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白き縁、面嗤ふ契り

 刃浦の中心には、主たる上殿の住まう殿上院を核として、「宮」を冠する家系のみが生活を営む、外界から切り離された特別区画が存在する。

 それを、宮籬(みやまがき)という。


 宮中で起きる出来事の多くは、民衆に知らされることがない。

 日々、何が行われ、どのような暮らしが営まれているのか――その内情を知る術はない。


 宮籬の周縁は、常に清廉な緊張を帯びていた。

 名の通り竹で組まれた垣は、造りの雅やかさとは裏腹に、人を寄せつけぬ威を放ち、その内側を窺わせない。

 許可なく足を踏み入れることは、大罪とされている。



 その格式の高さは、あの紫雫久でさえも背筋を正させ、素直に正座させるほどだった。

 隣でその様子を見ながら、(いつもこうだったら楽なのに……)と思う柚珠葉も、顔には出さないものの、同じ緊張を抱えている。


 殿上院の中でも、五参家の当主ですら数えるほどしか足を踏み入れたことのない表殿域(ひょうでんいき)――

 そのさらに奥、想像も及ばぬほど深くに位置する神儀域(しんぎいき)の一室、契霊殿(けいれいでん)

 彼らは、今まさにその場にいた。



「……なぁ、俺ら、本当に合ってるんだよな?」


 沈黙に耐えきれず、紫雫久が声を潜めて問いかける。


「合ってる……はず。招待されてるし、ここまで通されてるわけだし。

 もし間違ってたら、冗談抜きで、私ひとりの命じゃ足りない」


 柚珠葉は小さく身震いした。


「だよな……。でも、まだ実感湧かねぇな。煌羅嘉が結婚するだなんて……」


 開け放たれた襖から、爽やかな風が吹き抜ける。

 陽の光は燦々と降り注ぎ、訪れたこの佳き日を、過不足なく照らしていた。




 《第六章:白き縁、面嗤ふ契り》





 その一報は、思わず聞き違いを疑うほどだった。


 高氏・高瀬家の子息――高瀬煌羅嘉が、宮籬・宮本家の御息女と婚礼の儀を執り行う。


 弱冠一七歳の煌羅嘉にとっては、あまりにも早すぎる話だ。同世代の紫雫久や柚珠葉にとっても、現実味に乏しく、ほとんど絵空事のように感じられた。

 だが一呼吸置いて考えてみれば、決してあり得ない話ではない。


 高氏現当主である高瀬宗峯(たかせそうほう)は、高瀬領を栄華へ導く一方で、富と権力への執着を隠そうとしない人物として知られている。黒い噂が絶えないのも、今に始まったことではなかった。


