ただ息をする君と・雪
竹藪の中を走っている。
ここがどこなのかは、わからない。
ただ、必死に追っていた。
息が詰まる。
足は鉛のように重く、前へと進まない。
彼に――紫雫久に、どうしても追いつけない。
紫雫久は、振り返ることなく進み続ける。
私の制止の声など、最初から存在しないかのように。
やがて、周囲を注連縄が巡らせる一画へと足を踏み入れていく。
人の立ち入りを拒む、禁域。
それでも紫雫久は、迷いなく奥へと進んでいく。
その先へ行ってはいけない。
どんなに手を伸ばしても、ただ空を掻くだけだった。
「――紫雫久!」
ようやく彼は足を止め、振り返った。
視線が合ったことに、胸がほどけるような安堵を覚えた、その瞬間――
紫雫久の足元が、音もなく崩れた。
その身体は抗う術もなく、谷底へと引きずり込まれていく。
伸ばした手は、間に合わない。
「……花衣霞、鏡を…………」
落ちていく紫雫久は、小さくつぶやく。
その言葉を最後に――
花衣霞は、瞼を開いた。
(……今度は、転落の夢か)
黒木領にある旅籠で、花衣霞は朝を迎えていた。
夢の内容に、今さら動揺はない。
なぜなら彼は、幼い頃からこのような――
紫雫久が死を迎える瞬間の夢を、幾度となく見続けてきたからだ。
血鏡を祖とする藤氏。
その直系――佐藤家には、未来を夢に見る者がいる。
花衣霞も、その一人だった。
だが、なぜか。
夢に現れるのは、いつも紫雫久の死に際ばかりだった。
これまでに、いくつもの死を見てきた。
前後不覚に暴れる狂人から子供を庇い、刃に倒れる夢。
幻迷宮から戻れず、静かに力尽きる夢。
異国の蒐集家の拷問に耐えかねる夢。
呪鏡に狂わされ、自ら命を絶つ夢――
それらは、現実となった。
そのたびに彼を救い、夢とは異なる結末に胸を撫で下ろしてきた。
夢の中で、さまざまな紫雫久を見てきた。
同じ夢を繰り返し見る時もある。
時には、言葉を交わすことさえあった。
それでも、結末だけは変わらない。
紫雫久は、必ず命を落とす。
理由は、いつも同じだった。
――誰かのために。
二年前から、再び夢に現れるようになった紫雫久。
死の間際には必ず、同じ言葉を遺した。
――「……花衣霞、鏡を…………」
紡響を、強く握る。
鏡面に変化はない。
だが時折、内側から熱を帯びるような――確かな共鳴を感じることがある。
(片割れの場所を、示しているのかもしれない。
もしかしたら、そこに……)
花衣霞は今日も、紫雫久を探すため、
濃墨の髪を、綻びのないように結い上げた。
黒木領・異灯町。
刃浦の外へと通じ、異国との交易も盛んに行われるこの地域は、黒木領の中でもとりわけ人の往来が多い。
紡響が意思を示す方向へ向かう道すがら。
花衣霞は常に、紫雫久の痕跡を探し求めていた。
「一杯、頼む」
「まいどあり!」
湯気の立つ蕎麦の椀を受け取り、徐に口を開く。
「……良い店構えだ。店主の仕事が丁寧なのが、よくわかる」
思いがけない言葉に、店主は箸を持つ手を止め、目を瞬かせる。
「……な、なんだよ! えらく嬉しいこと言ってくれるじゃねぇか!
