黒点に満つる屍・上
月も眠る丑三ツ時。
取り締まりを終え、剣番所へ戻ってきた剣警士は、遅い一日の終わりに息を吐いた。
「風見坂か?」
宿直の剣警士が、灯りの下から顔を上げる。
男はそれに頷き、苛立ちを隠しもせず机を囲うようにどかりと腰を下ろした。
「あぁ……面倒な剣士がいて時間を取られた」
「そりゃ災難だったな」
同僚の様子に笑みを浮かべ、労うように茶を差し出す。
「あそこはもう降伏したと思ってたが、珍しい奴もいるもんだ」
「ま、そいつも今頃は臭い飯でも食ってるだろ」
「俺らみたいなのに逆らったのが運の尽きだな」
茶を仰ぐ手が、ふと止まる。
「……なぁ、葉を変えたか? やたらと甘い匂いがする」
「甘い? いつもと同じだが」
怪訝な顔でひとつ鼻を鳴らす。
確かに漂うのは、花を思わせる甘さ。
剣番所はただの屋敷を拠点にしているに過ぎない。
男所帯で、花など生けるはずもない。
漂うのは常に、土と血の匂いだった。
――カタ、
微かに茶器が揺れたと思った瞬間――目の前の壁が血に塗れていた。
「――え……う、わぁぁぁあっ!!」
思わず椅子を蹴って飛び退き、部屋の角に背を押し付ける。
壁には、さっきまで談笑していたはずの横顔が、潰された蚊のようにへばりついている。
ずず……と壁をずり落ちるその体は、あらゆる方向に関節が折れ、人とは思えないほどひしゃげていた。
それが突然、何の前触れもなく目の前で起こった。
辺りを見回しても、この狭い部屋の中に人影はない。
――いや、人がいたとして、誰がこのような所業を成し得るというのか。
強い花の香りに思考が霞む。
視界が黒く滲んでいく。
目が眩んだのではない。
影。
部屋を覆い尽くすほどの巨大な影が、ゆっくりと床を這い、壁を登っていく。
「……お、に……?」
振り下ろされる拳に、すべてが弾けた。
《第十三章:黒点に満つる屍・上》
――ヒュンッ
鋭い風切り音がひとつ。遅れて、一帯に伸びる竹々が波打ち、円を描くように次々と倒れていった。
「すごいすごい! これでこそ紫雫久だよ!」
拓けた竹林へ向かい、瑪瑙羽は飛び跳ねながら歓声を上げた。
円の中心に立つ紫雫久は、刀身に走る刃紋を見つめる。
「紫雫久?」
「ん?」
「まだ違和感ある? 些細なことでも、遠慮なく言ってね」
鼻息も荒く、身を乗り出して問う瑪瑙羽に、紫雫久はふっと肩の力を抜いた。
「いや、流石は瑪瑙羽。思った以上の刀だ」
上身は刀とは思えないほど薄く、箸よりも軽い。
しかし、ひとたび紫雫久が振るえば、吹き抜ける一瞬の風のうちに大木は凪ぎ倒れ、岩は砕けた。
「うん。この軽さに慣れる鍛錬は必要だが、思った通りだ。
この、潮晶も……」
言いかけて、紫雫久は言葉を止めた。
潮の流れのように揺蕩う刃紋。井氏の流動的な太刀筋を象徴するそれは、血禍封刀で溜め込んだ血によって赤黒く変色していた。
「実はね、その潮晶は井氏の職人に打ってもらったんだ」
「……なんだって?」
僅かに眉を寄せる紫雫久に、瑪瑙羽は慌てて言葉を継ぐ。
「あっ、もちろん詳しい話はしてないよ、紫雫久のことも。
でも職人たちの中で筋は通しておこうって一声かけたら、それなら俺にやらせろって人が現れて……」
「その職人が、井氏の?」
「うん……“俺は紫雫久の、井氏一の剣士の刀を打った男だ。任せろ”……って」
虚を突かれたように、紫雫久は目を瞬かせた。
瑪瑙羽の言葉を、何度も頭の中でなぞる。
「俺の……刀を……?」
紫雫久は静かに刀を見下ろした。
「……ありがとう、瑪瑙羽」
「いいって、いいって!」
満足げな笑みを浮かべた瑪瑙羽が、紫雫久の背をばんと叩く。
その拍子に、紙がぐしゃりと潰れる音がした。
よく見ると、瑪瑙羽は筒状に巻いた紙を手にしていた。
「……それは?」
「あぁこれ? さっきそこで配ってたんだ〜!
