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ただ息をする君と・花

 ――にゃぁん


 黒猫が導いた先は、向井家屋敷の裏手だった。

 山間にひっそりと残る、古びた井戸の前でくるりと立ち止まる。


「……ここが、気配の元なのか?」

「にゃあ」


 花衣霞は身を屈め、井戸の中を覗き込む。

 水はすでに枯れ、闇だけが広がっていた。


 試しに小石を投げ入れると、すぐに乾いた音が響いた。


(底は浅い……だが、気配は確かにここに)


 顎を撫でつつ周囲を見回したその時、猫が軽やかに井戸の縁へ飛び乗った。


「こら、危ないから降りなさ――」


 ガコン。

 触れた縁石が沈み、視界が傾いた。

 

 足場が――消える。



 反射的に猫を抱き寄せ、背中から地面へ叩きつけられた。


 ――井戸の底ではない。


 物置小屋ほどの狭い空間。

 

 縁の仕掛けが作動し、井戸の底板が反転する。

 井戸の底の下に、さらに空間が隠されていたのだ。


(……秘密基地、か)


「にゃあ」


 猫は地面に置かれた文箱へ駆け寄る。

 次の瞬間、猫の姿が靄へと崩れ――

 中から紡響(つむぎきょう)が落ちた。


 文箱の中には、数冊の本と、紫雫久に渡したはずの紡響。


「……これが、紫雫久が探してほしいと願ったもの」


 一冊を手に取り頁を捲る。

 知らぬ誰かの、日記。

 

(……澪一、井上――)

 

 その姓に心臓が跳ねる。

 

 綴られるのは素朴な日常。

 刃浦の、はじまりの日々だった。


 