「……権力欲しさも、ここまで露骨だと――イッ!」


 紫雫久の呟きは、太ももをつねられて強制的に遮られた。

 時と場所を選ばず口にしてしまうこの悪癖は、どうやら治る気配がない。


 案内役に続いて入室してきたのは、澄々だった。

 紫雫久たちと目が合うと、軽く手を上げて挨拶を交わすだけで、通された席へと静かに腰を下ろす。その様子からも、彼が相応の緊張を抱えていることが窺えた。


 この婚儀には、五参家の子息たちに加え、紫雫久も招かれていた。

 本来、宮中の婚儀に外部の参列者を招く慣わしはなく、家同士のごく限られた人数で執り行われるのが通例である。


 剣警試験の前例が脳裏をよぎる。

 また何か裏があるのではないか――そう警戒はしたものの、宮中からの正式な伝令に背くことはできなかった。


 そして、紫雫久の胸に引っかかり続けているのが、煌羅嘉から届いた招待状の末尾に記されていた一文だった。


 ――「どうか最後まで気を抜かず、刮目して備えよ」


 文脈の合わなさに、誤記かとも思った。

 だが、どれほど考えても腑に落ちる別案は浮かばない。


 これは、何かを――何か重大なことを、暗に知らせようとしているのではないか。


 わずかな嫌な予感と、それでも抑えきれない好奇心を胸に、紫雫久は婚儀への参列を承諾した。





 契霊殿の最奥、並べられた儀式道具一式が整え直されると、その張り詰めた静けさを破るように、重々しい足音が殿内に響いた。

 高瀬宗峯が腰を下ろす。

 ――いよいよ、婚儀が始まる。


 全員が姿勢を正してから、わずかな間。

 廊下の奥より、衣擦れの音が静かに近づいてくる。


 左右の襖が開き、それぞれの側から、白無垢姿の宮本家御息女と、白の紋付袴に身を包んだ煌羅嘉が現れた。

 一式白の装束。金密舵の髪もまとめられ、装飾は一切ない。その姿は、紫雫久の知る煌羅嘉とは別人のようで、ひどく現実味を欠いて見えた。


 並び立つ新郎新婦は、色も温度もなく、ただそこに置かれた“事実”のようだと感じた。



 宮中の式部役が、淡々と婚誓を読み上げる。

 声は澄み、儀は滞りなく進む。


(……ここまでは、何もおかしいところは無い、か)


 婚儀に参列するのは初めてだが、多少格式ばっている程度で、概ね想像通りだ。

 紫雫久が、そろそろ腹の虫が騒ぎ出しそうだと気を緩めかけた、その時だった。


 式部役が取り出した箱の中身に、紫雫久の視線が釘付けになる。



「――これより、戴面(たいめん)の儀へと参ります。

 新婦はこちらの面を」


 新婦の手に渡された面を見て、紫雫久の背筋に冷たいものが走った。

 周囲に悟られぬよう、隣の柚珠葉の膝を軽く叩く。彼にも、きっと見覚えがあるはずだ。


 表の面をそのまま写したような裏の面、そして赤く刻まれた桐の紋――間違いない。

 それは、少し前に海中で断ち切ったはずの、御霊響面(みたまきょうめん)だった。


 気づいてくれ、ともう一度合図を送ろうと、柚珠葉の方へ向き直った、

 その瞬間。



「アぁアアアッ!! アァあゝァァア――!!」



 面を戴いた新婦の、裂けるような金切り声が殿内を貫いた。


 煌羅嘉をはじめ、周囲の者が慌てて駆け寄るが間に合わない。

 新婦の体は大きく反り返り、そのまま床へと叩きつけられた。


 倒れてなお、叫び声は止まらない。

 手足は苦悶に歪み、髪を振り乱して暴れる。

 押さえ込もうとした大人たちの腕には、爪が走り、赤い筋が刻まれていった。


 先ほどまでの静寂が、嘘のようだった。


 新婦を抑えようとする怒号、人を呼びに走る足音、状況を理解できずどよめく声。

 混乱の渦の中心で、御霊響面だけが、異様なほど静かに、新婦の顔に張り付いていた。



 やがて呼ばれた宮中の者によって、新婦は鎮められた。

 ようやく外された面の下には、恐怖に引き攣った表情のまま意識を失った顔があった。

 つい先ほどまで婚儀に臨んでいたとは、誰も信じられないほどに。


 新婦は親族に抱えられ、奥の部屋へと運ばれていく。

 高瀬家も控えの間へと下がり、婚儀は一時中断となった。



「……この場合、婚儀って成立してるのかな」

「さあな。ただ……」


 柚珠葉の問いに、紫雫久は低く答える。


「少なくとも、高瀬の目的は果たしてるだろ」


 契霊殿を後にする高瀬宗峯の背には、焦りも憤りもなかった。

 一瞬だけ視線が合った煌羅嘉の瞳には、抗えぬ結末を知っていた者の、諦観が滲んでいた。




「……ちょっと、どこ行くの」

「え……っと、厠に」


 ふらりと場を離れようとする紫雫久を、柚珠葉が呼び止める。

 一瞬訝しげに眉を寄せたが、「早く戻ってきなよ」とだけ言って、行くのを許した。



 未だ騒めきの残る神儀域の廊下を、紫雫久は一人歩く。


「――だから、反対をしたのだ」


 ひそやかな声が耳に届き、足が止まった。

 視線を向けると、廊下の端で宮中の者らしき男が二人、声を潜めて話している。



「宮家以外との婚姻など、気運が悪すぎる。これは凶兆に違いない」

「とはいえ、殿上様の了承を得た儀だろう?」

「だとしてもだ。参列者に剣士があれほど多いのも、剣脈を乱す」

「……確かに。あれは親族ではないのだろう?」

「新郎の意向だ。――それに」


 男はさらに声を落とし、ほとんど耳打ちするように続けた。


「噂では……新郎は、あの剣士たちを参列させることを条件に、婚姻を承諾したらしい」

「ほう。てっきり、向こうが無理に縁談を進めたのかと思っていたが」

「父と子では、考えが違うこともある」

「……結局、子というものは親の駒でしかない」



(……やっぱり、煌羅嘉にとっても急な話だったわけか)


