禁域に至る咎・下
木氏・黒木領は、朱門通りに面した領主家をはじめ、風見坂、香染通りなど、各所で激しい抗争に見舞われ、多大な損壊を被った。
田氏・福田領では、領主家が襲撃され、奥の間への侵入を許すという前代未聞の事態が起きている。
さらに、井氏領主・向井鵜匡は、重大な機密事項に関わる隠蔽の疑いで、高瀬領へ一時拘束。
この一報は、刃浦全体を震撼させた。
数十年続いた泰平が、音を立てて軋む。
まるで空そのものが翳り、重苦しい雲が街の上に垂れ込めたかのようだった。
柚珠葉からの報せを受け、浜ゆら庵を発って家路につく道すがらも、紫雫久の胸は落ち着かなかった。
刃浦が揺れている。
自分自身も、同じように揺らいでいる。
刻限が迫っているという感覚だけが、はっきりとあるのに――斬るべき相手が見えない。
守るべきものが、掴めない。
一歩踏み違えれば、すべてを失いかねない。
そんな不穏さが、足元にまとわりついて離れなかった。
「紫雫久、お願いだから帰ってきて」
柚珠葉の声に、足が止まる。
「い、今……帰ってるだろ?」
「……また、すぐどこかへ行こうとしないで」
振り向いた彼の表情は、今にも泣き出しそうだった。
「私と一緒に、向井を守って」
縋るような声音に、思わず手を伸ばす。
その手を包み込むように、両手でしっかりと握った。
「大丈夫だって。悪いことが、たまたま続いてるだけだ」
「……」
「鵜匡さんも、すぐ戻ってくる。だから――」
「向井を守るのは、紫雫久の役目だって……」
柚珠葉が、震える声で続ける。
「私が刀を持たなくていいように、災いは全部斬るって……昔、言ってくれたよね」
「ああ……もちろん」
答えた瞬間、右手がぴくりと小さく痙攣した。
「その言葉に……嘘はない」
「だったら、今ここで言ってよ。俺がいるから大丈夫だって。いつもみたいに……」
柚珠葉は祈るように、繋いだ手へ額を寄せた。
(そりゃ守りたいよ。だけど――)
紫雫久は、右手をそっと離す。
そして、その手で彼の髪を撫でた。
その表情は穏やかで、どこか遠い。
「まずは家に戻ろう。今は状況を整理するのが先だ」
「……」
「鵜匡さんの代わりを務められるのは、柚だけなんだから」
左手だけを繋いだまま、二人は歩き出す。
柚珠葉はその手を見つめながら、
泣きたいような、叫びたいような、言いようのない不安に胸を締めつけられていた。
二人が到着した頃の向井の屋敷は、かつてないほど慌ただしさに包まれていた。
家士たちが右へ左へと駆け回り、張り詰めた声が行き交う。
その中心で指示を飛ばしていたのは――
「母上!」
柚珠葉は声を張り、母である向井依角のもとへ駆け寄った。
手を引かれる形で、紫雫久も共に歩を進める。
「お身体は……大丈夫なのですか」
「ええ。こんな時に、寝てなどいられないでしょう」
依角はそう言って、柚珠葉の頭にそっと手を置く。
そこには確かに、母としての慈しみがあった。
「鵜匡様がお戻りになるまで、この屋敷には誰一人、近づけさせないわ」
「はい。……紫雫久もいますから。ご安心ください」
柚珠葉はそう言って、繋いだ右手に力を込める。
依角はその様子を横目に一瞥しただけで、紫雫久を見ることはなかった。
「守りは固めさせた。
今は何が起こるか分からないから――ごほっ、ごほっ……!」
「母上!」