よし、この天麩羅はおまけだ。たんと食え!」
ただのかけ蕎麦だったはずの椀は、いつの間にか随分と賑やかになっていた。
出汁の香りも良く、確かに旨い。
「店主、人を探しているのだが」
「おう。なんでも言ってみな」
すっかり気を良くした店主が、身を乗り出す。
「紫烏色の髪を結わずに腰まで垂らし、中紅花の瞳を持つ。
剣の腕が立ち、屈託のない顔で笑う――十七ほどの男だ」
「お、おう……ちょっと待て。紫烏色の……?」
「紫烏色の髪を結わずに腰まで垂らし、無垢な硝子玉のような中紅花の瞳をしていて、剣の腕が立ち、屈託のない笑顔が愛らしい十七の男だ」
「……少し長くなったか?」
「より正確に表現しただけだ」
「つまり……旦那と同じくらいの年恰好の剣士ってことか? 背丈も同じくらいか?」
「いや、私よりは低い。この辺りだ」
花衣霞は、自身の口元に手をかざす。
「う〜ん……この辺りをうろつく剣士で、思い当たる奴はいねぇなぁ……」
このやり取りは、もはや百を優に超えている。
二年の間、刃浦の隅々で毎日のように繰り返し口にした問い。
いくら口に馴染もうと、欲しい答えには未だ辿り着けない。
他を当たるか、と椀を返そうとしたその時、
店主が通りがけの男に声をかけた。
「おいお前、確か――人を拾ったって言ってなかったか?」
「なんだよおやっさん……それはうちの母ちゃんの話で――
……って、花衣霞様!?」
男は花衣霞の姿を認めるなり、目を見開いた。
「わ、私です。寅吉です。御白山に野菜を卸してる……」
「うん。いつも感謝している」
「なんだ知り合いか! こいつの……えっと、母ちゃんか? 人を拾って世話してるって話でな」
「世話というか……俺も詳しくは知らねぇんですけど。たまに野菜を分けてやってるくらいで」
「それは、いつ頃からだ」
「一年……いや、二年くらい前ですかね」
花衣霞は、静かに唾を飲み込んだ。
「白折神社の裏手に倒れていたところを、助けたらしいです」
「年はどのくらいだ」
「十五、六くらいですかね。俺はちらっと見ただけですが。
不思議なやつで……母ちゃんにはともかく、俺には一言も喋らねぇし、動きも鈍間で。
髪も長ぇから、最初は女かと思ったくらいで」
男の言葉は、この二年間で、最も探し求めていたものに近い話だった。
全身を巡る血が一気に熱を帯び、心臓が早鐘を打つ。
その音が、鼓膜の内側まで響いているようだった。
「……他に、特徴は」
「そうですねぇ……あ、左腕に組紐を結ってましたね。
汚れか血か、赤黒くなっちまってますけど……多分、元は白だったと思います」
花衣霞は目を閉じ、大きく息を吐いた。
そして、ゆっくりと寅吉を見据える。
「――まずは、君の母上に会わせてくれ」
《第九章:ただ息をする君と・雪》
『どうか――驚かないであげてください』
別れ際、寅吉の母はそう言って、深く頭を下げた。
彼女は最初、拾った男の話をすることを躊躇った。
それは、その男が人目を避けなければならない身であることを、雄弁に物語っていた。
――以前、その男に助けられたことがあるという。
怪我をした息子に代わり、御白山へ野菜を届けに向かった道中。
重い荷物に足を取られ、体勢を崩したその瞬間を支えてくれたのが彼だった。
それだけの縁に過ぎない。
それでも彼は、尚も心配してこう言ったのだという。
「もう、他人じゃないんだから」
その彼を、変わり果てた姿で見つけたのは、今から二年ほど前のこと。
血に染まった体を洗い、傷を手当てし、狭いながらも家を貸し与えた。
――彼は、決して他人ではなかったから。
酷く傷ついた体を、ゆっくりと癒していく。
野菜を届け、食事をさせる。
髪を梳かしてやれば、彼は笑みを浮かべた。
少しずつ、戦の匂いが薄れていく。
しかし、血で汚れた組紐だけは
触れられるのを嫌がった。
組紐を握り小さく呟く。
「これは、やくそく――」
花衣霞は、物置ほどの小さな家の前に立つ。
不思議と心は穏やかだった。
戸を開けると、室内には囲炉裏がひとつあるだけ。
殺風景な木目の中で、ただ一筋、紫烏色の絹糸を風が静かに遊んでいる。
開け放たれた奥の戸にもたれかかるようにして、外を眺める後ろ姿。
その背中は――
二年間、花衣霞が追い続けてきた背中だった。
「――紫雫久」
名を呼ぶと、男はゆっくりと振り返る。
初雪のような肌に、流れる紫烏色の髪。
左腕には、赤黒く変色してはいるものの――あの日、花衣霞が結んだ縁映結。
「紫雫久……」
静かに、一歩ずつ。
確かめるように、距離を詰めていく。
こちらを見る中紅花の瞳は採れたての桜桃のように澄み、無垢なる光を集めていた。
その瞳が、隣に腰を下ろす花衣霞をじっと映す。
花衣霞はそっと左手を取り、縁映結を指先でなぞる。
「紫雫久……私のことが、わからないか……?」
努めて浮かべた微笑みは歪み、声は情けなくも震えた。
それでも紫雫久は、答えることなく、ただこちらを――ぼんやりと見つめているだけだった。
「……いたい、の?」