 紫雫久は、そっと息を吐く。


(でも、こんな場所で俺たちに何ができるってんだ……?)


 廊下の突き当たり、柱の陰に身を寄せながら、左手の親指で中指の爪をなぞる。


(花衣霞なら、何か気づくかもしれない。

 澄々だって、俺たちより近くであの面を見ていたはずだ)



 一度戻って話を――そう思い、踵を返した、その時。


 ――どたん。


 重たい音が廊下に響いた。


「おい、大丈夫か!?」


 先ほどの二人の近くで、誰かが倒れ込んだらしい。

 同じ色の装束。宮中の者だ。


「顔色が……歩けるか?」

「……は、……たす、け……」


 土気色の顔で、かすれた声を絞り出す男。

 紫雫久も駆け寄ろうとした、その瞬間。



「すみません。こちらで引き取ります。……私の患者ですから」


 その声に、紫雫久は凍りついた。


 倒れた男の肩を支える、気品ある立ち姿。

 雪色(せっしょく)の長い髪に顔は隠れているが、聞き間違えようのない声だった。


「……さぁ、戻りましょう」


 連れられる男は、なおも小さく震え、進行方向とは逆へ向けた足先に、かすかな抵抗を滲ませる。


 それでも男は、終始穏やかに、微笑みを崩さない。



 その声音は――

 あの裏夜市で、仮面の隙間から聞いた、


 朧面主の声だった。





(……なんで、あいつがここにいる?

 宮中の人間だったのか……? いや、それより――あの“患者”は……)


 廊下を曲がり、消えていく二つの背中。

 紫雫久は咄嗟に後を追った。


 だが、角を抜けた先に人影はない。


 代わりに、床に点々と落ちる――血。


 紫雫久は目を細め、無意識のうちに刀の柄を撫でていた。




 血痕を辿るうち、足取りは次第に神儀域を離れ、中殿域へと向かっていく。

 いくつも廊下を折れ、いくつも角を曲がっても、追うべき背中は見えない。


(……おかしい。

 この血の量なら、そんなに速くは動けないはずだ)



 やがて、誘い込まれるようにして一つの間の前で足が止まった。


 血痕は――そこで、途切れている。



 紫雫久は静かに息を吐き、左手を刀へ添えた。

 心の中で三つ数え――


 襖を、一気に開く。



「……ッ!」




 勢いのまま刀を抜き放つが、そこに人の気配はない。

 部屋は三畳ほど。縦に並んだ畳が三枚、ほかには何もない空間だった。


(……縁起が悪いな)



 振り返り、入口を見る。

 血痕はこの部屋の前で消え、左右にも続いていない。

 よく見れば、襖の端にかすかな血飛沫。――入ったのは、間違いない。


 紫雫久は中指の爪をなぞる。


 壁に手を当て、ゆっくりと一周。

 当然のように硬く、隠し扉の気配もない。


(陣もない……転移した様子も、ない)



 その時。


 足裏に、わずかな違和感が走った。


 もう一度、同じ場所を踏む。


(……柔らかい?)