最近刃浦で話題の、怪・談・話だって!」
好奇心を抑えきれない顔で、瑪瑙羽は飛び跳ねんばかりにその瓦版を掲げた。
読売が密かに配っていた代物らしい。
戦場はあんなにも怖がるのに、怪談にはこうも前のめりなのかと、
紫雫久は――こちらの方がよほど奇怪だと思った。
「花衣霞ぁ」
襖を開けた先。滝音を孕んだ庭を望む縁側に、花衣霞はいた。
紫雫久の声に、ゆっくりと視線を上げる。
坐禅を組んだ膝に乗せられた重みを撫でる。その手つきは、ひどく穏やかだった。
「お疲れ様。刀はどうだった」
「最高! 思った以上だったよ」
「それは良かった」
髪を撫でる途中で引っかかった笹の葉を、一枚つまみ取る。
猫のように膝で身を丸める彼の、その確かな剣技の再来を思い、自然と頬が緩んだ。
花衣霞はそのまま紫雫久の顎に手を添え、静かに口を寄せる。
さらさらと頬に落ちる髪は、陽光を遮る帷のように、二人を世界から切り分けた。
啄むような口付けの最中、ふと紫雫久の指が花衣霞の唇に触れる。
「花衣霞、血を吐いたか?」
くるりと見上げる中紅花の瞳が、真偽を測るように揺れた。
「大したことはない。少し咳込んだだけだ」
花衣霞はそのまま頬を撫で、言葉を継ぐ。
「一瞬、伍剣の念が強まった。動きは少ないが……追えている証拠だ」
「無理だけはするなよ?
もし花衣霞が念に引っ張られて戻れなくなったら、その綺麗な顔が腫れるくらい殴ってやるからな」
「ふっ……それは、とても楽しみだ」
花衣霞は小さく笑い、紫雫久の鼻先に軽く口付けた。
「……ところで、君はそこで何をしている?」
「ワ!」
視線を部屋の入り口へ向けると、そこにはしゃがみ込み、両手で顔を覆った瑪瑙羽の姿があった。
「あっ、ごめんなさい。気配はなるべく消してたんだけど……
って、あれ? これって私が悪いのかな? 勝手にくっつき合ったのはそっちで……」
「あぁ、そうだった。
瑪瑙羽が面白いものを貰ってきたって言うから、みんなで見ようって話だった」
紫雫久は特段気にする様子もなく、体を起こす。
「わぁ、そのまま進行してる。
一応、聞いていいか迷ったんだけどな? あなたたち、いつからそんな仲なの、とか」
「何をぶつぶつ言ってるんだ?」
「なんでも!」
瑪瑙羽はすべてを諦めたように息を吐き、二人の前へ進み出ると、手にしていた半紙をばん、と置いた。
瑪瑙羽が貰ってきたのは、怪談話『黒点に満つる屍』。
「さわりだけ読んでみたけど、これは五指に入るほどの傑作だね」
得意げな顔で熱弁する瑪瑙羽を横目に、紫雫久はその怪談話へざっと目を走らせた。
内容はこうだ。
黒点の地に点在する盗賊の屋敷。迷惑な騒々しさもその夜は鳴りを潜めた。
不審に思った隣家の商人が屋敷の戸に耳を寄せると、中から畳をひっくり返したような激しい音がひとつ。
おっかなびっくり足を踏み入れると、そこには叩き潰された柘榴のような盗賊たちの姿。
慌てて引き返そうとした刹那、目の前を覆ったのは、部屋いっぱいを埋め尽くすほどの体躯に、人の顔ほどもあるぎょろりとした瞳を持つ大男だった。
商人は腰を抜かしながらも必死に逃げ帰り、扉を固く閉ざした。
今も盗賊の屋敷は次々と襲われている。
次は――どの屋敷が襲われるのか……。
「今も商人は震えているんだよ。次は私かもしれないって……!」
「これを読売から貰ってきたんだよな?」