 読み進めるにつれ、花衣霞の顔色が曇っていく。


 これは――ただの日記ではない。




 読み終えた冊子を握る手に、力がこもる。


 湧き上がるのは、憤り。

 紫雫久を知ったつもりでいた、愚かな自分自身への。


 紫雫久はあの日、刃浦を根底から覆す事実をたった一人で背負っていた。


 伍剣を斬ろうとした狂人。

 皆がそう言った。


 違う。

 彼は、刃浦を救おうとしていたのだ。


 流れる血と、呪いと、残された刻限と闘いながら。

 誰にも頼らず、たった一人で。



「……それを、私は」


 まるで無碍にするような日々を、過ごしてしまった。


 俯く花衣霞の膝元へ、猫が静かに身を寄せる。

 まだ、終わっていないと告げるように。



 花衣霞は、もう一冊の本を手に取った。


 こちらも日記の体裁を取っている。

 だが、筆者は一人ではない。しかも、複数人。


 それは、井上澪一亡き後に連なる井上家の記録と――


 彼らに受け継がれてきた、呪いの風習だった。




 《第九章:ただ息をする君と・花》




「――紫雫久」


 奥の戸へもたれかかり外を眺める、紫雫久の背中。

 名を呼びかければ、ゆっくりと振り向く。


「……かいか。おかえり」


 鈴蘭の花のように、あどけない笑み。

 花衣霞は、その柔らかな体をそっと抱き寄せた。


「ただいま、紫雫久……紫雫久……」


「かいか、いやなことあった?」

「……違う。私が……」


 ――この後に及んで、迷っている私が……憎い。


 言葉に詰まる花衣霞の頭を、紫雫久が変わらぬ仕草で撫でる。


「よしよし……」


 あの事実を忘れたままの方が幸せなのではないか。

 彼の潜在意識は、未だ戦禍の中にあるというのに。

 この日々を壊すことが、正しいのだろうか。


 それでも――会って、謝りたい。


 相反する二つの思いが、胸の中を行き交っていた。




「……かいかは、しずくのこと好き?」


 いつもの問いが、静かに落ちてくる。


「あぁ。……とても、大事に思っているよ」



「じゃあ……おれじゃない、紫雫久は?」


 心臓が、奥の方で鈍く鳴った。


「……紫雫久は、紫雫久だ」

「ううん」


 紫雫久は、眉を下げて微笑む。


「かいかは、いつも“おれじゃないおれ”を見てる。

 おれ……かいかのこと好きだから、わかるよ」




「ね、かいか。紫雫久のこと、好き?」


「紫雫久――」


 井上紫雫久。

 よく笑い、周りを巻き込む力が溢れる。

 素直で、繊細で、誰かの幸福を真剣に願う人。


 戦場では、荒れ狂う波にも、凪いだ湖にもなり得る剣筋。

 何度見てもため息が出るほど美しかった。


 だがそのせいで簡単に危険へ飛び込んでしまう。

 はらはらさせて、目が離せない。

 その先の笑顔に、いつも絆されてしまうのだ。


 思えば思うほど、あの笑顔が、私は。


「……紫雫久。好きだ。

 君のことが、どうしようもなく……」



 彼は、凪いだ人生に落ちた、一滴の雫だった。



「君が好きだ……君に、会いたい……」


「あぁ、俺も……」



 溢れ続ける涙を、紫雫久の指が丁寧に拭う。



「なぁ花衣霞、俺も会いたいよ。どうしたら、いい?」



 ――答えは、もうそこにあった。






 花衣霞は、人の胴ほどもある鏡を壁に立てかけた。


白欠鏡(はくけつきょう)。我が家に伝わる鏡のひとつで、唯一、完全な円の形をしていない。

 ――欠けがあるが故に、反転の効果をもたらす」


 縁は歪み、欠け落ち、鏡面は像を正しく映さない。

 覗き込む紫雫久の顔も輪郭を失い、欠けたまま揺れていた。


「……あまり、良いものじゃないから覗かないで」


 やんわりと肩を引かれる。

 紫雫久は口を尖らせながらも、素直に一歩退いた。


「白欠鏡の逆転を利用する。

 剣喰の呪いを

 体内から剣へ、

 剣から、鏡へ移す。

 

 ……ここまで、わかった?」


 紫雫久は屈託のない笑顔で、即座に頷いた。


「かいかが言うなら、だいじょうぶ!」


「……うん。大丈夫。

 ただ……」


 花衣霞は視線を伏せる。

 ここからが、どうしても口にしたくなかった。


「解呪を始めれば、呪いを受けた時と同じ痛みをもう一度味わうことになる」

「うん」

「全身の骨が砕けるような痛みだ。

 ……強い、意識を落とす薬を飲んだ方がいい」


「うそはだめだよ、かいか」


「……どうして」


 顔を上げた瞬間そこにあった表情は、もう何も知らぬ赤子のそれではなかった。


「かいかはね、うそをつくとき、耳が赤くなるの。

 ……知らなかったでしょ」


 熱を帯びた耳に、紫雫久の手がそっと重なる。

 観念するように小さな笑みが溢れた。


「……うん。紫雫久には敵わない。

 意識を手放せば、成功率が格段に下がる。

 だから紫雫久……最後まで、気を抜かないで」


「俺を、だれだと思ってるの?」


 そう言って笑い、紫雫久は鞘から刀を抜いた。


 刃は、白欠鏡の歪んだ縁に、かすかに光を返していた。



 花衣霞も同じように刀を抜き、白欠鏡へと大きく斬撃を叩き込んだ。

 一閃を受けた鏡面は鈍く揺らぎ、像を持たぬはずの面に不規則な波紋が走る。


 それが一瞬、歪な円を描いた、その中心へ――紫雫久が刀を突き立てた。


「――あ゙ぁッ!」


 一瞬で、頭蓋の奥が焼けるように熱を持つ。

 鏡面の波紋が渦潮のようにうねるのと同時に、空気が二段、三段と圧を増し、肺の奥まで押し潰してきた。


 紫雫久の右手は鬼の肌のように赤黒く染まり、皮膚の下で黒い血管が異様なほど脈打つのが透けて見える。


「――ぐ……あ゙ぁ……!」


 身体の内側から、無数の刃で引き裂かれるような痛みが襲う。

 

 鏡面には、鈍く黒い靄をかき混ぜた歪像。

 爪で引っ掻いたような不快な音が部屋を満たしていた。


「ぁ……ッ、い゙……! ……はぁ……はあ゙っ……!」


 視界が崩れ、目を開いているのか閉じているのかすらわからない。

 ふらつく体を、花衣霞が無言で抱え込む。


 ――意識を、手放すな。


 その思いだけが、紫雫久の内側で細い糸のように張り詰めていた。


「――ッ!」


 痛みから逃れるように、目の前にあった腕へと力任せに噛みつく。

 歯が食い込み、血の味が広がる。

 花衣霞は声一つ上げず、その衝撃を受け止めた。



 どれほどの時間が過ぎたのか、

 血管を引き絞られるような痛みの波は、次第に間隔を広げる。

 