 紫雫久は身をかがめ、畳の縁を踏み込んだ。

 ぐ、と力をかけると、梃子のように畳が持ち上がる。


 その下には――血。

 そして、床下へと続く暗い口。



(……さて)


 紫雫久は肩を回し、ひとつ深く息を吸う。


(鬼が出るか、蛇が出るか……)


 そう心中で呟き、迷いなく奈落へと身を投じた。







 降り立った先は、ひどく暗く、ひんやりと静まり返っていた。

 視界の先は閉ざされ、ただ闇だけが横たわっている。


 紫雫久は壁に手を添え、その感触を頼りに歩き出した。

 足音だけが、湿った空気に吸い込まれるように小さく反響する。




 そこは洞窟のような場所だった。

 人の手で穿たれたようでありながら、長い年月を経て自然に削られたような歪みもある。


 ごつごつとした岩肌に足を取られぬよう、慎重に歩を進める。




 ――どれほど歩いただろう。


 向井の街で言えば、市街から海辺へ抜けるほどの距離は進んだはずだ。

 それほどの時間、ただ一直線に、何の分岐もなく歩き続けている。


(わざわざ、こんな不便な一本道……どこに繋がってる)


 宮中から外へ通じるための道にしては、あまりにも簡素だ。

 追手を撒くにも、隠れるにも向いていない。


(……また、誘い込まれているのか)


 闇の中で、あの夜の記憶がじわりと浮かび上がる。


 ――「貴方を殺したがってる者がいましてね」


 朧面主が口にした、あの言葉。

 もしもその依頼がまだ生きているのだとしたら。

 もし、この場がそのために用意された場所だとしたら――。


 そしてもし、宮中がそれに関わっているのだとすれば。


(……宮仕えが、俺を殺す理由ってなんだ)


 思い当たるのは、ひとつだけ。


 あのとき斬った、御霊響面。

 偶然の産物だと思っていたが、宮中から持ち出されたこと自体が禁忌だったのだとしたら。

 口封じのためだとしたら――柚珠葉だって、決して安全じゃない。


(……一緒に動くべきだったな)


 後悔は、いつも遅れて胸を刺す。


(婚儀にも使われていた、あの面……。

 ここには、まだいくつもあるのか?

 危険を冒してまで、誰の“声”を、聞こうって――)


 考えを巡らせた、その瞬間。


 つま先が小石を弾き、乾いた音が闇に跳ねた。


 ――音が、違う。


 前方に、空間が開けている。


 紫雫久は足を止め、息を殺した。


 待ち構えられているとすれば、圧倒的にこちらが不利だ。

 彼は五感を研ぎ澄ませ、闇の向こうに意識を集中させた。




 紫雫久は、足元に転がる小石を一つ拾い上げた。

 先ほどの反響から察するに、広すぎる空間ではない。だが狭くもない。剣堂ほど――いや、それより少し広いか。


 目を閉じ、指先で小石を弾く。


 鋭い音が走り、壁に当たり、反射し、さらに奥へと跳ねていく。


「――――ぁッ!」


 かすかな悲鳴。


 その瞬間、紫雫久は床を蹴っていた。



 ――ギィン!


 火花が散る。


 振るわれた刀は、硬質な音を立てて鉄に阻まれた。

 朧面主の鉄扇だ。


「流石に止めるか」


 しかし、咄嗟に逆手で受けたせいか、鉄扇はわずかに遅れ、朧面主の腕から血が滲む。

 もう片方の腕では、人質の口を強く塞いでいた。顔色は青く、今にも気を失いそうだ。


「また貴方の小石で、危ない目に遭うところでした。……いっそ、それを得物にしては?」

「お前には、小石程度がお似合いってだけだよ」



「なら――これはどうです?」


 朧面主が足元の石を蹴り上げ、同時に鉄扇を振る。


 紫雫久は身を屈める。

 避けられた石は壁に当たり、反射し、何度も音を重ねて空間を巡った。


 ――次の瞬間。


 周囲に仕込まれていた灯りが一斉に灯り、白い光が視界を焼く。


「…………っ」


 その隙を狙って踏み込んできた朧面主の喉元に、すでに刃が突きつけられていた。


 紫雫久は、目を閉じたまま動いていた。

 光に備え、音だけで相手を追っていたのだ。



 肌を刺すような気配。

 それに、朧面主は小さく笑った。


 次の瞬間、男を掴んだまま左腕が振り回される。

 男に刃が触れる寸前、紫雫久は反射的に身を引いた。 この男は、相変わらず人を人と思っていない。



「貴方が気になっていることを、二つほど教えましょう」


 朧面主は男の襟を掴んだまま、平然と続ける。


「一つ。――貴方を殺してほしいという依頼は、今も生きています」


 男がもがいても、腕は微動だにしない。


「二つ。標的はあくまで貴方だけ。向井柚珠葉さんに危害を加える予定はありません」


 “今のところは”と、笑みが添えられる。


 その顔は、仮面を外してなお、どこか実体がなく。

 見えているのに、掴めない。


「……つまり、俺の読みは間違っていて――合ってるってことか」

「ええ」


 “御霊響面を見た口封じのために、宮中の人間が消そうとしている”という見立てへの誤導に、目論見通り引っ掛かっているということ。

 それは、真実の“核”を見えなくするための策か。


(この裏で動いてるのは……何だ)