「そうだけど……?」
質問の意図が分からず、きょとんとする瑪瑙羽。
「これは、実際に刃浦で起きた事件を伝えている」
「え!?」
市井に張り出される高札と違い、読売が密かに売り捌く瓦版はそれぞれ裏の面があった。
「つまり、黒点……黒木かな、そこで特定の組織の拠点が襲われてるってことだよな。
盗賊って何のことだ?」
「何かを奪う者……読売を読む民が奪われたものといえば、高瀬の剣警によって侵略された土地だろう」
「じゃあ“盗賊”ってのは、剣警士のことか」
紫雫久は瓦版に目を走らせながら、中指の爪を擦った。
「彼らは制圧した地の屋敷を拠点にしている」
「決まりだな。あとはこの大男、か……」
「この通りの人物が実在するなら、瓦版になるより先に人々の噂に上っているはずだ」
「てことは何かの比喩? 日熊でも出たか?」
「もしくは、現場の様子から想像された姿かもしれない」
現実的な考察を交わす二人にむくれていた瑪瑙羽も、そのやり取りを聞くうち、次第に身を乗り出していた。
「人にはできない何かが力を振るってるってこと? 怪異とか?」
「怪異か……。それより、この紙、端が妙じゃないか? 破り取ったみたいだ」
「え! そうかな!?」
紫雫久の指摘に、瑪瑙羽は大げさなほど肩を跳ねさせた。
右手が左の袖口をぎゅっと掴むのを見て、紫雫久は間髪入れず手を伸ばす。
「あ! ダメだって!!」
読み通り、瑪瑙羽の左袖の内側には、切り取られた紙片が隠されていた。
そこに残されていたのは、たった一文。
――今も怯えている。井上紫雫久の亡霊からは、逃れられない。
「だから……だめだって言ったのに……」
友人が悪霊のように扱われている文面など、見せたくはなかった。
だが見られてしまった。
瑪瑙羽は眉尻を下げると、両手を袖の奥へ押し込めた。
紫雫久は、その一文を黙って読み終えた。
そして、
「ほぉーン」
と片眉を持ち上げ、口端を歪める。
「俺が犯人ってんなら——現場に戻らねぇとなぁ」
屋敷の中は、血の匂いで咽せ返るようだった。
床に転がる死体は、横たわるというより、打ち捨てられたと形容する方が近い。
「……酷いな」
「皆、怖がって手をつけられずにいるようだ」
「確かにこれを見りゃ、人の仕業じゃねぇと思うよなぁ」
紫雫久が見下ろす死体は、関節の向きが合っている部位がひとつもない。
着物をめくれば全身に内出血が浮き、凄まじい力で一瞬のうちに叩きつけられたことが見て取れる。
「人ひとりにつき、壁の血痕がひとつ。力任せに壁へ叩きつけられて死んだ。
……言っちまえば死因は単純だが」
「並の人間の腕力では、不可能だろう」
紫雫久は小さく息を吐き、中指の爪を撫でながら室内をぐるりと見回した。
「争った形跡も無けりゃ、荒らされた様子もない。
動物の仕業にしちゃ……綺麗すぎる」
死体の惨状とは裏腹に、犯行現場は異様なほど整っていた。
机の傍らにある椅子が一脚、何かに引っかかったように倒れているだけ。机上の二つの湯呑みは、中身すらこぼれていない。
「犯人の侵入経路も見えない」
花衣霞は、傷ひとつ無い戸に指先を滑らせた。
ガラス戸のそれは、開ければガラガラと音を立てる。立て付けも良いとは言えない。それにもかかわらず、逃走の最中であろうに戸はきちんと閉められていた。
「侵入に気づかない、なんてことは無いよな……顔見知りだったか?
