呪血に応える細刃
花衣霞が目を通した冊子には、次のように記されていた。
――井上家に生まれし赤子は、生後百日の折、
井上澪一の心臓血を飲み、その身に加護を宿す。
井上澪一が死んだ日から、この風習は始まった。
彼の無念を、決して忘れないために。
その話を聞いたとき、紫雫久は凍涙の香に誘われて見た夢を思い出した。
幼い自分を抱きしめ、母が繰り返していた言葉。
『ごめんね。これを全部飲んだら……
美味しいもの、たくさん食べさせてあげるからね』
あれは――
この儀式の最中の記憶だったのだ。
諦めていた家族という記憶の断片に、鼻の奥が、じんと熱くなる。
「この儀式が行われた証として、井上澪一の血を飲んだ者は、心音が二重に鳴る」
花衣霞の言葉に、紫雫久は胸に手を当てる。
とと、とと、とと……。
こうして井上の代を重ねるごとに、血と願いは濃く積み重なっていった。
やがてそれは、祈りの域を越え――呪いへと変貌する。
「君は生まれながらにして、強い呪いに満たされていたということになる。
剣喰の呪いの進行が遅かったのも、この呪いに圧されていたからだ」
「なるほどな。
俺はかなり運が良かったってわけだ」
命のかかった事実を前にしても、あっけらかんと笑う紫雫久に、花衣霞は小さく息を吐いた。
どうすれば、もう少し危機感を持たせられるのか――未だ答えは出ない。
「井上の血に流れる呪い……仮に、心呪と呼ぼう。
紫雫久の例から見て、これは呪いの中でも、最高位に近い」
そして、と花衣霞は続ける。
「人の怨念を喰らう上もまた、呪物と呼ぶべき存在だ」
「つまり井上家は、長い年月をかけて、
上に対抗しうる特効薬を生み出した……ってことか?」
「うん。心呪には、念を抑え込む力がある」
紫雫久は、手のひらを陽に翳した。
透けて見える血潮は、呪いであり、願いであり――
井上の者たちが代々背負ってきたものだった。
「……花衣霞。ひとつ、見えたかもしれない」
その瞳には、迷いがなかった。
「これが形になれば、
上の喉元に、手をかけられる」
《第十一章:呪血に応える細刃》
福田家の大広間は、落ち着いた色合いでありながら、欄間に施された松の意匠が細部への心配りを感じさせる造りだった。
茶菓子をつまみながら待っていると、奥からぱたぱたと慌ただしい足音が近づいてくる。
「――お待たせしました。あの……佐藤花衣霞様が、どのようなご用件で……?」
眉を下げ、恐る恐るといった様子で姿を現した瑪瑙羽。
相変わらずの様子に紫雫久が思わず笑みをこぼした時、控えめに目が合った。
「突然の訪問失礼する。
福田瑪瑙羽、君に頼みたいことがある。早速で悪いが――」
「ま、待ってください!
その前に……あの…………お隣の方は……?」
瑪瑙羽はおずおずと手のひらで、花衣霞の隣に座る“乙女”を指した。
二人は顔を見合わせ、同時に吹き出す。
紫雫久はにやりと笑い、やけにしおらしい声を作って言う。
「……おや、瑪瑙羽さん。私のことが、わからないのですか?」
その言葉に、瑪瑙羽は目を瞬かせ、明らかに混乱した。
「えっ!? ええと……以前、どこかで……?」
「覚えていなくても無理はないわ。あの時は暗くて、よく見えなかったもの……。
ほら、もっと近くで、よく見てください」
誘われるように一歩、また一歩。
膝が触れ合うほどの距離で見つめれば、その整った顔立ちに一瞬、目がくらむ。
――だが、確かに見覚えがある。
瑪瑙羽の混乱は深まるばかりだった。
「……まさか、縁折茶屋で会った、あの…………」
