八.タンポポの綿毛
「ママを助けに行きたい?」
朋子の言葉を聞いて、精霊はおうむ返しのように言った。
美月と朋子がコウタロウを連れて『おてんばさん』に戻ったとき、さいわいまだ満月は二本松をあかあかと照らしていた。もういなくなってしまったかと心配したけれど、精霊はその木にもたれてお月様を見ていたのだ。
「そう。朋子のママがけがをする前に戻って、バイクにはねられないように助けたいの。」
美月が代わって説明した。
精霊は、しばらくふたりの顔を見くらべると、ポシェットからあの連絡帳を取り出してページをめくった。それからしばらくそのあたりを行ったり来たりしてから、ちょっと困ったような顔を上げた。
「できないことはないけど、ちょうどいい時間に戻してあげることって、簡単じゃないのよね。」
「どういうこと?」
美月が首をかしげると、精霊は連絡帳をヒラヒラと振って見せた。
「これによると、美月と朋子が出会ったのは、朋子のママがコウタロウと散歩に出かけたすぐあとよね。」
「そうだけど。」
そう答えて、美月は朋子を見た。朋子も精霊が何を言いたいのかよくわからない顔をしている。
「朋子のママがバイクにはねられるまでに、時間はそんなにたっていない。そうよね。」
精霊がコウタロウの方を向くと、コウタロウはワンとほえた。
「そこが問題なのよ。朋子のママを助けに戻るっていっても、事故のあとに着いたって意味ないわ。といって散歩に出かける前じゃあ、あなたたちはまだ会ってもいない。そんな前に戻ったら、わけがわからなくなる。つまり、戻るとしたら、朋子のママが散歩に出かけてから、事故にあうまでのほんのちょっとの間でなきゃだめでしょ。でも、そんなにかっきりピッタリ、時計の針を戻すのは難しいのよ。」
ようやく美月と朋子は事情を飲みこめた。けれど朋子は引き下がらなかった。
「でも、そうしないとママを助けられないもん。」
精霊は朋子をじっと見つめた。
「それに、あたしがかなえてあげられるお願いはひとつだけよ。もうほかのお願いはきかないからね。それでもいいの?」
朋子はうなずいた。精霊はため息をついた。
「わかったわ。でもいいわね。ふたりとも、自分たちに見つかったらだめよ。」
「自分たち?」
美月と朋子は顔を見合わせた。
「そう。朋子のママが散歩に出かけたとき、あなたたち、朋子のうちのお庭にいたんでしょ。」
ふたりはうなずいた。
「だから、気をつけてね。今のあなたたちが昔のあなたたちを見るのはかまわないんだけど、その反対になるとたいへんなのよ。」
「つまり、朋子ンちのお庭にいるあたしと朋子に、今のあたしと朋子が見つかると、ダメってこと?」
美月は頭がこんがらがりそうになった。
「そう。」
「見つかっちゃうとどうなるの?」
精霊のメガネが光った。
「ふたりとも消えてしまう。」
「消えてしまう? 別のどこかに飛んでいってしまうってこと?」
朋子がまゆを寄せると、精霊は首を振った。
「ちがうわ。ホントに消えちゃうの。つまり、ふたりとも生まれてこなかったことになってしまう。」
風が吹き始めた。松の木の枝が揺れている。
美月はゾクッとした。
「それでも行くのね。」
精霊が聞いた。
朋子がこちらを振り返った。美月の心は決まっていた。
どんな危ないことが待ちかまえていても必ずチャーチャンを助け出すんだ。
美月が力強くうなずくと、朋子はにっこりとほほえんだ。
精霊はあきらめたような顔をした。
「しかたないわね。さあ、行くんならさっさとしてちょうだい。あたしもいそがしいんだから。」
美月と朋子は自転車にまたがり、アーチの中に入った。
コウタロウがついていこうとすると、精霊が赤いリードを引っぱった。
「あんたはダメよ。おうちに帰んなさい。」
コウタロウはクンクンあまえた声を出したけれど、精霊に、
「ダメったらダメ。ハウス!」
そう指をさされると、長い毛のしっぽをしょんぼりと丸めて、すごすごと引き返していった。
精霊は美月たちの方を振り向いて、
「しっかり自転車につかまってるのよ。」
そして、なにやら呪文のような言葉を唱えた。
たちまちすさまじい風が吹き、美月と朋子は高く宙に舞った。振り落とされないよう、必死に自転車にしがみつく。
「昔の美月と朋子に見つからないようにね……」という精霊の声が遠ざかっていく。
次のしゅんかん、勢いよくしりもちをついたような感じがしたかと思うと、動きがピタリと止まった。
目をあけると、またあたりは明るくなっていた。
精霊はどこにもいなかった。
さあ、急がないと……。
美月と朋子は自転車をこぎだした。
松林を抜け、湖が現れる。やがてあの緑の点が見えた。
「もう少しよ。」
ふたりは、さらにスピードを上げた。みるみるジージとチャーチャンの家が近づいてくる。そして、いけ垣のそばまでやってくると、ふたりは急ブレーキをかけた。
美月と朋子はそっと自転車を降り、そろそろと押して庭の前までやってきた。いけ垣の陰にかくれて耳をすませると、おんなの子の声が聞こえてくる。
『……ほら、あんたも立ってないで手伝ってよ。』
美月と朋子は顔を見合わせた。
昔の朋子ね。
うん。
目と目でそう言いあった。
お庭で昔の美月と朋子がしゃべっているということは、チャーチャンはもう散歩に出かけたあとだ。
精霊は、ちょうどいい時間にあたしたちを連れてきてくれたんだ……。
美月がそう考えていると、朋子はそっと首を出して中の様子をうかがおうとした。
昔の朋子とあたしに見つかっちゃうじゃない!
美月はおどろいて朋子のそでをひっぱった。けれど朋子はわかったわかったというようにおかっぱ頭をふり、やめようとしない。
美月はハラハラした。
ふと下をみると、セイヨウタンポポが白い綿毛をいっぱいに広げて、春風に揺れている。
早くしないと、チャーチャンが……
美月は気が気でなくなってきた。朋子は前に行くタイミングをうかがっている。
『あたしって、いらない子なのよね、けっきょく……。』
昔の朋子がそう言ったとき、急に風が強まった。せんたく物のはためく音が聞こえた。
朋子は美月を振り返り、
「今よ。」
とささやくと、そっと自転車を押して庭の前を横切っていった。
美月はあわててそのあとを追った。
ハンドルを握る手は汗でベトベトだ。心臓が飛び出しそうなほどドキドキしている。チラッと横を見ると、昔の美月と朋子が湖の方を向いている。
お願い。こっちを見ないで!
美月は目をつぶって、その前を通り過ぎた。
反対側の木のしげみのかげに飛び込むと、美月は後ろを振り返った。
だれも出てこない。
代わりに、庭の前を通る時にぶつかったのだろう、タンポポの白い綿毛が風に舞っていた。
美月はフウッと大きなため息をついて、前を見た。朋子はいつの間にか自転車に乗って、もうだいぶん先まで行っている。
美月は汗をぬぐって、自転車に飛び乗った。