それとも、瑪瑙羽の言うように怪異の仕業か?」
その言葉に、花衣霞は静かに首を横へ振る。
紫雫久も頭を掻き、短く息を吐いた。
お手上げだった。
陣も、呪いも、怪異の痕跡も、
紫雫久と花衣霞、その二人が揃って見逃すはずが無いのに。
もう一度、潰れた死体の前にしゃがみ込む。
その拍子に死体の髪が揺れ、ほんのりと花の香りが立った。
「花衣霞」
紫雫久に手招かれて寄ると、そのまま襟元をぐっと引かれた。
首元に顔を寄せ、鼻を鳴らす紫雫久。
「……どうした」
「この屋敷に、花は無いよな?」
花衣霞は記憶を辿る。広くもない屋敷の中に、生け花はおろか、中庭さえ手入れされた様子はなかった。
「この死体だけなんだよ。微かに、花の香りがする」
その言葉に死体へ近づくと、血の匂いの奥に、確かに甘い香りが漂っていた。
果実を思わせる甘さの底に、墨汁のような渋みが潜んでいる。
「――蝋梅の香りに似ている」
「どんな花だ?」
「毒性のある危険な花だ。特に種子には神経毒が含まれる。口にすれば痙攣を引き起こし、最悪の場合は死に至る」
「なるほどなぁ……」
紫雫久は思案するように遠くを見やり、そばの机に腰掛けた。
そしてそのまま、机上の湯呑みを一気に煽る。
花衣霞の背に、ひやりとしたものが走った。
「紫雫久!」
花衣霞が湯呑みを叩き落としたが、遅かった。
かしゃん、と遠くで割れる音が響く。
「ゔっ……」
――それよりも、目の前でうずくまる紫雫久だった。
「すぐに吐き出して。まだ間に合うから」
口元を覆う手を外させて頬を覗き込む。
しかし顔色に変化はない。呼吸にも乱れは見当たらなかった。
「……ゔぅ、まっず……いつの茶だよこれ……」
「…………」
顔を顰めて呟く紫雫久に、花衣霞は目を細める。
「茶に含まれた蝋梅で動きが鈍ったかと思ったが……外れだ。ただの茶だ」
放置された不衛生な茶に咳払いしたところで、花衣霞と目が合う。
「どうした? そんな、水面に浮かぶ月みたいな顔して」
「…………次から、こういうことをする前にまず私に言って。
私の方が知識があるから」
「本当に? なんで?」
「大抵の薬草や草木に含まれる毒なら、あらかたの成分はこの舌で効き分けられる」
「すごいな、花衣霞!」
思わぬ特技に、紫雫久は目を輝かせた。
「わかった、次からは花衣霞に頼むよ」
「うん」
花衣霞は安堵した。
たとえ同じ速度で、毒花の香りを放つ二つの死体の共通点である茶を怪しいと思い至っても、それを自ら確かめる速度には追いつけない。
このままでは、いつ本当に誤飲しかねない。
自身で確かめるより有効な手段があると知れば、しばらくは回避できるだろう。
花衣霞は紫雫久の口元を指で拭った。
死の危険でない限り夢に現れないというのも、少し考えものだと思った。
「いらっしゃいませ!こちらに…………」
「気にするな。顔の傷を見せたくない」
「あぁ、はい……こちらへどうぞ」
客の言葉に、店員は怪しみつつも席へと案内した。
二人連れの客は、一方は目を引く美丈夫。もう一方は席に着いてもなお笠を外さない。
笠の縁から垂れる薄布のせいで、それが男か女かも判然としなかった。
ただ、わずかに覗いた紫烏色の髪に、どこか見覚えがある気がして――
「お勘定!」
「はーい!今すぐ!」
呼び声に、店員の違和感はあっさりと霧散した。
「……やっぱり怪しまれたじゃないか」
「この程度なら問題ない」
