海の叫びと嘆きの面
——刃浦の治まりしは今をさかのぼること凡そ百八十年。
その頃の刃浦は、諸勢力相争い、日夜に剣戟の声やまず、
血煙地を覆うこと常とした。
斯かる有様を憂え給うた殿上の御方、
ある年、自ら当地に下向あらせられ、
正義を象る一振りの神器を示し給う。
古記に曰く、これ、乱を鎮むる御心の徴なりと。
神器の御威光を拝した五名の剣士、命を奉じて諸乱を平ぎ、
ついに刃浦を静域へと転たしめた。
功既に顕れしをもって、殿上の御方、五人に領を分け与え、
それぞれ家を立てしめ、天座の左右に列しめて政務を掌らしむ。
後世、これを“五参家”と号す。
五参家の制は、歳月を経るとも廃ることなく伝え継がれ、
歴代の家名は時代の移りとともに換わりしといえども、上殿の御心を体し、
神器に象徴されし正義を体現する務めは久しく変わらず。
たがいに均衡を保ちつつ刃浦の政を預かり、
地の安寧を支えてきたところである。
——今の世に至り、
五参家の席を占めるは、高瀬・佐藤・黒木・福田・向井の五家にして、
これらこそが当代、天座の下に連なり、刃浦を統べる領主家なり。
《第一章:海の叫びと嘆きの面》
花が芽吹き、そっと大地が冬の眠りから目覚める頃。街にも徐々に活気が満ちていく。
刃浦の南東に位置する井氏・向井領では、この日も大漁を告げる漁師たちの声が賑やかに響いていた。
「紫雫久! お前も食っていくか?」
「ありがと、八さん。今日は何が釣れた?」
漁師に声を掛けられた青年は腰に差す刀を収めると、少年めいた軽やかさで駆け寄っていく。早朝からの鍛錬で、腹もほどよく空いていたのだろう。
名は井上紫雫久。向井家に居候する身でありながら、その腕前は領内随一と謳われる剣士である。挑んだ者は皆、儚げに散っていった――そんな噂さえある。
今朝の稽古相手は春の風だったようで、腰を越えて流れる絹のような黒髪には桜の花びらがひとひら淡く留まっていた。
「美味っ! やっぱり獲れたては格が違うねぇ」
「ほれ、これも食え。真鯛の潮汁だ」
「はぁ〜〜最高。どうした? 今日はやけに至れり尽くせりじゃないか」
「あー……実はな、お前にちょいと相談があってよ……」
漁師の話によれば、近ごろ漁師たちの間で奇妙な出来事が相次いでいるという。
始まりは、網にかかった一つの“面”だった。
絵柄も装飾も一切なく、ただ簡素に作られたその面は、中将にも小面にも似た、無機質でどこか禍々しい空気を湛えていた。
それを拾った者は、以来、毎夜のように面に追われる悪夢を見るという。
しかし面を拾う者は後を絶たず、誰もが例外なく悪夢にうなされ、中には目覚めなくなった者さえいるらしい。
「とにかくよ、これから漁の繁忙期って時に皆が怖がっちまって大騒ぎなんだ」
「なるほどね。——で、その面は今どこに?」
「それがよ、拾って持ち帰ったやつも何人かはいるんだが……次の日には跡形もなく消えちまうんだと」
「ほう、それは面倒だね。じゃあ、こっちから出向くしかないか……。
分かった。これの礼に調べておいてやるよ」
紫雫久は椀を軽く振って笑い、潮の香りを含む春風の中へと視線を向けた。
「だからさぁ柚、早くそれ食って見に行こうぜ」
「行かない」
向井家へ戻った紫雫久は、朝食をとる青年に先ほどの出来事を話して聞かせた。
彼の勝手気ままな振る舞いは今に始まったことではない。食事中の部屋へずかずか入り、食卓に頬をべったりつけて話しかける姿にも、もはや誰も驚かない。