「考えても無駄ですよ。

 それこそ――この二百年を疑うくらいでないと」


 朧面主は扇を開き、三日月のような笑みを浮かべた。


「……もっとも、貴方にそんな時間は残されていませんが」


 構え直す気配。


「さあ。最期まで、楽しみましょう」



 翻る鉄扇から、苦無が十数本、雨のように放たれた。

 宙を裂く軌道は不自然に揃い、刃先の揺らぎだけが微かに違う。


(――幻覚……いや、この精度……)


 違和感を覚えたが、紫雫久はそのまま踏み込んだ。

 すれ違いざま、頬を掠めた苦無が音もなく霧散する。


 ――だが。


「……ッ!」


 遅れて、左肩に鋭い痛みが走った。

 消えたはずの一本が、肉を裂いて突き立っている。


「嘘とは、ほんの少しの真実を混ぜることで、格段に本物らしくなるものです」


 朧面主の声は、どこか愉しげだった。


 紫雫久は歯を食いしばり、刺さった苦無を引き抜く。

 浅い。だが、幻と実の境目を誤れば致命傷になりかねない。


(高瀬の術式か……なるほど、厄介だ)


「……勉強になるよ」

「お褒めに預かり光栄です」



 踏み込み、斬り上げ、返す刃。

 二度、三度と連撃を叩き込むが、すべて鉄扇に阻まれる。


 苛立ちが募る。

 朧面主は人質を盾に、決して深く踏み込ませない。


 ――不用意に攻めれば、この男は人質の命を簡単に使うだろう。

 それだけは、避けなくてはいけない。



 紫雫久は歯噛みしながら、手元の苦無を放った。

 当然のようにかわされる――が、風を裂いた刃が背後の灯を揺らす。


 生まれた一瞬の闇。


 紫雫久は地を蹴り、背後へ回り込む。


 潮流一拍(ちょうりゅういっぱく)