帔の内側から、紫雫久が小声で不満を漏らす。
黒木領の調査にあたり、紫雫久は再び身を隠す必要があった。笠で顔を覆い街を歩く案は、花衣霞の提案である。
女装よりは数段手間が省けるが、屋内では不自然さが拭えず、何より自由に話せないのが窮屈だった。
「俺は別に、苦じゃなかったんだけどな」
運ばれてきた煮物を摘みながら、なおも愚痴は続く。
「長短はどちらも同じだ」
「じゃあ……!」
「君が他人から色目を使われる。
私にとって、それは大きな損失だ」
真っ直ぐに向けられた眼差しに、鼻先からじわりと熱が広がる。
「色目なんて、使われてないけど……」
「次案は、君を籠に入れて背負う方法だったが……そちらの方がよかったか?」
「いい、いい! 笠が一番、良案だよ」
紫雫久は慌てて首を振る。
こういう時の花衣霞は、どこまでが本気で、どこまでが冗談なのか判別がつかない。
「あ、でも一理あるかもしれない」
紫雫久は箸の先をぴんと立て、思いつきを掴んだように言う。
「俺たちはずっと、何かを“呼ぶ”方法を考えてたけど……彼らが“運んだ”可能性もあるってことだよ」
花衣霞は人差し指で顎を撫で、静かに思案する。
人ならざるものを呼ぶには依代が要る。だが剣警士たちが自ら運び込むのなら、その手間は省ける。
条件さえ整えば、呪力の宿らぬ簪ひとつでも、同様の惨状を引き起こせるだろう。
「……確かに。それなら痕跡を追えないのも頷ける」
「だろ? 例えばさ、筆と皿にそれぞれ反対の術を施しておいて、二つが近づいた時に力が反発し合った衝撃で人が飛ぶ……とかな。あとは――」
紫雫久の妙案は、湧水のようにとめどない。
そのひとつひとつを聞きながら、この男は普段からどれほど思考を巡らせているのかと、花衣霞は笑みをこぼした。
「――“運ぶ”といえば、ひとつ思い出したことがある」
花衣霞が、懐から取り出した木箱を卓に置いた。
「何だ?」
「黒木澄々から、人を介して託されたものだ。
何かあれば使え、と」
「何かって……また抽象的な……」
紫雫久は言いながら、箱の蓋を開けた。
「小鐘か? あいつン家って寺だっけ?」
「いや、そういう話は聞いたことがない」
箱の中身は、手で握れるほどの小さな鐘。
黒く鈍い色をした鐘には、びっしりと文字が刻まれている。
「渡してきた奴は誰だ? 他に何も言ってなかったのか?」
首を捻る紫雫久に、花衣霞は酒を注ぎ足してやる。
「名は、柳木宏花と。
本来なら、紫雫久に渡すつもりの口ぶりだった」
小鐘にも、その名にも、心当たりは無かった。
だが、少し見ただけでも伝わってくる複雑な術式の気配に、好奇心が惹かれてしまう。
「まぁ、貰えるものはもらっとくけどさぁ――」
「ひぃっ! か、勘弁してください!」
器の割れる音と、店員の悲鳴が店内に弾けた。
見れば、尻もちをついた店員の前に、いかにも柄の悪い大男と、その取り巻きが立ちはだかっている。
震える胸倉を掴み、荒々しく揺さぶる。
「俺の言うことが聞けねぇってのか!」
「何も難しいことは言ってねぇだろうが、なぁ?」
「勘弁してください……! それだけは、無理なんです!」
「――すみません、騒がしくて……」
紫雫久たちの卓へ、別の店員が酒を運びながら頭を下げる。
紫雫久は花衣霞に目配せした。話せない代わりに事情を聞け、という無言の催促だ。
「……何があった?」
「あ……いえ、大したことではございません。