とはいえ、まったく気にしていないわけでもないらしく、“柚”と呼ばれた青年は眉を寄せ、冷ややかな否を突きつけた。
男の名は向井柚珠葉。この領地を治める向井家の子息で、幼い頃より紫雫久とは兄弟同然に育ち、彼を弟のように思い接してきた。
「なぁんでだよ〜!気にならねえの? 呪いの面だぜ、呪い!」
「逆に、呪いと聞いて怖がりもせず知的好奇心で追い回すお前の方がどうかしてるの」
「柚、もしかして怖いの?」
「怖くないよ…」
子どもを諭すような穏やかさで告げる柚珠葉。
こうなった紫雫久が梃子でも動かないことも、結局は自分が連れ回されることも分かりきっている。ならばせめて「剣堂の掃除一週間」ほどを交換条件にできないか――そんな計算が米粒とともに口へ運ばれる。
しかし柚珠葉の考えがまとまるより早く、紫雫久が、ぱんと手を合わせた。
「わかった! じゃあ来てくれたら柚の代わりに――」
「代わりに?」
柚珠葉は箸を置き、じっと紫雫久を見る。
「“ゆら”で一週間、茶屋代、立て替えてあげる」
「……チッ…………わかったよ」
「そう言ってくれるって信じてた!」
利発な顔には不釣り合いな舌打ちをひとつ残しつつ、柚珠葉は承諾した。
“ゆら”とは、二人が足繁く通う茶屋――浜ゆら庵である。
そこには、柚珠葉が密かに思いを寄せる娘が働いているのだ。
そうと決まれば早々に片付けようと、二人がまず足を運んだのは、夢から醒めなくなってしまったという漁師の家。
「どう思う?」
「確実に取り憑かれてる……けど」
「そういうことする怪異じゃないはずなんだけどねぇ」
床に伏す漁師は一見すればただ静かに眠っているだけに見えるが――剣技とはこの世の真偽を見極めること。腕の立つ剣士である2人には眠る漁師の辺りを、黒いもやのような怨念が漂って見えた。
「なんだよ。何が憑いてるんだ」
「八さん、あまぐやしだよ。これ」
たまらず声をかける“八さん”と呼ばれたこの漁師は、告げられたものの正体にぎょっと目を見開き、仲間の寝顔を覗き込んだ。
「あまぐやしったって……こんな悪さはしねぇはずだろ」
「だから、ちょっと厄介かもねぇ……」
漁師の家を後にしてからというもの、紫雫久は口の端をきゅっと結び、思案に沈んでいた。目の前の団子へ手を伸ばす気配もない。
少し遠くをぼんやりと見つめ、左手は中指の爪を親指で擦る紫雫久。
それを横目に、柚珠葉はわざとらしく大口で団子を頬張った。
「早く何とかしてあげないと。あの漁師さん、このまま眠り続けたら喰われるよね?」
「ん……仮説は立てられるんだけど、結局、面の実物を――」
「紫雫久ちゃん、もしかして近頃の漁師さんたちの事件、調べてるの?」
「ワっ!」
突然の声に柚珠葉が大きく跳ね、そのまま石のように固まった。
茶を運んできたのは浜ゆら庵の看板娘・さよである。
紫雫久は柚珠葉の反応に目を瞬かせつつ、特に気に留めず続けた。
「そうだよ。どうして? おさよちゃん」
「私もね、さっき見てしまったの。あの恐ろしいお面を」
「本当に? どんなのだったか覚えてる?」
「えっと……面自体は普通で、特に模様も飾りもなかったわ。でも、裏側にも描いてあったの。
表とまったく同じ模様が――写し取られたみたいに」
「同じ模様……柚、どう思う?」
「ア、ア……おかわいそうに……おさよさんを危険に晒すなんて……け、けしからん! こと、極まりなイ!」
「…………。」
壊れたからくり人形じみた言動で右手を振り上げる柚珠葉に、紫雫久は「そういう意味じゃねえよ」と白い目を向けながら団子を一口頬張る。