 赤く染まっていた右腕は、人の色を取り戻し、浮き出ていた血管も薄れていく。


 花衣霞は、支える手にさらに力を込める。

 ――あと、もう少し。


「……あ゙……ッ、ふ……」


 白欠鏡の渦が縮み、絡まり、

 やがて――ぱん、と乾いた音を立てて鏡面が弾けた。


 剣喰の呪いが、鏡へと封じられた証だった。


「……もう、大丈夫。……お疲れ様」


 耳元で囁かれたその声を、遠くで聞くようにして、

 紫雫久は、ゆっくりと意識を手放した。




 

 

 



 とんとん、とまな板の上を包丁が叩く。

 鍋の中の野菜がぐつぐつと蓋を押し上げる。

 

 虫の鳴く夜五ツ。

 柔らかな灯りの下、醤油の匂いがふわりと漂う。


「――なぁ花衣霞、米どんだけ食う?」


 白い湯気の立ち込める釜の前で、紫雫久が振り返らずに問う。

 花衣霞はその背に歩み寄り、後ろからそっと腕を回した。


「花衣霞?」

「……いつものように、大盛りにしないのか」


 触れる手は柔らかいが、声はどこか堅い。


「え、悪い。そこらへん、あんまり覚えてないんだ。いつもそうだった?」

「うん。紫雫久は私に聞かずに大盛りにしていた。

 ……私は、そんなに食べない」


「なんだそれ。ちゃんと聞けよ〜俺ぇ〜。

 大盛りにするのなんか、柚くらいしかいないって」


 山のように盛られた米を思い浮かべて、紫雫久は笑った。


「うん。だから……嫉妬した」


「……え?」


「君の意識の根底にいる彼に嫉妬して、言えずにいた。

 だから……今、君が聞いてくれてとても嬉しい」


 花衣霞は抱きしめる腕に、わずかに力を込めた。

 その腕に手を添え、紫雫久はほどけるように息を吐く。


「そんなの……い、いつでも聞いてやるって」

「これからも?」

「おう……って、何だ。婚約でもしてるみたいだな」


「うん」


 花衣霞は真剣に言い、紫雫久の顎をすくって口付けた。

 そして何事もなかったように、再び食事の支度へ戻る。


 紫雫久は呆気に取られ、しゃもじを釜の中へぽとりと落とした。

 

 

 


「――いただきます!」


 二人は向かい合い、手を合わせる。


 紫雫久の解呪は成功した。

 目覚めた彼は記憶を取り戻し、いつもの調子に戻っていた。

 失われていた時間のことは、覚えている部分と、霧のように抜け落ちている部分があるらしい。


「花衣霞は料理もできるなんて……」

「口に合うといいが」

「最高。本当に最高」


 左手の箸が、魚の骨をつまみ上げる。

 

 解呪は果たされたが、それまでに刻まれた傷が消えることはない。

 右手の握力は戻らず、茶碗は持てても、繊細な動作を続けるほどの力は残っていなかった。

 刀を振るうには、心許ない。


「俺さ、思ったんだけど……

 すっごく軽い刀があったら、いけるんじゃない?って」

「軽い刀……箸よりもか?」

「それくらいが理想! 左手でも戦えるけど、やっぱ基礎は右だから」


「左を鍛錬するのでは駄目か?」

「そんな悠長なこと言ってられないよ」


 紫雫久は浅漬けのきゅうりを、がりっと噛んだ。


「全部思い出したからには、ちゃんと向き合わないと。

 ……花衣霞は、手伝ってくれる?」


「うん。必ず、君の隣にいると誓おう」


 二人は強く視線を交わし、手と手を打ち合わせる。

 ぱん、と乾いた音が夜に小さく響いた。



 止まっていた歯車が、再び噛み合い、静かに回り始めた。

 ――災禍の再来は、新たな波紋を呼ぶ。

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