明日もここで食事をしたいと仰るので、事情を説明してお断りしたところ……あのように」
奥から用心棒を連れた店主が現れ、大男たちを外へ追い出す。
やがて店内は、何事もなかったかのように賑わいを取り戻した。
紫雫久は顎でわずかに店員を示し、続きを促す。帔越しでも、気配は落ち着かない。
「明日は何かあるのか?」
「お客人は旅の方でしょう。ここらで起きている謎の襲撃事件はご存知ですか?」
「あぁ」
「あれらは決まって、新月の夜に起こるのです」
月が隠れ、市井が闇に沈む夜――。
「明日は新月。ここらの店はもちろん、どの家も門を閉ざし、皆ひっそりと息を潜めます」
どうかお気をつけて――そう言い残し、店員は卓を離れた。
「新月か……怪異にとっては絶好の機会だな」
「だが周期が定まっているなら、その裏には人の意図がある」
「剣番所を潰したい人間なんて……高瀬以外には、掃いて捨てるほどいる」
紫雫久は徳利を傾け、そのまま酒を煽った。
「ま、行けばわかるか」
その影が、ほんの一瞬だけ風に揺らいだように見えた。
黒木領に設置された剣番所は四箇所。
宵継小路
異灯坂
緋影原
「――そして、燼花町。
ここが、襲撃に遭っていない最後の場所だ」
月明かりさえ目を伏せるような夜。
灯の落ちた歓楽区の一角に、風に揺れる灯篭のごとく、頼りなく光る剣番所があった。
紫雫久と花衣霞は、通りを挟んだ向かいから静かに様子を窺う。
「在駐は五人。外に出ているのが二人か……。
今のところ、不審な動きは無いが……」
「陽が落ちてからが、本番だろう」
低く交わす言葉。
二人の手は重ねられ、その間には鏡の破片が挟まれている。
「にしても便利だな。裂華聴法だっけ?」
「うん。破片さえ紛れ込ませれば、共振によって声くらいは拾える」
華裂鏡と、佐藤の血に宿る追跡の力を応用した占法。
だが盗聴と紙一重の術であるため、佐藤家では好まれぬ技でもある。
「便利なのになぁ…………お、残りの二人が戻った」
玄関をくぐる影。
ほどなくして、破片越しに話し声が滲み出す。
『どうだった?』
『どうもこうも、誰もいなくて退屈だ』
『雑魚は怯える姿くらい見せて、楽しませろってんだ』
『気が利かねぇな。ここは歓楽区だろうが』
『それに比べて、この間の命乞いは傑作だったな』
耳障りな笑い声が弾ける。
「……薄々感じていたが、剣士として未熟にも程があるな」
紫雫久の低い呟きに、花衣霞は静かに目を伏せた。
『でもよ、外に一匹、のろまな鼠がいてな』
『背を丸めてこそこそ歩いてやがるから、ケツを蹴ってやったんだ』
『笑えるほど転がりやがって。お前らにも見せてやりたかったぜ』
この手の下卑た話が、夜通し続くのかと辟易しかけた、その時――
『なんだ、やたら良い匂いがするな』
『本当だ。花か?』
紫雫久と花衣霞は、無言で視線を交わす。
――まさか、これが鍵なのか。
『お前、何か隠してるんじゃねぇか?』
『何もな――』
――バンッ!
突如、壁が打ち砕かれたかのような轟音が響く。
続いて上がる、剣警士たちの驚愕と恐慌の悲鳴。
その刹那、紫雫久はすでに走り出していた。
『おい!何だ!?』
『誰だ!」
――バンッ!
轟音は、華裂鏡を介さずとも鼓膜を打つ。
「お、おに……!」
「ひぃ! く、来るなぁ!」
――バンッ!
襖を引き開けた、その目前で血が弾けた。
(なんだ……これは……!)
