七.「ふたりだけ」の秘密
ふたりが着いたとき、病院の入り口の大きな門はもう閉まっていた。
「どうしよう。」
自転車を降りて美月と朋子は顔を見合わせた。
するとコウタロウが、ちょっとはなれたところまで走っていって、こちらを見てワンワンと呼んだ。行ってみると、そこに小さな門が別にあった。蛍光灯に照らされて『夜間出入り口』という字が浮かんでいる。
「ここね。」
美月が鉄のとびらを開けて中に入ろうとしたとき、男の人がぬうっと現れた。おまわりさんのような制服を来て、ぼうしをかぶっている。
「犬ははいっちゃいかん。」
美月はドキッとした。けれど勇気を出してたずねてみた。
「あの、救急車で運ばれた女の人は、どこですか?」
制服のおじさんはふたりをジロリと見回した。
「おまえさんたちは?」
その顔を見て、美月はあれっと思った。どこかで見た顔だ。それに、声にも聞きおぼえがあるし……。
美月が考えていると、横から朋子が割ってはいった。
「あたしのママなの。」
おじさんはおどろいたようだった。
「そうかい、おまえさんたちの母さんかい……。」
おじさんはよく聞き取れないくらいの小さな声でぼそぼそつぶやいた。
「あそこのカーブは前からあぶないと思っとったんだ。最近はバイクも急に増えてきとったから。」
そのしゃべり方を聞いて、美月はハッと気づいた。
花村のおじいさんだ。
いつも鼻の下にチューブをつけて苦しそうに息をしている花村のおじいさん。ひがな一日安楽いすに腰かけて、昔話や言い伝えを話して聞かせてくれる花村のおじいさん。
でも、昔は、こうやって元気にお仕事をしていたんだ……。
美月はとても不思議な気がして、制服姿の花村のおじいさん(今はまだ、おじさんと言わなければ失礼かしら?)の顔をしげしげと見つめた。
「あの、それでママは?」
朋子はじれったそうに聞いた。花村のおじさんは思い出したように顔を上げて、後ろの大きな建物の方を指差した。
「母さんなら、いま手術をしているはずだよ。ほら、あそこの入り口からはいるといい。三階が手術室だ。」
それを聞くが早いか、朋子はかけ出した。
コウタロウもついていこうとしたけれど、おじさんがリードをいつのまにかぎゅっとにぎりしめていた。コウタロウは悲しそうな声を上げた。
「ワンちゃんはわしが預かっておこう。自転車もそこに置いといていいから。」
そういうとおじさんはコウタロウを門の柱にくくりつけた。それから、
「ああ、そうだ」と言って、制服のポケットから何かを取り出し、美月に差し出した。
それは、パパが持っている定期券入れのような形をしていた。おもての赤い皮のはしっこがすり切れている。
「救急隊のあんちゃんから、家族の人に渡してくれって言われたのを忘れとったよ。救急車に落ちとったそうだ。おまえさんたちの母さんのだろう?」
おじさんはチャーチャンを美月のママとかんちがいしていたけれど、美月はだまって受け取った。
中を開けてみると、透明なプラスチックのカバーの下に、少しばかり色あせた一枚のスナップ写真がはいっていた。
若いお母さんが白い布にくるまれた赤ちゃんをだっこして立っている。赤ちゃんはまだ生まれたてみたいで、とっても小さい。目を閉じてすやすや眠っている。お母さんはというと、あふれんばかりの笑顔だけれど、目にはどうしてだか涙がたまってこぼれ落ちそうに見える。
その顔をよく見ると、チャーチャンだった。髪の毛も黒々して、ちっともしわがないけれど、若い頃のチャーチャンにまちがいない。
「きれいな母さんだな。写っている赤ちゃんはおまえさんかい?」
おじさんはしゃがんでコウタロウの頭をなでている。
美月も不思議だった。
ママにはお姉ちゃんと妹の悠子ちゃんがいる。なのにどうして赤ちゃんがひとりなんだろう。
チャーチャンなら、三人のこどもがいっしょの写真を持ち歩くはずのような気がする。それともチャーチャンは、やっぱり、お姉ちゃんか悠子ちゃんか、そのどちらかがすごくかわいくて、その子とふたりだけの写真を身につけていたのだろうか。だとすれば、そんなことも知らずに、心配してかけつけた朋子がかわいそうだ……。
美月がチャーチャンと赤ちゃんの二人だけの写真に見とれていると、おじさんはふいに立ち上がった。