咳き込む依角を支えようと、柚珠葉が慌てて身を寄せる。
その拍子に、紫雫久と繋いでいた手が、ふっと離れた。
「……紫雫久。門に客が来てる」
兄弟子の低い声に顔を上げると、そこには花衣霞の姿があった。
紫雫久は迷いなく駆け出していく。
その背を、柚珠葉は母の肩越しに見つめた。
(――また、佐藤花衣霞だ)
目の端が、かっと赤くなるのを感じた。
「どうした? お前のところは無事か」
「うん。……紫雫久は」
「まぁ……心配だけど、とりあえずここは大丈夫」
花衣霞は小さく首を横に振り、真っ直ぐに問いかけた。
「そうじゃない。紫雫久自身は、どうかと聞いている」
心臓が、どくりと跳ねる。
「……へ、平気だよ。怪我なんかしてねぇし」
本当は、今にも吐き出してしまいたかった。
向井家の者たちのざわめきが耳に入らなければ、全てを投げ捨てて不安がまろび出そうだった。
花衣霞は、そんな紫雫久を見据えたまま、静かに言った。
「紫雫久。手を」
「……?」
差し出した左手の上に、ひんやりとした感触が落ちる。
小さな、手鏡だった。
「“紡響”。少ないが、言葉も伝わる」
「……あの時の?」
「うん。少し、改良した」
紫雫久の表情が、ぱっと明るくなる。
手鏡をくるくると回し、細部まで確かめるように見つめた。
「すげぇ……こんな綺麗な配列、初めて見た。
でもこれ、もう一つ無いと使えないんじゃ……」
「ここに」
花衣霞は、もう一つの鏡を取り出した。
「性能を上げるには、二つで一つにする必要があった。
量産するつもりはない。――これは、私と紫雫久のものだ」
その言葉に、紫雫久は一瞬言葉を失う。
「……俺と、花衣霞の……」
「今の刃浦は危うい。何かあれば、私を呼んで良いから」
鏡を持つ手に、そっと重ねられる手のひら。
そのぬくもりが、胸の奥に静かに染み込んだ。
「……紫雫久? 話は終わった?」
柚珠葉の声に、はっと我に返る。
「……あぁ、うん」
「私はこれで」
「花衣霞も……気をつけて」
花衣霞は軽く頷き、踵を返す。
その背中に、どうしても、もう一度手を伸ばしたくなった。
「――花衣霞!」
思わず呼び止めると、花衣霞は振り返った。その先は考えていなかった。
「雪色の髪で、秘色の羽織を着た男に……気をつけろ」
一瞬だけ目を細め、花衣霞は小さく頷く。
そして何も言わず、その場を去っていった。
紫雫久は、手の中の鏡を指先でなぞった。
冷たいはずの感触が、なぜか心を落ち着かせていく。
(……大丈夫。ひとつずつ、思い出していこう)
まず、右手に巣食う剣喰の呪い。
それを施したのは朧面主――――そして、その背後には高瀬がいる。
思い返せば、いくつも示唆されていた。
最初に出会った裏夜市の場所。
彼が操る幻術の術式。
そして綺夜が口にした、“お上りさん”という言葉。
朧面主は呪術の腕を高瀬に見出され、綺夜を裏切り、そこを去った。
今は高瀬の庇護のもと幻術を学び、裏夜市を開き、暗殺を請け負っている。
宮中への出入りが可能だったのも、高瀬の手引きがあってこそだろう。
――つまり。
朧面主の言う「紫雫久を殺したがっている者」とは、
高瀬家の誰か、ということになる。
ではなぜ、自分なのか。
朧面主は言っていた。
柚珠葉は、標的ではないと。
(……剣警試験の時も、あいつは様子を知っていた。
ってことは、あの時点でもう狙われていた……?)