記憶を手繰り寄せ、ごくりと唾を飲み込む。
「よく見て……これに、見覚えが?」
そう言うなり、着物の衿が左右に引かれ、はだける。
「うわっ!?」
思わず身を引いた瑪瑙羽だったが、指の隙間から覗いた光景に、違和感を覚えた。
――女のものではない。
男の胸だ。
肩口から心臓へと走る、見覚えのある傷跡。
「…………紫雫久……?」
その名を口にした瞬間、確信に変わる。
「さすが。この傷を見ればわかるよな。
だってこれ、お前につけられた傷だもんな!」
「い、言い方!」
慌てる瑪瑙羽をよそに、乙女――否、紫雫久はけらけらと笑いながら衿を直した。
「まさか瑪瑙羽も、茶屋に行く歳になったなんてなぁ〜」
そう言いながらなおも笑う紫雫久の肩を小突こうと、瑪瑙羽は身を乗り出す。
しかし、花衣霞の刺すような視線に気づき、慌てて姿勢を正し、元の場所へと座り直した。
「……ちょっと待って。一旦、整理させて」
瑪瑙羽はごほん、とひとつ咳払いをした。
「紫雫久、なんでそんな格好してるの?」
「変装」
「あぁ……そりゃ、ふつうに外歩けないもんね。
えっと……生きてる、んだよね?」
「失礼な。どう見たって生きてるだろ」
健在を主張するかのように横に広げられる両腕。
その腕はすぐに花衣霞の手によって、そっと元の位置へ戻された。
「そりゃそうだよね」
瑪瑙羽は一つ頷き、気を取り直す。
「……じゃあ、この二年、何してたの?」
「ぼーっとしてた? 正直、あんまり記憶ないんだよな、そこらへん」
「そっか……まぁ、元気だったなら……」
言葉を区切りかけたところで、紫雫久が口を挟む。
「大事なこと、聞き忘れてないか?
なんで向井を裏切ったのか、とかさ」
唐突な問いに、瑪瑙羽は一瞬きょとんとした。
だがすぐに、困ったような、それでいて穏やかな笑みを浮かべる。
「紫雫久が向井を裏切る?
……ないない。見てればわかるよ」
あまりにも即答だった。
今度は紫雫久の方が、目を瞬かせる。
「消息不明になって、心配はしたけどさ。
なんか、やらかしちゃったんだろうなぁって。
……とにかく、元気で、また会えてよかったよ」
そう言って微笑む瑪瑙羽には、以前よりも確かな落ち着きと、責を背負う者の面影があった。
「なんか……瑪瑙羽、大人になったな」
「いや、同い年でしょ」
軽口を返しつつも、その裏で、この二年が決して穏やかなものではなかったことは、言わずとも伝わってくる。
領主の子息として、何も知らぬ存ぜぬを通せるほど易しい世では無い。
紫雫久は隣を見やる。
その視線に花衣霞は、静かにひとつ頷いた。
「――瑪瑙羽に頼みがあって来たんだ」
紫雫久は姿勢を正し、真っ直ぐに目を向けた。
「俺のために、作刀をしてほしい。
受けてくれるなら――その理由と、あの日俺が行動に至った訳。
それから、これから俺たちがやろうとしていることを、全部話す」
静かな問いだった。
「……この話、聞くか?」
「もちろん」
瑪瑙羽は、迷いなく頷く。
「紫雫久が、わざわざここまで来たってことは、俺にしかできないことなんでしょう?」
「……ありがとう」
次代の刃浦を背負う覚悟を宿した、ひとりの剣士がそこにいた。
「――それなら……あぁ、似たような刀が、昔、木氏の秘剣にあったかな。
でも……右手で握り込むのは難しいんだよね?」
「あぁ。戦闘中に調整するのは、正直きつい」
「だよね。だったら、自然と刀に吸収される仕組みの方がいいよね……」
「勝手に吸血してくれる素材とか、無いのか?
