シロイヒト
おしえてはいけない。
霧深い山間の村、黒岩集落。人口わずか300人ほどのこの小さな集落は、外部との交流が少なく、時間が止まったような静けさに包まれていた。村の中心には古びた神社があり、その裏手の山は「入らずの森」と呼ばれ、子供たちの間で幽霊の噂が絶えない場所だった。村人たちはその森を避け、夜になると決して近づかなかった。
その日、10月の冷たい風が木々の間を抜ける午後、村の入口に立つ一本の電柱の下に、奇妙な女が立っていた。30代半ばと思しきその女は、白いワンピースを着ていた。服は不自然に清潔で、まるでこの埃っぽい田舎道を歩いてきたようには見えなかった。彼女の顔は青白く、長い黒髪が風に揺れていたが、目はどこか虚ろで、焦点が定まっていないようだった。
村の雑貨店を営む佐藤健太(42歳)は、店の軒先でタバコを吸いながら、その女に気づいた。見慣れない顔だった。観光客が迷い込むような場所でもない。健太はタバコを消し、女に声をかけた。
「すみません、どちらさんですか? 道に迷ったとか?」
女はゆっくりと顔を上げ、健太を見つめた。その目はまるで彼の心の奥を覗き込むようで、健太は一瞬身震いした。
「子供を探しています」と女は言った。声は低く、抑揚がなかった。
「子供? 迷子ですか? どんな子か教えてください。村でならすぐ見つかりますよ」と健太は答えた。村に子供は少なく、顔見知りばかりだ。迷子ならすぐに分かるはずだった。
「5歳くらいの男の子か女の子です」と女は答えた。
健太は少し眉をひそめた。「男の子か女の子? どっちなんですか? 双子とか?」
女は一瞬黙り、風が彼女の髪を揺らした。「…はい、双子です。二人とも白い服を着ています。私と同じ服です。」
「白い服、ですか。ふむ、二人とも同じ服ってのは目立つな。けど、この辺でそんな子供は見かけないなあ。山口さんちの佳穂ちゃんくらいしか…」
その瞬間、女の顔が一変した。虚ろだった目が鋭く光り、健太に詰め寄った。「その家はどこですか?」
健太は女の迫力に圧倒され、思わず後ずさった。「お、おっと、落ち着いてください。あそこ、ほら、村の西の新しい家です。赤い屋根の…」
女は健太の言葉を最後まで聞かず、振り返ると早足で歩き始めた。白いワンピースが風に翻り、まるで幽霊のように見えた。健太は彼女の背中を見送りながら、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「なんだったんだ、あの女…」彼は呟いた。
山口家の異変
山口家は3年前、都会からこの村に移り住んできた。父親の山口修(38歳)は小さなIT企業を経営しており、リモートワークのために静かな環境を求めて引っ越してきたのだ。妻の美咲(35歳)と娘の佳穂(7歳)は、村人たちと穏やかに交流していたが、どこかよそ者扱いされていた。佳穂は明るい子で、村の子供たちともすぐに打ち解けていたが、最近は学校から帰ると家に閉じこもりがちだった。
女が訪れた日の夜、山口家では奇妙な出来事が起こっていた。美咲は夕食の準備をしながら、佳穂がリビングで絵を描いているのを見ていた。佳穂の描く絵はいつもカラフルで、動物や花が多かったが、この日の絵は違った。真っ白な紙に、黒いクレヨンでぐちゃぐちゃに塗りつぶされた人影のようなものが描かれていた。
「佳穂、これ何? ちょっと怖い絵ね」と美咲が笑いながら尋ねると、佳穂は手を止めた。
「白い女の人」と佳穂は答えた。声は小さく、どこか怯えているようだった。
「白い女の人? 誰のこと?」
佳穂は答えず、ただじっと絵を見つめた。その夜、佳穂は寝室で何度もうなされ、修と美咲は交代で彼女をなだめた。翌朝、佳穂は学校に行くのを嫌がり、「白い人が見てる」と繰り返した。
同じ頃、村ではあの白い服の女の噂が広がり始めていた。雑貨店の健太が他の村人に話したところ、誰かが「あの女、10年前にも見た」と言い出した。70歳の老婆、田中ハナは、震える声でこう語った。
「10年前、似たような女が村に来たよ。白い服着て、子供を探してるって言ってた。その後、子供が一人消えたんだ…。あの森で。」
村人たちはその話を半信半疑で聞き流したが、不穏な空気が広がり始めた。
佳穂の失踪
数日後の朝、山口家は騒然としていた。佳穂がベッドから消えていたのだ。窓は閉まり、玄関の鍵もかかったまま。修と美咲は必死で家を探し、近隣の家や村の広場、神社まで走り回ったが、佳穂の姿はどこにもなかった。