紫雫久の手が、花衣霞の頬にそっと触れる。
その温度に、そこでようやく――自分が涙を流していたことに気づいた。
すぐに他人を気遣ってしまうところ。
なお変わらぬその心が、花衣霞の目頭を熱くする。
「よしよし……」
言葉を紡げずにいると、紫雫久は花衣霞の頭を引き寄せ、ゆっくりと撫でた。
母が子をあやすような、柔らかく無防備な仕草。
花衣霞は、抗うことなくその胸に身を預けた。
紫雫久は――
記憶を失っていた。
覚えていることは、無いに等しい。
心の核を失ったかのようだ。
ただぼんやりと――水槽の内側から外を眺める魚のように、世界を見て日々を漂っている。
そして、もうひとつの変化。
紫雫久の右手は、ほとんど握力を失っていた。
指先から肘にかけて、体内の血管が墨に染め上げられたかのように肌を透ける。
剣喰の呪い――その症状だった。
いつ、どこで、誰にかけられたのか。
問いたくとも、今の紫雫久はその答えを持ち合わせていない。
それでも、この程度で済んでいるのは奇跡に近い。
(間に合って……いなかったかも、しれない)
花衣霞は、腹部の包帯を巻き直しながら、胸の奥に小さな黒い影を落とした。
「かいか、明日もくる?」
「うん。明日は、何がしたい?」
「んー……かいかと、いっしょにいたい」
呪いの経過を診るうちに、紫雫久は花衣霞のことを医者のような存在だと認識していた。
……今は、それでいい。
その方が都合が良い。
夜明けとともに家を訪ねる。
寝息を確かめ、そっと布団を整える。
竃に火を入れ、粥を炊く頃には、家の中にも朝が満ちてくる。
「紫雫久、おはよう」
「……おはよう……かいか……」
まだ半分、夢の中にいる紫雫久に顔を洗わせる。
朝餉の支度は、もう整っている。
「いただきます」
二人で向かい合い、静かに箸を取る。
紫雫久は左手で、驚くほど器用に箸を使った。
どうして使えるのかと問うと、
「できるよ! 心配かけちゃ、だめだから」
そう言って、屈託なく笑う。
朝食を終えれば、掃除をする。
庭に出て、伸び放題の草を刈る。
この家の周囲に人の気配はない。
それに比例するように、草木の成長は早かった。
紫雫久も手伝おうとしてくれるが、眠気には勝てず、いつも縁側でうたた寝してしまう。
剣喰の呪いは、身体機能を少しずつ、確実に奪っていく。
以前より、明らかに体力が落ちていた。
その寝顔を横目に、薪を割る。
ついでに、戸の建て付けも直した。
昼は握り飯を食べた。
紫雫久はそれを茶漬けにしたがる。
「おいしい」と言って椀を抱え、勢いよくかきこむ。
口元についた米粒を指先でつまみ、そっと口に運ぶと、
紫雫久は顔を赤らめ、黙り込んでしまった。
昼過ぎには、散歩に出る。
並んで土手を歩く。歩幅は、紫雫久に合わせてゆっくりと。
「かいかは、おれのこと好き?」
紫雫久は、よくこの問いを投げかけてきた。
「うん。とても……大事に思っているよ」
その答えに、紫雫久は満足そうに笑う。
花衣霞が来てから、紫雫久は明るくなった――と、寅吉の母は言う。
自発的な言葉が増え、喜怒哀楽の輪郭も、少しずつはっきりしてきていた。
「おれはね、かいかのこと大好きだよ」
絡めた指に、紫雫久は頬を寄せた。
夕餉の支度は、紫雫久も手伝ってくれる。
安全を考え、任せるのは米をよそう役だけ。
花衣霞の椀はいつも、山のように盛られた。
「いっぱい食べるもんね」
その言葉に含まれる、かすかな記憶の名残。
なぜだか、それに触れることを躊躇ってしまう。
夕食を終え、湯に入り、傷と呪いの経過を診る。
二年も経つ腹の傷は、異様なほど治りが遅い。
反対に、呪いの進行は驚くほど緩やかだった。
もって半月、生き延びる者はいないと噂される強い呪い。
それが、二年。
「紫雫久は、自分の心臓の音を聞いたことはある?」
「ここ?」
紫雫久は、花衣霞の胸元に指を伸ばした。
「かいかの音は……きれい」
花衣霞の胸に耳を当て、体重を預ける。
規則正しい鼓動を聞きながら、紫雫久は目を閉じた。
「おれのは、しんぞうが……もう一つ、あるから……」
微睡の中で、そう呟く。
まさに紫雫久の心音は――心臓が二つあるかのように、重なって聞こえる。
その中心で、強い気配が蠢いていた。
これがあるからこそ、剣喰の呪いは本来の力を発揮しきれていない。
それでも、軽々しく触れれば反撃される――そんな予感がある。
これは、加護なのか。
それとも、別の呪いなのか。
花衣霞は、まだ判別がつけられずにいた。
ふと視線を落とすと、紫雫久は静かに寝息を立てている。
その無防備な様子に、ひとつ息を吐いた。
肩までしっかりと布団を掛け、寒くないよう整える。
そっと、心臓に耳を寄せる。
――とと、……とと、……とと、
穏やかな一日を、急かすような音。
目を逸らしてきた現実を、否応なく思い出させる音。
「……すまない、紫雫久」
もし、私がもっと強い人間だったなら。
紫雫久のように、世界をまるごと愛せる人間だったなら。
「……私は、君の呪いを……解きたくない――」