頭を軽くかき、さよと目で合図を交わすと、 「お勘定」と告げて席を立った。
領土の半ばを海に臨む井派の地は、古来より海の恵みと災い、その両方と深く結びついてきた。
とりわけ、夜の海は畏れそのものである。
荒れ狂う波はどろりとうねり、海の底が大口を開けてあらゆるものを呑み込まんとする咆哮を上げ、岩肌を打つ音は、女の甲高い悲鳴めいて鼓膜を裂く。
人々はこれらを総じて“あまぐやし”と呼び、
夜の海が叫び出す折には決して近付くな――さもなくば、あの世へ引きずられる――と幼い頃から諭されて育つのが、この土地の常であった。
「たしかに……これじゃ、帰って来られる気がしねぇなぁ」
紫雫久は海へせり出す断崖に立ち、吠え立つ波間に蠢くそれを見下ろしていた。
――あまぐやし。
だが、その正体はただの迷信ではない。
正式名称、海叫群魂。
海難に散った夥しい数の死者の魂が寄り集まり怨霊と化したもので、満潮の夜、波間より恐ろしい叫びを放つ怪異である。
人を直接害す存在ではないとはいえ、黒々とした海面が手招くように揺らめく光景は見ただけで膝が震えるほどの禍々しさを孕んでいた。
だが紫雫久は、そんな波音を子守唄にでもしているのか、欠伸を噛み殺しながらぼんやりと怪異を眺めていた。
「――紫雫久!」
呼ぶ声に振り返る。
「遅かったな、柚。あと少しで陸なのに航海に出るところだったよ」
「海叫群魂を子守唄扱いしないで……。とにかく、見つけてきた」
息を弾ませながら柚珠葉が差し出したのは、一冊の古びた書物。
神事に用いられる占具をまとめた歴史書であった。
「この頁……おさよさんの言っていた特徴と合致してると思う」
「魂の界との交信を補助する占具、御霊響面……これで間違いないな。
あらかたこの面が海へ落ちて、運悪く海叫群魂と共鳴したんだろう。
強い占具は怨霊に呑まれると、怪異と人とを繋ぐ“橋”になっちまうことがあるから」
「じゃあ……原因を断つには、この面を壊すしかない?」
「そういうこと。――じゃ、あとはよろしく!」
紫雫久は笑みと共に軽く手を振り、次の瞬間、崖の縁を蹴って黒い海へと飛び込んだ。
目を向けた時にはもう遅く、荒波は彼の姿も、柚珠葉が叫ぶ声も、小さく漏れた舌打ちすらも――一息に呑み込んでしまった。
ごうごうと獣のように吠える波が、紫雫久の身体を荒々しく攫う。
春先の海は氷のごとき冷たさで、触れられた皮膚から確実に体温を奪っていった。
視界は暗い水と泡に塗りつぶされ、上下の感覚も失われる。
その只中に、耳朶を裂くような叫びが満ちた。
――アァァァァァ……アアア……。
それは波音ではない。
海の底で失われた数えきれぬ声が、幾層にも折り重なり、軋んでいるのだ。
やがて、時の流れすら曖昧になるほど翻弄された頃――ふいに、海が静まった。
凪。
まるで怪異自身が息を吸いこむかのような、底冷えする静寂。
紫雫久はその一瞬の隙を逃さず即座に刀を抜き、虚空を切り裂くように一閃を放つ。
リン――。
深海の暗黒に似つかわしくない、澄んだ鈴の音が震えた次の瞬間、
地鳴りのような咆哮が返ってきた。
叫びは膨れ上がり、千の喉が一度に悲鳴を上げたかのように四方から押し寄せる。
「――ッ!」
紫雫久の肺から空気が押し出され、
胸骨の裏が音を立てて凹んだかと思うほどの圧力が襲う。
視界の端で、金平糖めいた白い光がぱちぱちと弾け、
闇にのまれて消えた。
(やべ…息が……くる、くる回る風車の……ア…柚の背中に、見たことない色のカナブン止まってる……)