むせ返るほど濃密な蝋梅の香りが、室内に充満している。
だが――そこに“何か”の姿は無い。
大男も、怪異も。
壁には、叩きつけられた衝撃で皮膚が裂け、血に塗れた死体が、三つ。
「た、助けてくれ!」
紫雫久に気づいた剣警士の一人が、足元へ縋りつく。
つい先ほどまで嘲っていた声とは、似ても似つかぬ怯えようだ。
「何があった!?」
「わからねぇ!仲間が、ふ、ふ、吹っ飛んだ!助けてくれ!」
涙と鼻水で崩れた顔の男は、半ば錯乱したまま叫ぶ。
部屋の奥では、もう一人が壁際に背を押しつけ、震えていた。
――その傍らで、影がわずかに揺らぐ。
「――しゃがめ!」
反射的に、紫雫久は叫んだ。
直後、耳を引き裂くような暴風が室内を薙ぎ払う。
(な……今のは……)
空間ごと、振り払われた。
心拍が一気に跳ね上がる。
花の香りが、意識を鈍らせる。
視界が揺らぎ、傾きかけた身体を――花衣霞が静かに支えた。
「……見えるか?」
「何も。確実に存在はあるが……」
壁際の男が、震える足を引きずるように一歩、こちらへ踏み出す。
「ここから、だ、出して、くれ……!」
その身体が、ふっと影に覆われた。
「避けろ!!」
瞬きをする刹那――男は赤く弾けた。
「……影、か……?」
紫雫久が、低く呟く。
吹き飛ぶ直前、確かに見えた。
鬼の形を象った、巨大な影。
大きな掌が男を包み込み、振り抜かれると同時に、その体は壁へと叩きつけられた。
――そんな術、聞いたことがない。
それでも、今ここで、確かに起きた。
花衣霞も右手を腰の刀へとかける。
だが、その表情には僅かな困惑が滲んでいた。
相手は影。
刀は、どこを裂く。
灯明皿の火が、ゆらりと揺れる。
影が足元からせり上がる。
影の右手が開き――
――バンッ!
次の瞬間、背に痛みが走った。
衝撃が迫る直前、花衣霞が咄嗟に刀を抜き放ったが、避けきることはできなかった。
「……奇妙だ。刀が触れた一瞬だけ、何かに触れた手応えがある」
花衣霞は手首を軽く振り、刀を構え直す。
その間も鬼の影は、ゆったりと壁面を滑る。
「これ、効くと思うか?」
泡を吹く剣警士を脇へ退けた紫雫久が、花衣霞の隣に並ぶ。
「わからない」
「まぁ、せっかくだし。試してみるか」
そう言って、右手で刀を抜く。
刀身が、どくん、と脈打つ。
切先から、ひと雫――血が滴る。
その刹那、足元の影が大きく轟いた。
構えた刀に確かな手応えが走る。
受け止めず、流す。力をいなし、そのまま刃を滑らせて――一閃。
――ギャァァァァ
咆哮が、耳朶を引き裂く。
「――ッ!!」
顔を顰めた一瞬で、身体が宙へと弾き上げられた。
背を打つ衝撃。
耳鳴りが残響する中、再び影が襲いかかる。
花衣霞が間に入る。
だがその刀では、衝撃を逸らすのが精一杯だった。
闇が光を押し退けるような攻撃が続く。
受け流す隙に、切先が描くのは対魔の陣。
鬼の腕は止まらない。
(……これでも、駄目か)
わずかに右脚を庇う動きをした、その一瞬のうちに
文机が目前へと迫っていた。
そのまま花衣霞の身体が押し飛ばされる。
「花衣霞!」
壁際へ叩きつけられ、すぐには立ち上がれない。
血の気が引き、寒気が襲う。
左肩に、鈍い“折れ”の感触。
鬼の影は、再び部屋中の壁を這い回る。
紫雫久は静かに息を吐き、刀を構え直した。
――グァァ!
鬼の手が迫る。
確実にいなし、身を翻し、次の一閃へ。
だが――何かがおかしい。
(暗い……この影は、どこから――)
はっと振り向く。
剣警士を押し潰そうと、鬼の手が迫っていた。
「うわぁあああっ!!」
「やめろ!!」
踏み込み、手を伸ばす。
「――ア゙ぁッ!」
一瞬。
手首と肘が裂け、身体ごと後方へ弾かれた。
鬼の影ではない。
――刀傷。
この太刀筋には覚えがあった。
痛みを噛み殺し、土煙の向こうを睨む。
「――チッ」
その奥から、聞き慣れた気配。
「本当に、しぶといね。紫雫久は」
煙の向こうの男が、剣警士の襟首を掴んでいる。
向けられる視線には、露骨な憎悪。
「……あの時、ちゃんと殺しておけばよかった」
「…………柚……」
裂かれた刀傷から、じわりと血が滲んだ。