ふと、呪いを探る過程で知ったことを思い出す。
剣警試験の受付の際、血判に使われた血査符。
あのとき起きた発火事故は、瑪瑙羽の判断で不問にされたが――
血査符は、特定の条件を満たした時にも発火するという。
それは、“特定の血に反応した場合”。
つまり、あの時反応したのは――紫雫久の、井上の血。
(もともとは血筋を見極めるための占具……
そして炙り出したかったのが、井上の血、か)
刃浦において“井上”は忌み名だ。
名乗れば疎まれ、避けられる。
だが、それだけではないのかもしれない。
もし、その血に“災い”が宿るとしたら。
高瀬が鵜匡を拘束した理由――重大な機密事項の隠蔽が、
“井上の血を引く者を匿っていたこと”だったとしたら。
懐で、かたりと小さな音が鳴る。
木箱に収めた帰郷骨が、わずかに揺れたのだ。
(……ここに、手がかりがあるってことか)
刃浦を揺るがす一連の騒動。
高瀬の動き。
そして、自分にかけられた呪い。
すべての糸は、“井上の血”へと収束している。
「……柚、ごめん」
紫雫久は、ぽつりと呟いた。
「俺、行かなきゃいけないところがあるんだ」
《第七章:禁忌に至る咎・下》
“帰郷骨”とは、誰のものとも知れぬ小指の骨から作られる呪具である。
血を含ませて起動させると、小指がひとりでに動き出し、その指す先を辿れば、血の持ち主が生まれ落ちた家へと導かれるという。
紫雫久は、自身の生家を知るため、その小指の示す方向へ歩みを進めていた。
帰郷骨が向いた先は、向井領の外れ。
海にほど近いにもかかわらず、波音のひとつもしない、斬哭の谷だった。
陽はほとんど差し込まず、湿り気を帯びた空気が肌にまとわりつく。
薄暗い路地では、すれ違う人々も目を伏せ、互いの存在を確かめようとしない。
(……ここで、身を潜めるように暮らしていたのか)
紫雫久には、“井上”としての記憶がない。
向井の家で、その名が語られることもなかった。
けれど、忌み名に向けられる刃のような反応だけは知っている。
この地で、その名を隠さず生きることが、どれほど困難か――想像に難くなかった。
――カチカチ、カチ。
帰郷骨が、民家の隙間を縫うように、小さく向きを変える。
その後を追うたび、胸の奥に、言葉にできない感覚が滲んでいく。
懐かしさ。
あるいは、帰る場所を知っているという錯覚。
何ひとつ覚えていないはずなのに。
――カチ。
やがて、帰郷骨の動きが止まった。
そこにあったのは、長屋が肩を寄せ合う一角に、不自然にぽっかりと空いた更地だった。
(……少しは、期待してたのかもなぁ)
胸にじわりと広がる寂しさに、紫雫久は静かに息を吐いた。
(家を見れば、中に何か残っていれば、両親の痕跡があるかもしれない……って。
――違う。目的は、そこじゃないだろ)
紫雫久は両頬をぱちんと叩き、強引に思考を引き戻した。
(これは、俺ひとりの問題じゃない)
再び、更地へと視線を戻す。
敷地は思いのほか広い。長屋というより、控えめながらも屋敷と呼べる規模が想像できた。
その中央近くに、大きな木が一本だけ立っている。
(……どうして、これだけが)
周囲に何も残っていないからこそ、その異様さが際立っていた。
「――触れるな」
低く鋭い声に、はっとして振り返る。
そこには、杖をついた老人が立ち、紫雫久を射抜くように睨んでいた。
「ここの家持か?」
「馬鹿を言え」
吐き捨てるような言い方だった。
「関わりがあるなら、今ごろ首が飛んでいる。
そこは呪われた土地だ。長居をするな」
冷え切った言葉が、地面に染み込むように落ちる。
「どうして呪われている? ここで、何があった」
「……一族皆殺しだ」
老人は一瞬、視線を逸らし、それからぽつりと言った。
「今から十五年ほど前の話だ」
十五年前。
――紫雫久が生まれ落ちた頃。
「何も知らんのなら、忠告しておく。このまま立ち去れ」
そう言い残し、老人は背を向けた。
「最後にひとつだけ聞かせてくれ」
呼び止めると、老人は足を止めただけで、振り返らない。
「この木は……なぜ残している?」
「残しているんじゃない」
