美濃衆は川を渡り、近くまで攻め込んで参られよ。
信広も軍勢を出し、信長の味方の振りをし、合戦になったら背後から攻めかかろう。
策はそのようなものであった。
さて、信長の元に、美濃勢がいつもよりうきうきとした様子で川岸付近に集結したとの報告があった。
「うきうきとはどういうことだ」
信長は胡乱な目で報告者を見遣った。
「そのままの意味でございます。楽しくて心弾むと申しましょうか……」
「意味を問うている訳ではない」
ふむ、と信長は気付いた。
家中に謀反あり。
「佐脇は城を一切出るべからず。町人も構えを厳重にし、木戸を閉め堅め、信長が帰陣するまで何人たりと入れてはならぬ」
そう言い置いて出陣した。
信長の出陣を聞き、信広は手勢を残らず率いて清州へ出陣した。
しかし信広が到着を知らせても門は開かず、中へは入れなかった。
「すわ、謀反が知れたか」
信広は急いで撤退。
美濃勢も謀反失敗を覚り、戦わずして退去。
信長も帰陣。
信広は許された。
弘治三年、三月。
信勝は竜泉寺の築城を始めた。
これは駿河の今川氏に対する防御の物だったが、信長に対し備えるためと捉える者も多く在った。
同年四月。
美濃の斎藤義龍 より信勝へ書状が届いた。
内容は信勝へ再度の決起を促すものであった。
「どうぞ再びのご決起を」
津々木蔵人は懲りた様子もなく、言ってのけた。
信長の威光に打たれたかに見えたのは、間違いだったのか。
暗い表情をすることが多くなった信勝を、市は心配していた。
「信勝の兄上、信長の兄上と仲直りなさったのではないのですか?なぜ、いつも悲しそうな顔をなさっているのです。もうすぐお子も生まれるのに」
信勝は小さく笑うと、市を抱き上げて膝に乗せた。
「そうだね」
信勝は二二歳になっていた。
「まさかこの私が、我が子を抱けるかもしれないだなんて。恵まれ過ぎているね」
「めぐまれすぎて……?」
「私は地獄へ行くのだから」
「兄上?」
「市は幸せになりなさい。私のことなどすぐに忘れるように」
「不思議なことを仰いますね」
市が信勝を見上げると、柔らかい日差しを背に、とても儚い微笑みを浮かべていた。
今にも消えてしまいそう。そんな風に思って。
それがとても悲しくて。
市はそっと信勝の頬を両手で挟んだ。
「兄上、市は兄上が大好きです」
「私もだよ、市。お前が大好きだ」
そっと抱き締めてくれる温もりを、きっと忘れないと市は思った。
何でもない日だった。
穏やかな秋の日。
妻の高子の大きくなった腹を撫で、信勝は静かに静かに微笑む。
「男の子でしょうか、女の子でしょうか。殿に似た子だと良いのですが」
「そなたに似た子だよ、きっと」
慈愛に満ちた表情で腹を撫で、信勝は幸せそうに溜め息を零した。
「ああ、ながくもがなと……こんな気持ちなのかもしれないな」
君がため惜しからざりし命さへながくもがなと思ひけるかな
小倉百人一首、藤原義孝の歌である。
あなたに逢う前は惜しくなかった命ですが、こうしてあなたと逢うことができた今は、いつまでも生きていたいと思っています。
「いやですわ、そんな」
高子はくすくすと笑った。
「ことのはの、うつろふだにもあるものを」
ただでさえ言葉はうつろってしまうものであるのに、とすかさず伊勢の歌を読んで見せるのは流石としか言いようがない。
「敵わないな」
静かで、穏やかな日であった。
運命がひたひたと近づいて来る音がします。