酸欠で意識が薄れ、いつの記憶とも知れぬ映像へ手を伸ばす。
その手は、水の圧に押し返されるばかりだ。
叫びの渦が脳の中を掻き回し、思考は断ち切られていく。
――そのとき。
誰かの指が、ぐいと腕を引き戻したような感触があった。
「紫雫久!」
ざばん、と海面が割れ、風の匂いと共に肺へ酸素が流れ込む。
「――ゲホッ、ゲホッ……柚……」
遠のきかけた鼓膜に、徐々に現実の音が戻ってくる。
柚珠葉が必死に抱え上げてくれたのだと悟った。
船べりに凭れかかりながら呼吸を整える紫雫久を、柚珠葉は心配と怒りの入り混じった眼で睨めつける。
「泳げないくせに海に飛び込む馬鹿がどこにいるの!」
まだ息の整わない中で兆しを見せる小言に「ちょっと待って」と上げた手が挙手と受け取られ、「ふざけんなよ」と容赦なく押し倒された。
「ちょ、柚……まじで……ごめんッ……苦し……」
「せめて言ってから行動してって、いつも言ってるよね!? 私だって、毎回助けられるわけじゃないんだから!」
「でも……助けてくれるじゃん……」
「だからそれは結果論で――!」
叱責の途中で、柚珠葉はふっと力を抜き、濡れた紫雫久の髪をそっと撫でた。
「……とにかく。生きててよかった」
「……うん。ありがと、柚」
眉間に寄る皺にほんの少しだけ、罪悪感を抱いた。
柚珠葉の差し伸べた手を握り、紫雫久はふらりと身を起こした。
「……で、この面が御霊響面ってやつ?」
船底には砕けた面が転がっていた。
どれほどの渦に呑まれようと、紫雫久はその手を決して離さなかったらしい。
「ああ。見立てどおり、海叫群魂の中心に沈んでたよ。……ほんとにまだ残ってたとはねぇ」
「百年前にはもう廃れたって聞いたのに。父上も記録を掘らないと出てこないくらいだったんだけど」
今はただの木片と化した面を、ふたりはしばし黙して見つめた。
「問題はこれを今も持っていた人間だよね。海に落ちたのか、それとも面だけを意図的に投げ入れたのか」
「海に突き落とされた、って可能性もあるなぁ……」
紫雫久の脳裏に、崖際に残っていた足跡がよぎる。
あれは、足を滑らせた跡ではない。抵抗した痕だ。
「この紋様、もしかして……」
柚珠葉が言いよどむ。
「何」
「いや。まさかとは思うけど……殿上院の紋だよね、これ」
「殿上の?」
「“様”をつけろ。……でもさ、御霊響面ってあまりにも危険で、覗くだけで魂を削られるからって一時は禁じられたはずだよ。
そんな代物を殿上様の近くに仕える者が持ち歩くかな……?」
紫雫久は赤い桐紋へ視線を落とした。
濡れた木片にひたと貼り付くその色は、まるで血のように冴えていた。
胸の奥で、じり……と微かな不快感が燻る。
――誰が、何のために。
――そして、どこへ向けて投げ込んだのか。
「……ま、宮中のことなんて俺らには推し量りようもないか。
解決すべき厄介ごとは片付いたし……で、夜食何食う?」
「その夜食を作るのは誰」
「そんなの、柚に決まってるじゃん。だから献立は柚が決めていいよ」
優しさと譲歩の精神を発揮した――と本人は本気で思っているらしい無垢な笑み。
柚珠葉は深々とため息を落とした。
「……そこに屋台出てたからお寿司買った。寿司茶漬けでいいね?」
「おう!」
荒れた海はようやく静まり返り、月光が水面に細い道を描いていた。
ふたりは月の浮かぶ静かな水路を背に、温かな帰路へ歩み出す。
奇怪な面は砕け、海の叫声も今は遠い。
ひとつの事件は確かに幕を下ろした――が、桐紋の赤だけが、紫雫久の胸裏で微かに燻り続けていた。