老人の声は、どこか疲れ切っていた。
「――残っちまうんだよ」
木は、両腕を回しても抱えきれぬほど太く、力強くこの地に根を張っていた。
青々とした葉が鬱蒼と茂り、濃い影を落としている。
陽の差さぬ、草木すら育たない谷の底で、この一角だけは、葉擦れの穏やかな音が絶えず響いていた。
――紛い物のようだ。
それは、エーベルヴァルト邸で見た玻璃桜の木と、どこか似通っている。
(“残っちまう”ってことは……切ろうとしたんだな。
でも、切れなかった)
理屈よりも先に、直感が告げていた。
ここには、確かに“何か”がある。
紫雫久は木の周囲を回り、注意深く観察する。
裏手に回ると、太い枝が折れ、抉られたような丸い窪みがあった。
露わになった年輪が、この木の生きた年月を雄弁に物語っている。
徐に手を近づける。
その動きに呼応するように、年輪のひとつひとつが、花弁のように開いていった。
葉擦れの音はざわめきを増し、耳障りなほどに騒がしい。
やがて、中央に闇が口を開く。
紫雫久は躊躇なく、そこへ手を伸ばした。
闇の奥で、誰かの手が――確かに触れた。
――瞬間、音が途絶え、視界が裏返る。
紫雫久は瞬きをした。
そこは、洞窟をくり抜いて作ったかのような、小さな蔵だった。
だが、内部はすでに荒らされた後の様相を呈している。
棚には干からびた冊子が数冊残るのみ。
箱という箱は開け放たれ、無造作に転がされていた。
(……もう、高瀬が嗅ぎつけていたかもしれねぇな)
無意識に、懐の中の紡響に指が触れる。
(あの木が守匣木なら……
ここで“守っていた何か”は、まだ持ち出されていないはずだ)
守りの象徴たる呪具を用いるほど、厳重に秘されていた“何か”が――。
蔵の広さは六畳ほど。
扉はなく、ただの一間に過ぎない。
棚に残る冊子は、読み書きや算術など、寺子屋で使われる初歩的な教本ばかりだった。
箱の中身も、縁の欠けた椀、色褪せた端切れ、子供の描いた拙い絵――生活の痕跡に過ぎない。
だが、その端切れだけは違った。
紫雫久には、はっきりと覚えがあった。
向井家の門前に置き去りにされた際、包まれていた布と、同じ文様だったのだ。
震える手で、その端切れを掴む。
――『見て。紫雫久、とってもよく眠ってる』
凍涙の香炉で見た夢の中。
あの時に聞いた声は、間違いなく母のものだった。
これまで形を持たなかった“家族”という存在が、唐突に、確かな実感として胸に宿る。
隠し場所は、考えるよりも先に――本能が知っていた。
紫雫久は、壁に向かって交差するように刀を振る。
鈍い音とともに壁が崩れ、その奥から、波を象った意匠の文箱が姿を現した。
紫雫久が文箱を胸に抱えた瞬間、足元がふっと軽くなった。
視界が揺れ、空気が引き延ばされるように歪む。
――次の瞬間。
紫雫久は、最初に立っていた更地に戻っていた。
思わず一歩、踏み直す。
足裏に伝わる感触は確かで、幻ではないと理解するのにそう時間はかからなかった。
背後で、軋むような音がする。
振り向けば、守匣木が、音もなくその色を失っていくところだった。
瑞々しかった葉は瞬く間に乾き、枝は脆くひび割れ、幹には走るように皺が刻まれていく。
生命が抜け落ちる、その一部始終を見届けながら、紫雫久は小さく息を吐いた。
「……ご苦労様」
まるで、長年の役目を終えた番人に声をかけるように。
そう言って、労うつもりで幹に手を伸ばした――
刹那。
――キン、と空気を裂く甲高い音。
反射的に身を引く。
次の瞬間、小刀が、紫雫久の伸ばした手のすぐ脇を掠めて地面に突き立った。
紫雫久は即座に刀を抜き、半身に構えて間合いを取った。
暗く湿った空気が肌にまとわりつき、呼吸音すら吸い込んでいく。
視線を走らせても、敵の気配はどこにも引っかからない。
刀を握る右手に、じわりと嫌な緊張が走った。
――その時。
茂みの奥で、きらりと刃が瞬いた。
反射的に踏み込み、飛来した小刀を弾く。
金属音が短く鳴った刹那、距離が一気に詰められた。
目の前に躍り出たのは、人影。
面で顔を覆った男が、紫雫久の懐――文箱へと手を伸ばしてくる。
