《番外》泡影
闇夜に紛れる鴉は、月光を避けきれず地に影を落とす。
高瀬の街は月が近い。
そう思いながら、腕に止まった連絡係の嘴を労わるように撫でた。
諜報において、遠方との連絡手段は命に等しい。
この鴉は幾度もの死地を越え、厳しい訓練を生き抜いた個体だ。
それを――この男、黒木澄々は
「……ふっ、またやってる」
“私用”で、日に何度も往復させている。
届いた文は短い。
『弟弟子ガ為、作リシ夕食。
鍋、焦ガシ壊ルル』
黒木家の一角で起きた、他愛もない夕餉の一幕。
何もできないくせに、気づかぬまま兄貴面をする。
その癖が放っておけなくて、だから可愛い。
(帰りに鍋を買って、火傷してないか見てやらないとな)
こんな面倒な試験は、さっさと終わらせたい。
そう思いながら、澄々は鴉を夜へ放った。
《番外:泡影》
ひと足先に試験を終えた澄々は、その足で一飛びに帰路へついていた。
(高瀬の罠だとは思ってたけど……まさか五参家を通すとはね)
人質を取ったつもりなのだろうか。
そんな浅はかさに、思わず鼻で笑う。
片手には件の鍋。
弄ぶたび、陽の光を反射して鈍く光る。
その縁に、等間隔で人影が映り込む。
(あー……そりゃそうだ。今が一番、後をつけやすい)
澄々は気にも留めず、神社へ続く石段へと足を向けた。
林を割るように建てられた社は、登るほどに闇を深くする。
追手は距離を保ちつつ、その背を追った。
一本道のはずなのに輪郭が揺らぐ。
視界が、定まらない。
焦りが、足音に滲む。
――その瞬間。
びゅう、と強い風が吹き抜けた。
木々が軋み視界を遮る。
次の瞬間、そこにあるはずの背中は、消えていた。
慌てて階段を駆け上がる。
辿り着いた先は、開けた境内。
人の気配はどこにもない。
砂利を踏む音すら気にせず、辺りを見回す。
一歩、二歩。
三歩目で――
とん、と背に何かが触れた。
「……つっかまーえた」
次の瞬間、視界が反転する。
背中を打ちつける衝撃。息が詰まる。
反射的に蹴り上げるが、鍋に阻まれた。
掴みかかろうとしても、力が抜ける。
雲を掴むような感触のまま、地面へ叩き伏せられる。
顎を打ち、視界が白んだ。
気づいた時には、腕を縛られ、芋虫のように転がされていた。
「参拝客にでも助けてもらえ」
「……いっそ殺せ。そっちの方が楽だろ」
「あんた高瀬だろ。なるべく事を荒立てたくないんだ」
澄々は肩をすくめ、鳥居へ向かって歩き出す。
「おい。お前の“猫”は元気か?」
その一言で、足が止まった。
「そうだった、そうだった」
再び距離を詰める気配に、追手は薄く笑う。
「お前のせいで鍋が歪んじまったんだ。だから……落とし前、な?」
「――え」
ぼきり、と乾いた音が鳴った。
肺の奥で、木が折れるような感覚。
呼吸が、できない。
「死にゃあしないさ」
澄々はそう言って、歪んだ鍋を拾い上げた。
そして、来た道を何事もなかったかのように戻っていく。
その瞬間だけ走った澄々の殺気に、
追手は、仲間へ合図を送ることすらできなかった。
黒木の屋敷には、いくつもの出入り口がある。
そのひとつをくぐると、廊下の奥から――とん……と、とん……と、不規則な足音が聞こえてきた。
それを耳にした瞬間、澄々の目尻が溶けだす。
「ただいま、宏花」
わずかに右脚を引きずりながら姿を現したのは、兄弟子の柳木宏花。
数年前に柳木家が解体されてからは、黒木の屋敷で世話になっている。
「おかえり。……なんだ、その手は」
抱きつこうと広げた腕を、宏花は容赦なく叩き落とした。
その音を合図にしたように、家士たちがわらわらと集まってくる。
ここは母屋から最も離れた一角で、仕える者たちものんびりした気質の者ばかりだ。
荷物や鍋、羽織を手際よく預けながらも、澄々は懲りずに再び宏花へ手を伸ばす。
不自由な足では逃げ切れず、結局は抱きつかれたまま、家士たちと応対する羽目になった。
「……その鍋は何だ」
「ん゙ー、阿呆のせいで駄目になった」
「そうなの?」
「いえ、少し凹んだだけで使えますよ。良い鍋です」
そう言ったのは、鍋を受け取った幼い弟弟子だった。
慌てて口を塞ごうとする大人たちの動きが、少し遅い。
「料理する気か?」
澄々は、宏花の首元に顔を埋めたまま首を振る。
髪がくすぐったくて軽く頭を叩いたが、抱きつく力はむしろ強まった。
「この前、ひとつ焦がしたばっかりですから、ちょうどいいでしょう」
それを聞いた宏花は、じっとりとした目で澄々を睨む。
「……また無駄遣いしたな」
「いつものことだろ。いい加減、慣れてくれよ」
「そういう問題じゃない。だいたい、鍋を…焦がし…たことなど、知ってどうする」
「知りたいんだよ。宏花のことは、全部」
肩に頬を預けたまま、見上げるように言う。
この美丈夫に、こんな言い方をされて平然としていられる人間は少ない。
――宏花を除いて。
「かわいこぶるな」
「――いたっ!」
額を小突かれた澄々はむっとして、さらに強く抱きついた。
宏花はその様子に、熊ほどに育った犬に懐かれたら、きっとこんな気分なのだろうと思う。
重くて、鬱陶しい。
「さっさと風呂にでも入って来い」
「んー、もうちょっと……」
「そう言って、いつも夜更かしするだろ。鈴鳴り様が来るぞ」
「いくつだと思ってるの」
「三つの赤子かと思っていたが、違うのか。
……今のうち、風呂の用意をしてきなさい」
その言葉に、家士たちは合図を受けたように散っていく。
「三つなわけあるか」
澄々はそう呟いて、宏花の藍褐の髪をかき分けた。
そのまま、そっと唇を寄せる。
「……っ」
雪のような肌に、淡い花弁が舞う。
離れて正面から見れば、不機嫌そうな顔のまま、頬だけが桜色だった。
それが可笑しくて、もう一度、啄むように口づける。
重なる息の合間、ふと澄々は思い出したように呟いた。
「……そうだ。火傷してない?って確認するんだった」
「風呂で見ればいいだろ」
何でもないことのように小首を傾げる宏花に、澄々は目を細める。
「……宏花って、たまに色狂いみたいなこと言うよな」
「嫌いじゃないだろ」
伸びてきた腕が、澄々の首に回る。
「――もちろん、大好き」
そのまま抱き上げると、宏花は驚くでもなく腕を回した。
七日ぶりの重みが、やけに愛おしい。
夜はまだ長い。
どうか、朝が来るまで――何にも邪魔されませんように。
そう願いながら、澄々はもう一度、そっと口づけた。