「さあ、なにをぐずぐずしている。母さんが待っとるぞ。」
その言葉を聞いて、美月ははじかれたように病院の建物に向かって走り出した。落っことさないように、手には赤い写真入れをギュッと握りしめていた。
美月が三階まで階段をかけ上がると、うす暗いろうかの途中に立っている朋子の背中が見えた。
美月は走っていって朋子の隣にならんだ。
「どうしたの?」
ハアハア息を切らせながら美月が声をかけても、朋子はだまって前を向いている。
見ると、『手術中』という赤い文字が光っている白いとびらの前で、男の人がふたり、小声で何か相談していた。
話しているのはこちら向きに立っている人で、美月が見たこともない緑色のガウンを着ていた。緑の布の帽子を頭にのせて、大きなマスクをしているので、目しか見えない。上に向けた両手にはうす茶色のゴム手袋をはめている。
むこう向きの人は、肩を落とし、ちょっと首をうなだれて、ときどきうなずいているだけだ。
やがてシューッと音がして、とびらがひとりでに開き、緑色のガウンを着た男の人は中へはいって行った。もうひとりの男の人がそちらに向かって頭を下げると、またシューッと音がしてとびらが閉まった。残った男の人はしばらくそのままのかっこうでいたけれど、そのうちからだを起こすとこちらを向いた。
ジージだ。
美月が男の人の顔を見てそう思ったしゅんかん、
「パパ。」
朋子は走って行って男の人に抱きついた。
「朋子。どこに行ってたんだ。」
ジージは、びっくりしたようだったけれど、朋子をしかりはしなかった。その目がちょっとぬれて光っている。
美月をさかな釣りに連れて行ってくれるジージとくらべると、今の方がずっと若い。けれど、今のジージは、いつもよりとても小さく見えた。
「ママは?」
朋子がジージの顔を見上げて聞くと、
「うん……。」
と言って、ジージは朋子の肩を抱き、だまったまま、そばの長いすに連れて行って腰を下ろした。
「ママは、頭を強く打ってね。今、先生がなおそうといっしょうけんめいがんばってくれているよ。」
ジージが口をつぐむと、病院のろうかはぶきみなくらい暗く静かだった。
「だいじょうぶだよね、ママ。」
朋子は心配そうにジージの顔をのぞきこんだ。ジージはそれには答えず、ほほえんだ。
「遅くなりそうだから、お前は、マコおばさんのところへ行っておきなさい。お姉ちゃんも悠子も、さっきおばさんといっしょに帰ったところだ。」
「でも……。」
朋子は不服そうに口をとがらした。ジージはそれにかまわず、朋子の腕を持った。
「さあ。ひとりで行けるだろう。」
そう言って、朋子といっしょに立ち上がったとき、その様子を見ていた美月に気づいた。
「きみは?」
「美月よ。あたしのお友だち。」
美月が口ごもっていると、朋子が代わりに答えた。美月はぺこりと頭を下げた。
ジージはにっこり笑って、
「そうかい。悪かったね、こんなところまで朋子が連れてきてしまって。」
と言った。その笑顔はいつものやさしいジージと同じだった。
美月は首を振ると、さっきの写真入れを差し出した。
「あの、これ。」
「なにかな。」
「救急車に落ちてたって。チャーチャン、ううん、朋子のママのだろうって、病院の玄関のおじさんが……。」
ジージはそれを受け取って中を開けた。朋子は、首を伸ばしてのぞくと、不思議そうな顔をした。
「あれ? これ、ママとあたし。そうよね、パパ。」
ジージはうなずくとその赤い写真入れをじっと見つめた。
どういうことなんだろう。
あの赤ちゃんは、お姉ちゃんでも、悠子ちゃんでもなく、朋子だった。ひょっとしたらチャーチャンがあまり好きじゃないかもしれない、朋子の写真だった。
「まだ、話してなかったな。」
そう言いながらジージはまた腰を下ろした。
「おまえは、予定よりだいぶん早く生まれてきてしまってね。お姉ちゃんや悠子が生まれた時の大きさの半分もなかった。最初はおっぱいも自分では飲めなかったから、いろいろな管をつけられてね。保育器っていう入れものに入れられて、ママもパパもちょっとの時間しかおまえに会えなかったんだ。」
ジージは、写真入れに目を落としたままポツリポツリと話を続けた。
