《番外》影写
「…………ぁッ……ん……」
「……は、……宏花……」
月も隠れる丑三つ時。
黒木邸の離れでは、絡み合う吐息だけが静寂を乱していた。
「宏花……」
熱に浮かされたように名を呼ぶ澄々の頬に、震える手が触れる。
澄々は甘えるように頬を擦り寄せ、その掌へと口付けた。
それだけで、宏花の思考はじわりと痺れていく。
そのまま指を絡め取られ、顔の傍へと縫い留められる。
いつの間にか敷布団はずれて、手の甲に触れる畳のざらつきが、妙に欲情を煽った。
宏花の左手が澄々の首へ回るのを合図に、ぐっと距離が詰まる。
「――ッん……ふっ……んんッ!」
急所を押し潰され、脊髄を稲光が駆け抜けるような衝撃が走る。
声を上げかけた唇は、覆い被さる澄々の口に塞がれ、逃げ場を失った。
太腿は痙攣し、宙に浮いた脚が反射的に澄々の胴を挟み込む。
「……すず、もう……ぁ――ッ」
「もう出ない? そんなの、随分前からだよ」
それは甘く柔らかな檻だった。
澄々の鍛え抜かれた体躯に囲われた、この影の中は。
まるで、今夜が最後であるかのように強く、切ない。
澄々の背に爪を立てながら、宏花は思う。
近頃の黒木領は血煙が絶えない。
今日も剣警士により黒木の牢屋敷が制圧されたばかりだ。
玄燈様でさえ手出しを躊躇うほど、情勢は複雑に絡み合っている。
――こんなことをしている場合ではない。
いや、こんな時だからこそ、なのか。
「まだ余裕?」
「……ん、ぁあ゙っ――!」
不満げな顔の澄々が、臍の下を掌で押し込む。
逃れようのない衝撃に、顎が跳ね上がった。
「誰のこと、考えてる……ッ?」
「ぁ……ちが、――い、やめ……」
「余所見、しないで」
「んん――ッ」
相変わらず勘が鋭すぎる。
加える力は容赦ないのに、不安げに揺れる瞳だけは幼い頃のままで――それが厄介だった。
宏花は必死に、澄々と繋がれた右手を握り返す。
「なに……?」
揺れがようやく収まり、息を吐く。
言葉にしようとすると、音ばかりが喉を滑った。
「……は、ちが……あたま、痛い……から」
涙を滲ませた訴えに、澄々はゆるりと目尻を緩め、宏花を抱き寄せる。
拗ねるのも早ければ、機嫌が直るのも早い。
「まったく……宏花は、わがままなんだか――らッ!」
「ぇ……」
合図のように上半身が浮き、視界が回転する。
「あ゙っ――ッ!」
向かい合わせに座らされるこの体勢では、自重に逆らえず、踏み込んではならない深みへと迎え入れてしまう。
痙攣する体を逃がさぬよう、強く抱きしめられる。
澄々は耳元へ唇を寄せ、口付けの合間に囁いた。
「……宏花。今から言うこと、ちゃんと覚えて」
宏花は虚ろな瞳を僅かに見開き、同意の代わりに澄々の背へ爪を立てる。
「……西の下屋敷。居間の帳、その奥の隠し棚にある木箱を――佐藤花衣霞に渡せ」
情事には不釣り合いな“命令”。
常に盗聴の可能性がつきまとう黒木で、澄々はときどきこの方法をとった。
それだけ、この任務が機密事項だという証でもある。
「本当は別の奴に託したかったが……消息が追えないなら、仕方ない――んっ」
宏花は口付けで、その言葉を塞ぐ。
「……俺には怒るくせに、お前は他の男の話ばかりだな」
「宏花の準備が整うのを、待ってただけだよ」
澄々は声を緩め、宏花の喉元に噛みついた。
宏花が目を覚ましたのは、翌日の昼八ツだった。
体を起こすのが、ひどく億劫だ。
腰は重く、喉は枯れ、ぼんやりとした熱が残っている。
寝間着が新しくなっていることだけが救いだった。
宏花は目を閉じ、澄々の命令を反芻する。
言うつもりなら最初から無理をさせるな、と苛立ちながら身を起こした。
「……まったく、兄使いが荒い奴だ」
伸びをした手首には、これ見よがしに澄々の跡が刻まれていた。
宏花はそれを親指でぐい、と拭い、消えないしぶとさに小さく笑った。
――刃浦への叛逆の意思ありとして、黒木澄々はその身を投獄された。
それは、宏花が任務を終えて二日後のことだった。
《番外:影写》