警察が呼ばれ、村は一気に緊張に包まれた。刑事の藤田悠斗(32歳)は、都会の署から異動してきたばかりの若い刑事だった。彼はこの小さな村での事件に、どこか不気味なものを感じていた。村人たちへの聞き込みで、健太が白い服の女の話をしたとき、藤田の表情が曇った。
「その女、どんな顔だった?」藤田は尋ねた。
「顔…はっきり覚えてないんですけど、青白くて、目が…なんか変だった。ゾッとするような」と健太は答えた。
藤田は山口家を訪れ、佳穂の部屋を調べた。そこにはあの不気味な絵が残されていた。黒いクレヨンで塗りつぶされた人影と、赤いクレヨンで書かれた「シロイヒト」という文字。藤田は絵を手に取り、背筋が凍るのを感じた。
その夜、藤田は村の古老たちから「入らずの森」の話を聞いた。戦前、森の奥に小さな小屋があり、そこで奇妙な儀式が行われていたという。戦後、小屋は放置され、村人たちは近づかなくなったが、時折、森から不気味な声や光が漏れるという噂があった。
森の秘密
藤田は翌日、森の調査を決意した。地元の猟師、松本一郎(50歳)を案内役に、藤田と数人の警察官は森へと入った。森は昼間でも薄暗く、空気が重かった。木々の間を抜ける風はまるで呻き声のようで、藤田は自分の心臓の鼓動がやけに大きく聞こえた。
1時間ほど歩くと、噂の小屋が見えてきた。朽ちかけた木造の小屋は、まるで時間が止まったかのように不気味だった。扉は半開きで、中からカビと湿気の匂いが漂ってきた。藤田は懐中電灯を手に慎重に中に入った。
小屋の床には埃が積もり、壁には奇妙な記号が刻まれていた。中心には古い祭壇のようなものがあり、その上には白い布が置かれていた。布には赤黒い染みが広がり、藤田はそれが血痕だと直感した。
「これは…何だ?」松本が震える声で呟いた。
祭壇の横に、子供の靴が落ちていた。白いスニーカー。佳穂が履いていたものと同型だった。藤田はすぐに鑑識を呼び、現場を封鎖した。
その夜、藤田は夢を見た。白い服の女が彼の前に立ち、虚ろな目でこう囁いた。「私の子を返して…」藤田は汗だくで目を覚ました。
白骨の真実
数ヶ月後、藤田の捜査は進展を見せていた。森の小屋で発見された白い布から、複数のDNAが検出された。その中には佳穂のものと一致するものもあったが、他にも複数の子供のDNAが含まれていた。驚くべきことに、それらは10年、20年前に失踪した子供たちのものと一致した。
藤田は村の歴史を調べ始めた。黒岩集落には、戦前から続く奇妙な伝承があった。村が飢饉や疫病に見舞われたとき、子供を生贄に捧げることで災いを鎮める儀式が行われていたという。その儀式は「白い女」と呼ばれる存在に捧げられるものだった。古老たちは口を揃えてこう言った。「白い女は子供を連れていく。彼女を怒らせると、村に災いが降る。」
藤田は科学的な視点からその話を信じなかったが、佳穂の失踪と白い服の女の関連性を無視できなかった。彼は小屋での調査を続け、ついに地下室を発見した。そこには白骨化した複数の遺体が積み重なっていた。その中には、佳穂のものと思われる小さな骨も含まれていた。
終わりなき追跡
藤田は白い服の女の行方を追ったが、彼女はまるで幽霊のように消えていた。村人たちの証言は曖昧で、誰も彼女の正体を知らなかった。藤田は一つの仮説を立てた。女は実在の人物ではなく、村の呪いそのものなのではないか。あるいは、過去の儀式に関わった誰かが、復讐のために子供を奪い続けているのか。
物語の終わり、藤田は再び森の小屋を訪れる。そこには新たな白い布が置かれ、血痕がまだ乾いていなかった。背後でかすかな足音が聞こえ、振り返ると白い服の女が立っていた。彼女の目は真っ黒で、口元に不気味な笑みが浮かんでいた。
「私の子を返して…」彼女は囁いた。
藤田が拳銃を構える瞬間、女は霧のように消えた。森は再び静寂に包まれたが、藤田の耳には子供たちの泣き声が響き続けていた。
黒岩集落は、佳穂の失踪事件を機にさらに寂れていった。村人たちは次々と村を離れ、残った者たちは夜ごと聞こえる子供の声を恐れた。藤田は刑事を辞め、都会に戻ったが、毎夜、白い女の夢にうなされた。
白い服の女は今もどこかで子供を探している。彼女が現れるたび、新しい子供が消える。そして、黒岩集落の森は、決してその秘密を明かす事はなかった。