紫雫久は即座に刀を回し、その腕を払わせる。
刃と刃が擦れ、火花が散った。
一瞬、互いに動きを止めた睨み合い。
しかし、それはほんの刹那だった。
男は間髪入れず、獣のように地を蹴って突進してくる。
次の瞬間、正面から激しい鍔迫り合いとなった。
――重い。
質量が、腕を通じて骨に響く。
今の紫雫久にとって、力比べは明らかに分が悪い。
踏ん張りながら、足元の小石を蹴り上げる。
跳ね上がった石が、面の隙間に当たった。
男が一瞬、よろめいた。
その隙を逃さず、一閃。
さらに身を捻り、体重を乗せた太刀を浴びせる。
「――ぐぁっ!」
肩と脚を裂かれ、男の体勢が崩れる。
だが、怯む様子はない。
傷口から血を散らしながらも、男は即座に距離を詰め、再び斬りかかってくる。
傷が開くことも厭わず、次々と繰り出される斬撃。
一撃一撃に、覇鋼特有の鈍く、圧し潰すような重さがある。
この男は、紛れもなく高氏の人間だ。
(……まずい。右手に、力が入らなくなってきやがった)
覇鋼の痺れるような重撃が立て続けに叩き込まれるたび、
剣喰に侵された右手が、確実に限界へと近づいていく。
それを見越してか、男は致命打を狙わず、当たらずとも連撃を重ねてくる。
削るつもりだ。
右手が死ぬのを、待っている。
(それほどまでに……高瀬にとって、この箱が欲しいのか)
あるいは――
高瀬にとって、表に出ては困る“何か”が入っているのか。
思考が逸れた、その一瞬。
男の一閃を、受け止めきれなかった。
「――ッあ゙!」
衝撃が全身を貫き、背中から守匣木に叩きつけられる。
息が詰まり、視界が白く弾けた。
文箱が手を離れ、宙を舞って地面へ落ちていく。
男が突進してくる姿が、霞む視界の中で、
まるで蝸牛の歩みのように、やけに遅く映った。
(……くそ、どうにか……刀を……)
右手に力を込めるが、指が言うことをきかない。
掴み損ね、刀を取りこぼしかけた――その時。
――ばくん。
心臓が、強く脈打った。
落ちかけた刀を、左手が強く握り締める。
――澪断冰式。
左腕が描いた一閃は、迷いなく、一直線に男の腹を裂いた。
「……はぁ……はぁ……」
一瞬で、炎天下を全力で走り抜けたかのような疲労が押し寄せる。
紫雫久は膝を折らぬよう踏みとどまり、荒い息を吐いた。
ほとんど無意識のまま放った技。
それは、かつて影剋戦で受けたものだった。
(……井上の血が、守ってくれた……なんてな)
胸中で苦く笑いながら、続けて思う。
(こんなこともあろうかと、左で刀を握れるように稽古しといて正解だった)
紫雫久は文箱を拾い上げ、周囲を一瞥する。
そして、追撃を警戒しながら、その場を素早く離れた。
――この箱は、軽々しく開けていい代物じゃない。
そう、直感が告げていた。
「――よし。開けるか」
紫雫久がようやく腰を落ち着けたのは、向井家の裏手、山奥に口を開けた小さな洞穴だった。
幼い頃、偶然見つけた枯れ井戸を入口として手を加え、密かに作り上げた場所。
誰にも教えていない――柚珠葉にさえ話したことのない、彼だけの秘密基地。
灯りは心許ないが、文字を追うには十分だった。
紫雫久は深く息を吸い、文箱の蓋を開ける。
中に収められていたのは、数冊の古びた冊子。
表題はなく、ただ無言でそこに横たわっている。
(……日記、か?)
年季は入っているが、保存状態は驚くほど良い。
頁を繰るたび、墨の色は濃く、筆致もまだ生きているように目に映った。
改めて表紙をめくり、視線を落とす。
――その瞬間、指先が止まった。
後から急いで書き加えられたのだろう。
赤黒く乾いた血文字で、不揃いな筆跡が叩きつけられていた。
『上はいない
座すのは災厄のみ』
胸の奥がざわつき、落ち着かない。
思考が拒絶するように、頭に薄い靄がかかる。
それでも――知らねばならない。
紫雫久は、わずかに震える指で頁をめくった。
日記の主は、井上澪一。
刃浦創世の世に、殿上より伍剣を賜り、刃浦を治めた五参家のひとつ。
井氏の祖となった剣豪。
井上領の発足。
領主として街を整え、民と向き合い、家族と過ごす日々。