触るだけで、こう……吸い取られてくみたいな」
「……素材ではないが、かつて、柄に触れた者の血を啜り、その力を吸収する呪刀があった」
「おっ! いいじゃん。それ、加工してさ――」
「えぇ〜っ! そんなことして、呪われたら嫌だよぉ」
それぞれの意見を交わす時間は、ひどく有意義だった。
瑪瑙羽は刃浦の情勢や実戦については不得手でも、作刀技術とその歴史に関しては、群を抜いている。
一度、素材次第では井氏の潮晶を刻めるかもしれない、と口にした時には、紫雫久も花衣霞も思わず息を呑んだ。
それは本来、井氏の技術者だけが継ぐ、秘伝の技であるはずだったからだ。
その驚きを察してか、瑪瑙羽は肩をすくめて笑った。
「私たちみたいなのはさ。
作れるかどうかより、どう作るかを知ってること自体に、悦びを感じるんだよ」
話し合いはそのまま泊まり込みとなり、
夜が白む頃には、三人とも胸の内に、早く試作に取りかかりたいという昂りと、この時間が終わってしまうのを惜しむ気持ちを同時に抱えていた。
そして――
瑪瑙羽が作図の最後の一筆を引いた、その瞬間。
三人は、まるで糸が切れたように、深い眠りへと落ちていった。
「福田の家を、佐藤花衣霞が訪れたと?」
高瀬領主家・上屋敷の廊下で、煌羅嘉は家士から耳打ちを受けた。
「……あいつの放浪は今に始まったことでは無い。
いちいち報告するな」
この二年、本懐を遂げるために、各領主家には人を張り付かせている。
中でも花衣霞の行動報告は、ひときわ数が多かった。
山を降りない佐藤家の人間としては珍しいが――
理由を聞いて、煌羅嘉は内心、馬鹿馬鹿しいと切り捨てていた。
井上紫雫久は死んだ。
いない者を探し続けて、何になるというのか。
「……それが、見知らぬ女を連れておりまして」
「女?」
「親しげな様子でした。突然現れた者ですので……お調べになりますか?」
煌羅嘉は、わずかに眉を寄せた。
「構わん。
女に現を抜かしている間に、我らは藤氏へ駒を進める」
ひと息置き、冷ややかに続ける。
「下がれ」
軽く手を振ると、家士は一礼し、その場を去った。
(……あいつも、ついに諦めたか。
――あれは災禍だ。刃浦を守るために、必要な犠牲だった)
あの日から、煌羅嘉は幾度となく、その言葉を己に言い聞かせてきた。
「必要だった」と。
本当にそうなのか――
一瞬湧き上がる疑念を、力ずくで踏み潰すように。
豪奢な大広間の中央に進み、奥へ深く礼をする。
「煌羅嘉です。――父上、お呼びでしょうか」
「遅い。首尾はどうだ?」
高瀬領主・高瀬宗峯は、上段に座し、脇息に凭れながら盃を弄んでいた。
煌羅嘉に視線を向けることはない。
「剣番所は正常に機能しております。
伍剣につきましても……数日以内に、藤氏の伍剣の保護へ向かいます」
「抜かるな。多少、血が流れようと構わん」
「……はい。刃浦の平和を守るためならば」
その返答に、宗峯は口元を歪め、酒を煽った。
「……父上。向井鵜匡の処遇ですが、そろそろ解放しても――」
――ガチャン。
言葉を遮るように、盃が畳に叩きつけられた。
煌羅嘉の肩が、わずかに跳ねる。
「何度言わせる。
ならぬ。奴が奥殿で生き長らえているだけでも、腸が煮え返るというに」
鋭利な眼光が、ようやく煌羅嘉を捉えた。
「投獄を免れたのもお前の差し金だったな。
向井の息子に、唆されたか?」
「も、申し訳ございません……ッ!」
反射的に深く頭を下げる。
冷や汗が、背を伝った。
――間違えば、三つの命が消える。
「……まぁ、良い」
宗峯は興味を失ったように手を振る。
「結果として、向井の領地は我がものになった。
今の言葉は、不問としてやろう」
「…………」
煌羅嘉は、何も言えなかった。
この男の機嫌ひとつで世界が壊れることを、骨身に染みて知っている。
「藤氏へ行くと言ったな」
「……はい」
「朧面の男を連れて行け」
「かしこまりました」
広間を出た後も、煌羅嘉の心臓は鎮まらなかった。
向井鵜匡の解放に失敗するのは、これで何度目だろうか。
最初は、駒になると思ったから柚珠葉に近づいた。
父と幼馴染を失った心に入り込むのは、容易かった。
だが今は――
彼の望みを、叶えてやりたいと思っている。
(……昔の自分を、重ねているのだろう。
あの頃の俺が欲しかったものを、与えたいと)
手のひらに載せた、小さな貝殻を見つめる。
柚珠葉と海岸を歩いた時に拾ったものだ。
その手に、雪色の髪が垂れた。
同時に、背へと重みがかかる。
「白鑑社に……連れて行ってくれるんですか?」
「……離れろ」
背にしなだれかかり、顔を覗き込む面。
朧面主は、面の奥でくつくつと笑った。
「お父上に褒めていただけるよう、頑張りましょうねぇ……煌羅嘉様」
「それが目的ではない」
「えぇ、もちろん。
刃浦が、この先も平和でいられますように」
――面の奥の瞳が、うっそりと嗤った。