 確実に、背後の急所のみを狙う。

 ――だが、その視界に映ったのは、人質の蒼白な顔だった。


「……っ」


 刃を止め、身を翻す。

 男の胸を踏み台に、空中で体勢を入れ替えた直後、


 雨のような苦無が降り注ぐ。


「――ぐっ……!」


 かわしきれない。

 刃が皮膚を裂き、血が弾ける。


 奇しくも、傷はあの夜と同じ場所だった。


「……趣味が悪いな」

「ええ。消えてしまう前に、上書きしませんと」


 朧面主は扇を煽ぐ。

 その瞬間、かすかな軋みが走った。


 ――いつの間に、


「……!」


 次の瞬間、視界いっぱいに紫雫久の顔。


 柄で手首を打ち、鉄扇を弾き落とす。

 さらに踏み込み、頭突き。


 鈍い音。

 朧面主の身体が揺れ、膝をつく。


 それでも、人質は離さない。



「……こう見えて、頭は詰まってる方でね」


 紫雫久は息を吐き、距離を詰める。


「次は――左だ」



 その瞬間だった。


 朧面主が、唐突に人質を突き飛ばし、こちらに向い両手を広げた。


「――!」


 好機と見て踏み込む。

 潮鳴りの構え。


 だが――


「――ぁあ゙ッ!」


 次に響いたのは、紫雫久の呻きだった。


「……飛んで火に入る夏の虫、ですね」


 視線を落とすと、

 朧面主の刀が、深々と左腕を貫いていた。


「頭のみそは詰めるばかりでなく、使わなければ」


 血が滴る中、朧面主は静かに笑った。




 いつの間に隠し持っていたのか。

 朧面主の手には、すでに刀があった。


 ぎり、と手首を捻る音。

 鈍く、湿った音を立てて抜かれる刃。


 ――次の瞬間、膝をついたのは紫雫久だった。



 それは大太刀だった。

 この時代ではすでに使い手の少ない、長く、重く、扱いづらい刀。

 にもかかわらず、刃はまるで獣の尾のようにしなやかにうねり、地を舐める。


 ぎ、と不快な金属音が洞内に響く。


 紫雫久は歯を食いしばり、裂けた袖で左腕を縛る。

 血は止まらない。

 だが、それ以上に――目の前の剣士への興奮が、胸を満たしていた。


(……初めて見る、だが……)


 刀を握り直し、低く身を沈めて踏み込む。


 次の瞬間、朧面主の大太刀が旋回した。

 掬い上げるような一閃。


 間一髪で身を逸らす。

 頬をかすめた風圧が、皮膚を裂く。


「……あんまり振りたくないんですよ。重いでしょう?」


 軽口とは裏腹に、刃は容赦なく振るわれる。

 切先を地面に擦り、円を描くように回転。


 その瞬間、空間が揺れた。


 音とも言えぬ震動が鼓膜を撫で、視界が歪む。

 平衡感覚が狂い、足元が浮く。


 ――まずい。


 直後、唸りを上げて振り下ろされる大太刀。


 受ければ、骨ごと断たれる。

 紫雫久は刃を受け流し、跳ね、転がり、どうにか距離を取る。


 だが、追撃は止まらない。


 重い。速い。

 そして、隙がない。


(……間合いが、違いすぎる)


 それでも、紫雫久の目は輝いていた。

 未知の剣、未知の間合い。

 思考は恐怖を押しのけ、解析へと傾いていく。


 少しずつ見えてくる、技の定型。

 ――この振り、次の動作に移るまで僅かに“溜め”がある。


 洞窟を縦横に駆け、岩を蹴り、刃を交える。

 互いに細かな傷を刻み合いながら、戦いは続く。


 そして――


(来た……ッ)


 大太刀が地を削り、斜め下から振り抜かれる。

 次の動作に移るまで、ほんの一瞬、胴が空く。


 紫雫久は身を沈め、刃をくぐり抜ける。


 潮流一拍



 ――ドン。


 手応えが、確かにあった。

 刃が肉を貫く感触。

 骨を避け、心臓へと届く確信。


 紫雫久は、思わず息を吐いた。


 視線を上げられない。

 疲労で膝が震える。

 垂れた前髪の隙間から見えたのは、白い袴。赤く染まりゆく布は、動く気配も無い。


(……違う)