そこには、確かに
泰平を築こうとする者の苦心と、民と共に生きる温度があった。
しかし――。
日記に記される領内の様子は、次第に陰りを帯びていく。
斬っても斬っても止まらぬ諍い。
そして、街を覆った疫病。
それは井上領に留まらず、刃浦全体へと広がっていった。
澪一は、混乱の只中で考え抜いた。
この恐怖と混迷には、必ず原因があると。
やがて、ひとつの規則性に行き当たる。
諍いの中心には、常に“剣士の刻印”があった。
当時、治安維持のために認められた剣士の刀には、伍剣の加護が施されていた。
刻まれるのは、“剣と三つ目の紋様”。
その紋様を宿す刀を持つ者の周囲で、争いは絶えなかった。
澪一は即座に上殿へ報告した。
だが返ってきたのは、神器を疑う不敬だという激昂と、拒絶。
それでも澪一は調べることをやめなかった。
伍剣には、神器とは思えぬ痕跡があった。
巧妙に隠されていたが、この刀は――人の諍いと念を吸い、争いを呼び寄せる性質を持っていた。
澪一は、各領に核心を伏せたまま進言する。
加護を与えないように、と。
加護を持つ刀が減るにつれ、刀騒動は沈静化する。
その頃には、疫病の混乱も次第に収まりを見せていた。
ようやく光が差し始めた頃。
宮中より、新たな通達が下される。
――“剣警”の設置義務。
刃浦の治安維持のため、すべての剣士は伍剣の加護を受けること。
明らかに、おかしい。
澪一は再び、上殿への拝謁を願い出た。
なぜ、諍いを助長するのか。
かつての進言を、忘れたのか。
民を思い、抗議する澪一を前に、
上殿は薄く笑った。
「お前の無駄な足掻きは、よく知っている」
その周囲に漂う、黒い靄。
それは念であり、憎であり、伍剣にまとわりついていたものと同じ形をしていた。
本能が、理解してしまう。
変わったのではない。
最初から――この形だったのだ。
刃浦の主。
上だと崇めてきた存在は、争いを喰らう化け物だった。
伍剣を通じて怨念を吸い、力を蓄え、
今や刃浦全土を巻き込もうとしている。
それでも、澪一は刀を向けることを躊躇った。
一度は上と認めたものを、否定することは容易ではなかった。
上殿は続ける。
澪一の働き、観察眼を称えながら、静かに告げる。
「だが、街を侵す疫病の原因は――まだ、わかっていない」
期待するような目だった。
澪一は、咄嗟に刀を掴んだ。
抜くな、と理性が叫ぶ。
「全ての因は我にある。――斬れ」
その時にはもう、身体が動いていた。
限界だった。
終わりの見えぬ恐怖。
救えず、取りこぼし続けた命。
どれほど理性で覆っても、彼もまた――剣に生きる化け物だった。
澪一の刀は、上殿の心臓を貫いた。
これで終わる。
そう安堵する澪一を、上殿は満足げな笑みで見つめていた。
「これは……始まり……次なる……災への、始まり…………」
“斬れ”という言葉は、挑発ではなく、
完成を待つ呪いの言葉だったと気づいた時には――遅かった。
上殿の心臓は止まり、
四家の領主たちが、澪一を取り押さえていた。
事件は即座に民へと伝えられた。
『井上澪一、
殿上に刃を向け、神器の威を損なわんとした大逆の徒なり。
その剣、理を外れ、民心を惑わし、刃浦を再び乱へ導かんとす。
よって名を削ぎ、血を断ち、後世に伝うることを禁ず』
澪一は逃げた。
一族もろとも。
幾度、闇に葬られようとも、
この呪いは断ち切らねばならない。
伍剣を壊せ。
集えば、再び刃浦は災厄に呑まれる。
紫雫久は、呆然と立ち尽くしていた。
文箱の底に眠る、もう一冊の冊子へ手を伸ばす気力は、残っていなかった。
洞穴を出て、刃浦の景色を見下ろす。
眼下には、向井家の屋敷。
――ぽつり。
雨粒が頬を打つ。
やがて雨脚は強まり、刃浦を覆い尽くしていく。
表情は凪いでいた。
だが胸の奥では、血が沸き立つような何かが、激しく蠢いていた。
やるべきことは、わかっている。
紫雫久は、静かに一歩、踏み出した。
向井家の裏門を押し開ける。
雨に濡れた敷石の向こうで、笠を被った家士二人と視線がぶつかった。
紫雫久の姿を認めた瞬間、二人は一斉に刀を抜き放つ。