「黄だんっていって、赤ちゃんのからだが黄色くなるんだけど、それもおまえはとってもひどくなってね。おまえが無事に家に帰れるようになるかどうか、パパもママも心配で心配でたまらなかった。だから、おまえがだんだん大きくなって、保育器から出られるようになって、おっぱいも飲めるようになって、それからとうとう退院できるようになった時は、そりゃあうれしくてね。この写真は、そのとき撮ったものだ。ママはよっぽどそのときのことが忘れられないんだろう。これを肌身はなさず持ち歩いている。」
ジージはチャーチャンとまだ赤ちゃんだった朋子の写真を指でそっとなでた。
「でもママはいまだにお前に申し訳ないと思っている。どうして、おまえだけ、こんな風に生まれたのか、こんな風に生んじゃったのかってね。」
朋子はそれを聞いてはじかれたようにジージの顔を見た。
「小さい頃おまえが転ぶたびに、この子がこんなに転ぶのは、やっぱり未熟児で生まれたからじゃないのか。お姉ちゃんほど運動神経がよくないのも、そのくせ、ちょこまか落ち着きなく動き回るのも、全部あたしが朋子を未熟児で生んだせいなんじゃないかってね。」
ジージは朋子を見てほほえんだ。
「そんなの考えすぎだ、朋子がおてんばなだけなんだって、いくらパパが言っても聞かないんだ、ママは。」
朋子はくちびるをぎゅっと結んだまま、正面をにらみつけている。
「だから、朋子もあんまりはしゃぎすぎて、けがなんかして、ママに心配かけるんじゃないぞ。」
ジージはそういうと、また朋子が退院した日にとった写真に目を落とした。
「おまえとふたりだけの写真をだいじにしていると、お姉ちゃんと悠子がひがむだろうから、ナイショにしておいてくれって、ママには言われてたんだけどね……。」
それを聞いたとたん、朋子の目からみるみる涙があふれてきた。声にならない声が朋子の口からもれてきた。
『それが証拠に、あたしがバッとリビングのドアを開けたら、ママはあわてて何かを隠したの。きっとあたしの成績表か何かよ。パパも困った顔してあたしと目を合わせなかった。』
ジージとチャーチャンの家の庭先で、そう朋子は言った。
でも、ちがった。ゼンゼンちがった。
チャーチャンが隠したのは、これだったんだ。朋子の写真だったんだ。
チャーチャンにとって朋子はいらない子なんかじゃなかった。それどころか、三人のこどもの中で朋子がいちばん大切な子だった。だから、もう五年生にもなった朋子を、チャーチャンは魚釣りにも行かせないんだ。湖に落っこちて死んじゃったらどうするのって、本当にそう思ってる。自転車にのって遠くへ行ってもしものことがあったらと心配しているんだ。
美月ははっとした。
ひょっとして、そんな朋子のこどもだから、生きて病院から帰ることができるかどうかもわからなかった朋子が大きくなって、お嫁さんになって、産んだこどもだから、ジージとチャーチャンは、美月のことを猫かわいがりしてくれるのかもしれない。
ジージは肩をふるわせて泣いている朋子をぎゅっと抱きしめた。
「だいじょうぶだ。ママはがんばってるから。」
チャーチャンが死んじゃう……。
美月は胸がいっぱいになった。
ジージは、はっきりとそう言わないけれど、ジージの様子を見ているとわかる。そうにちがいない。
チャーチャンの、美月をだっこしてコウタロウの写真をみせてくれた姿や、組みひもを教えてくれた姿が目に浮かぶ。
助けなくちゃ。チャーチャンを助けなくっちゃ。でもどうしたら……。
そのとき、美月の胸がドキンと鳴った。
そうだ。これしかない!
ある考えが頭に浮かんで、急に勇気がわいてきたような気がした。
「さあ、もう遅いから、マコおばさんのところで待ってなさい。」
ジージは朋子を起こしてその涙をふくと、美月の方を向いた。
「きょうはいろいろありがとう。きみも気をつけて帰るんだよ。」
美月は、ぬれたほっぺたを両手でぬぐうとジージにおじぎをした。
顔を起こしたとき、朋子と目があった。朋子も同じことを考えているのにちがいなかった。ふたりはうなずいた。
「じゃあね。」
朋子がジージに手を振ったのを合図に、美月と朋子は勢いよく走り出した。
「気をつけるんだよ。」
背中にジージの声を聞きながら、ふたりのめざした先は『おてんばさん』の丘だった。