 瞬間、心臓を掴まれたような感覚。



 違う。

 朧面主の袴は、黒だった。


 これは――


「だから、言ったでしょう」


 背後から、指が肩に触れる。


「全てを疑え、と」


 顎を掴まれ、顔を上げさせられる。


 そこにいたのは、

 先ほどまで人質だった、宮中の男。


 そして――


 自分の手が、彼の胸を貫いていた。


「…………ぁ……」


 力が抜ける。

 指先が震える。


 刀から手を離そうとした瞬間、

 上から、別の手が重ねられた。


「ほら、ちゃんと見てください」


 朧面主の声。


 無理矢理、刃を捻られる。


「……や、やめ……っ」


「貴方が、殺した顔ですよ」


 ぎり、と。


 骨が軋む感触。


「――っ、あ゙……!」


 全身を殴られたような衝撃。

 内側から引き裂かれるような激痛。


 口から血が溢れ、視界が赤く染まる。


 右腕が、異様な熱を帯びていく。

 血管が浮き上がり、脈打つたびに激痛が走る。


 理解が追いつかない。

 身体が、内側から書き換えられていく感覚。



 崩れ落ちる身体を、朧面主が抱き留める。


 まるで壊れ物を扱うように、

 そっと、横たえる。


 苦悶にもがく紫雫久の頭を撫で、囁く。


「……この“呪い”、貴方はどこまで耐えられるでしょうか」


 右手は、もはや人の色ではなかった。

 鬼のように赤く染まり、震えながら地を掻く。


「かわいそうに。大丈夫ですよ」


 朧面主は、優しく言った。


「刺したのは、毒の器です。

 元は人間だったかもしれませんが……もう、ただの装置ですから」


 抱き寄せ、まるで赤子をあやすように頭を撫でる。


「この痛みが引いたあと、貴方がまだ生きていたら良いのに」


 言葉が届いているのかどうかも分からないまま、

 紫雫久の痙攣は次第に弱まり、


 やがて、静かに止まった。








 ――カシャンッ。


 遠くで、器の割れる音がした。


 契霊殿の一角が、ざわりと小さく揺れる。参列者の誰かが、差し出された茶器を取り落としたのだろう。大事には至らず、すぐにざわめきは収束した。


 柚珠葉は、それを気にも留めず、同じ廊下を行き来していた。


(……遅すぎる)


 紫雫久が席を外してから、どれほど経っただろう。

 婚儀はすでに中断され、帰る者も増え始めている。残っているのは、嫌に態度の大きな高瀬の重鎮ばかりだった。


「――紫雫久は?」


 背後から声をかけられ、柚珠葉は振り返る。


 立っていたのは花衣霞だった。神事に通じた家の人間として、新婦の容体を見に行っていたらしい。


 柚珠葉は、小さく首を振る。


「……おかしい。ここに危険は無いはず」


 花衣霞の呟きは、低く、独り言のようだった。

 柚珠葉には、はっきりとは聞き取れない。


「紫雫久はどこへ行くと?」

「……厠へ。あっちの廊下を歩いて、行き……ました」


 言い終わる前に、花衣霞は歩き出していた。

 柚珠葉も慌てて後を追う。実はずっと探しに行きたくとも、宮中を一人で歩く度胸は無かったのだ。


 しばらく進んだところで、花衣霞が不意に立ち止まり、膝を折った。


「……血だ」


 廊下の隅に、拭い取られた跡。

 乾きかけた血の染み。


 柚珠葉の背筋を、冷たいものが走る。


「……また、何かに巻き込まれたんじゃ……」


 その時だった。


「二人とも、何してんの?」


 間の抜けた声が、背後から響く。


 振り返ると、そこには紫雫久が立っていた。

 きょとんとした顔で、いつも通りの調子で。


「紫雫久! どこ行ってたの!?」


 思わず詰め寄ると、彼は頭をかきながら笑う。


「いや〜、厠探してたら迷ってさ。気づいたら庭に出てて。

 そしたら子供が池に玩具落としたって泣いててさ。助けようとしたら俺も落ちちゃって――このザマだよ」


 数刻前と色の違う衣を指差し、照れたように笑う。


「だから服が違うんだ。……ほんと無事でよかった。

 っていうか、勝手なことして!変なとこ歩いて、変な罪でも持って帰らないでよ!?」

「なんだよ、変な罪って」


 柚珠葉の百面相に、紫雫久が笑う。

 しかし、花衣霞には何かが違うように見えた。


 彼の右耳。

 髪に隠れるその奥が、うっすらと黒く染まっている。


 思わず手を伸ばした、その瞬間。


「…………っ、」


 す、と身を引かれた。


「どうした? 花衣霞」

「……汚れが」

「、あ〜〜〜! 池に落ちた時かな、ありがとう」


 そう言って、紫雫久は左の袖で雑に拭った。


「そういえば、婚儀は?」

「……新婦には安静が必要。今日はここまでだろう」


「そっか。じゃあ帰ろうぜ、柚」

「うん。早く風呂入りなよ」

「えっ臭う?」

「そうじゃないけど――」


 紫雫久と柚珠葉は、いつものように軽口を言い合いながら、帰り支度を進める。

 

 

 その背中を見ながら、花衣霞はこの違和感に考えを巡らせる。


(右手を負傷した……?いや、隠しているが負傷しているのは左腕。

 なのになぜ、左手を使って拭う)


 そして、紫雫久がついた一つの嘘。


(この宮中に、玩具で遊ぶような歳の子はいない……)


 何を隠そうとしているのか。

 このまま問い詰めたとて、逃げられるのが関の山だろう。


 花衣霞は、きっかり三拍。深く息を吐き目を閉じた。



 すれ違う、雪色の髪の男には気がつかないまま。



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