躊躇はない。すでに、命令は下っている。
紫雫久は予感していた。
文箱の奪取に失敗した高瀬が、このまま黙って引き下がるはずがない。
汚名を着せ、追い詰め、正義の名の下に刈り取る。
そういうやり口を、あの家は好む。
だから、彼らを斬ることに迷いはなかった。
踏み込む。
刃が交わる音は一瞬だけ。
血を含んだ雨が、ぬかるみへと落ちる。
紫雫久は振り返らず、そのまま駆け抜けた。
血を洗い流すように降る雨の中、馬屋へ身を滑り込ませる。
物音は、すでに拾われている。
人が集まるのも時間の問題だ。
息を殺し、台所方へ続く通路を抜ける。
躊躇なく中の間へ侵入した。
遅れて、怒号と足音が屋敷の奥から湧き上がる。
侵入者を告げる声が、波のように広がっていく。
紫雫久はそれを横目に、廊下を進んだ。
(……やっぱり、屋敷を襲うには中を知っていないと無理だな)
脳裏をよぎるのは、最近続いた襲撃事件。
内部を知る者の動き。
そして、それを許した――あるいは、仕組んだ存在。
奥の間の入口には、家士が陣を敷いていた。
並ぶ切先。
剥き出しの殺気が、廊下の空気を張り詰めさせる。
紫雫久は、足を止めない。
悲観も、逡巡もない。
ただ、刀を振るった。
一太刀ごとに、風が裂ける。
右手で放つ一閃が身体を裂き、旋回の勢いのまま左手に持ち替え、深く肉を削ぐ。
動きに淀みはない。
死角は、存在しなかった。
数息の後、道は開けていた。
続けて紫雫久が向かう先は、御神庫。
向井の屋敷の中でも、ひときわ人の出入りが制限された広間。
音を吸い込むような静謐が支配する、その最奥。
そこに、五参家が守るべき――井氏の伍剣が祀られている。
紫雫久は、鎮座する刀を睨んだ。
一族の誇りであり、
一族の呪いでもあるものを。
一歩、歩みを進めた、その時――
「――紫雫久!!」
鋭く張り裂ける声が、広間に響いた。
振り向けば、家士を率いた柚珠葉が立っていた。
幾本もの切先が、紫雫久を寸分違わず捉えている。
包囲の中心で、柚珠葉の刀だけが、かすかに揺れていた。
「――柚」
紫雫久は、喉の奥で名を転がすように呼んだ。
「俺は、伍剣を破壊しに来た」
その言葉に、柚珠葉の表情が強く歪む。
怒り、悲しみ、苛立ち――抑え込んできた感情が、一斉に噴き出した顔だった。
「お前は、どうする?」
奥歯を噛み締め、肩を震わせながら。
今にも泣き崩れそうなほど掠れた声で、柚珠葉は叫んだ。
「――かかれッ!!」
号令と同時に、家士たちが雪崩れ込む。
四方を囲まれようと、紫雫久は一歩も退かずに刀を振るった。
喉を裂き、刃を返して腕を断つ。
よろめいた相手を蹴り飛ばし、背後から迫る気配を断ち切るように腹を抉る。
切先が額を掠め、血が弾ける。
赤く滲む視界を無視し、尚も刀を振り続ける。
振り下ろされる刀を低く屈んでかわし、そのまま回し蹴り。
人が将棋倒しに崩れ、視界が開けたその先――柚珠葉と、目が合った。
構える間もなかった。
次の瞬間、紫雫久の右腿で血が爆ぜる。
「……相変わらず、ねちっこい攻撃」
呟きは、怒号と刃音に飲み込まれた。
左手の一閃。
だが、背後からの突撃には間に合わない。
紫雫久は右腕を突き出し、生身のまま刃を受け止めた。
骨に食い込む感触と引き換えに動きを止め、至近距離から腹を裂く。
右手は、すでにほとんど力を失っている。
握れぬなら、せめて盾として使うだけだ。
だらりと垂れ下がる右腕。
顔の半分を血で染めながらも、紫雫久は歩みを止めなかった。
「どうして…………」
その声が聞こえた頃には、
同じ空間に立っているのは、柚珠葉だけになっていた。
「どうして……ッ!
どうして言うこと、聞いてくれないの!?」
堰を切ったように、柚珠葉の目から涙が溢れ出す。
まるで、幼子のわがままのような叫びだった。
「おとなしくしてって……なんでいつも紫雫久は、災ばっかり!
お前の無茶のせいで、私が何回頭を下げたと思う!?
どれだけ心配して、眠れない夜を過ごしたと思う!?」
息を吸い、吐き、声を震わせて。
「挙句に、宮中で人を殺した……?
ふざけるな!!
ただ、この家に尽くしてくれていればよかったのに……
お前のせいで……ッ
お前のせいで父上は……!!」
紫雫久は、何も言えなかった。
どれも正しい。
何も知らぬまま、柚珠葉に、向井家に、甘え続けた結果だ。
「うわぁぁぁぁあっ!!」
柚珠葉が刀を構え、一直線に突進する。
振り下ろされる刃を受け流し、二度、三度と斬撃を交える。
すべてが急所を狙う、本気の一太刀。
刃と刃がぶつかり、火花が散る。
「――ごめん、柚」
鍔迫り合いの最中、紫雫久は小さく呟いた。
次の瞬間、肩と腿を切り裂く。
痛みに耐えきれず、柚珠葉は床に崩れ落ちた。
「それでも、俺は――終わらせなくちゃいけないんだ」
腱を裂かれた脚を引きずりながら、紫雫久は伍剣の前へ辿り着く。
残された力を掻き集め、刀を大きく振りかぶる。
重く風を切る音。
伍剣に纏わりつく靄を断ち切り――その直前で、刃は止まった。
腹部に走る、鈍く熱い痛み。
視線を落とすと、刀が自分の腹を貫いていた。
「…………ゆ、ず」
乾いた音を立てて、紫雫久の手から刀が滑り落ちる。
腹から刃が抜かれ、全身の力が一気に失われた。
それでも床に倒れることはなく、その体は柚珠葉に抱き止められる。
雨のように、柚珠葉の涙が降り注ぐ。
紫雫久は、それが悲しくて。泣き止ませようと、震える手を伸ばす。
涙は、止まるどころかさらに勢いを増す。
どうすれば泣き止んでくれるのか――
答えを探す前に、視界が大きく揺れ、
そのまま、意識は奈落の底へと沈んでいった。
――二年後。
「何度来られても、私は何も知らないから」
向井家正門。
花衣霞を門前で突き返す柚珠葉の表情は、ひどく冷たかった。
感情を削ぎ落としたその顔は、まるで能面のように動かない。
「その名前、次に口にしたら――
喉を裂いてやってもいいんですよ」
低く、しかし確かな怒りが滲んでいる。
井上という名が、再び“裏切り者”として刃浦に広く知れ渡ってから、すでに二年の月日が流れていた。
あの日。
柚珠葉が腹を貫いた後も、紫雫久の息は確かにあった。
はなから殺すつもりではなかった。
最低限の処置を施し、寝室に寝かせた。
――だが、ほんの一瞬、目を離した隙に、寝床はもぬけの殻になっていた。
それ以降、紫雫久の行方を知る者はいない。
消えぬ汚名。
すでに殺されたと囁く者。
どこかで復讐の機を窺っていると怯える者。
今や井上紫雫久という男は、
刃浦を脅かす“悪魔”のような存在として語られている。
それでも――
花衣霞は、ただひとり。
彼の潔白を信じ、その消息を追い続けていた。
事件当日の痕跡を求め、何度も柚珠葉の元を訪れては、同じように追い返されている。
「……では、井氏の伍剣は今、どこにある」
なおも食い下がる花衣霞に、柚珠葉は小さく息を吐いた。
「それは……」
「――柚珠葉、客か?」
背後から現れたのは、煌羅嘉だった。
瞬間、花衣霞の全身に緊張が走る。
無意識に、懐の紡響を握る手に力がこもった。
紡響が最後に発した伝令には、
『高氏警戒』の四文字が刻まれていたからだ。
「悪いが、これから大事な話がある」
「……わかった」
花衣霞はそれ以上問わず、踵を返す。
その背に、煌羅嘉の声が投げかけられた。
「向井の伍剣は、高瀬家が責任を持って守っている。
――悪魔に壊されては、かなわないからな」
花衣霞の歩みが、一瞬だけ止まる。
耳が、ぴくりと動いた。
今すぐにでも殴り飛ばしたい衝動が胸を焼く。
だが、振り返らない。
そのまま、屋敷を後にした。
握り締めた紡響は、沈黙したままだ。
夢の中ですら、彼の行方を知らない。
「どこにいる……紫雫久…………」
吐き出された名は、
潮風に攫われ、音もなく空に溶けていった。




