二.美月の反逆
「何なの、この点数?」
次の日、学校から戻ると、めずらしく早く帰っていたママが、美月を見るなりそうどなった。片方のくちびるがきゅっと上がり、右手にもった紙をヒラヒラさせている。塾の成績表だった。二週間前の公開テストの結果が送られてきたらしい。
美月は算数が大の苦手だ。ツルカメ算や旅人算はまだしも、時計算やニュートン算なんか、塾で聞いてもチンプンカンプンだ。この前の公開テストでは、ずばり、その苦手な分野がてんこ盛りで出題された。できばえは当然ヒサンだった。すっかり落ち込んだけれど、二泊三日の校外学習があったので、すっかり忘れていた。そういえば今日が郵送日だったっけ……。
「いったい塾で何を聞いてるの? わからないところは先生に質問しなさいって言ってるでしょ。」
エプロンの前で腕を組み、ママはこちらをにらみつけている。
「だいいち、いま何時だと思ってるの!」
チラッと壁の時計に目をやると、七時を少し過ぎている。
美月はしまったと思った。
今日は塾もないし、林間学校でのできごとで盛り上がり、帰り道で友達と長話をしてしまったのだ。いつもなら、ママの帰りはもっと遅いのに、まったくタイミングが悪いったらありゃしない。おまけに成績表までママの手に落ちてるなんて。サイアクだ。
「約束したわよね。夕ごはん前には宿題はすます。お花にお水をやる。おふろも洗っておく。忘れたの?」
「だって……。」
「だってもこってもない!」
ママがぴしゃりとさえぎった。
「それにきのう言ったでしょ。今日は花村さんのことで病院の先生と面談があるから、いつもより遅くなる。だから、お米もといでおいてねって。なんにもしてないじゃない。どういうこと?」
たしかに美月は約束を破った。
でも、わざとじゃないのに……。
最近、ママのかんしゃく玉はすぐさく裂する。
どうも、病院の産婦人科ってところに通うようになってから、ますますひどくなったような気がしてならない。
ある晩、美月がトイレに行きたくなって夜中に目を覚ますと、パパとママの寝室から灯かりがもれていた。ヒソヒソ話す声も聞こえる。
なんだろうと思って、ドアのそばまで近づくと、「今日も注射を打ってもらった」とか、「病院の先生が言うには……」とか、ママがパパに話しているようだった。でも声が小さすぎてあとはよく聞き取れなかった。なんだかそのまま立ち聞きするのはいけないことのような気がして、トイレにも行かず引き返したきり、そのままたずねられずにいる。
だけど、注射を打ってもらったのがママだとすると、変な話だ。だって、ママは熱も出していないし、せきもしていないんだから。
げんに今もこうやってえんえんと美月にお説教を垂れている。
そりゃ、今日のことは、たしかに美月も悪い。
お花の水も、おふろ掃除も、そして、お米とぎも忘れていた。でも、もっとやさしく言ってくれてもいいのにな。
遅くまで遊んでしまったのも、もとを正せばママが帰ってくるのが遅いからだ。早く帰ってもひとりっきりはさびしいし、つまらない。
せめて、美月に妹がいればと、強く思う。
妹がいたら、美月だって学校からすっ飛んで帰ってくるのに。だいいち、妹がいたら、ママの仕事の時間も短くなるにちがいない。
実を言うと、名前も考えたことがある。ミサキちゃんだ。美月の「美」を一文字あげて「美咲」ちゃん。
そう思って、前にはよくママに妹がほしいと直訴したものだ。ママだって美月が小さい頃は、そのうち弟か妹ができたらかわいがってねって言ってたのに。
けれど何年か前からはいくらせがんでも、ママは話をそらすようになった。パパに言っても困った顔をするだけだ。
いつだったか、美月が「妹」って言葉をだしたとたん、ママは今まで見たこともないようなかんしゃくを爆発させた。
「いないんだからしょうがないでしょ! しつこいのよ、美月は。いったいだれに似たのかしら!」
ママは勝手よ、と美月は思う。美月がたのんでも何も聞いてくれない。なのに、ママの言いつけを美月が守らないとすぐに怒る。
「……宿題も言われなきゃしない。塾に行ってもぼうっとしてる。部屋はちらかしっぱなし。あなたはどうしてそうなの? 明日香ちゃんを見てごらんなさい。お勉強もできるし、お手伝いだってちゃんとするそうよ。」
ママのその言葉に、美月はわれにかえった。そしてカチンときた。
カンケーないのに、明日香は……。
ママと明日香のママがなかよしだからか、ママは何かというとすぐ明日香と美月をくらべる。昼間、明日香に自分のことをおてんばだと言われたこともあり、よけいに腹が立つ。
だいたい、明日香の成績がいいのも、明日香のママは専業主婦で、家に帰ったらつきっきりで明日香の勉強のめんどうをみてあげているからだ。
そんなの、できて当たり前よ。ママなんか、勉強を教えてくれたことなんかないじゃない。
美月はほっぺたをふくらませて、プイと横を向いた。
「また、そんなふくれっつらをして。かわいくないわね。明日香ちゃんはいつもニコニコしてるわよ。」
ママのくちびるのかたいっぽうの端がきゅっと上がった。
美月はもうがまんできなかった。
「なによ、明日香、明日香って。明日香なんかねえ、とっても弱虫でとろいんだから。」
ママは美月をにらんだ。
「なんですって!」
「だって、そうよ。本ばっかり読んでる弱虫よ。林間学校の夜の墓地探検もこわがって泣いちゃったのよ。」
本当は美月も半べそをかいてキャーキャー言いながら大急ぎで走ったのだけれど。
「体育の授業で倒立したら、頭から落っこちるとろい子なんだから。」
美月はまくしたてた。
「いいかげんにしなさいよ。友だちの悪口言ってはずかしくないの?」
ママはますますこわい顔になった。
「美月、明日香と友だちなんかじゃないもん。とろい子はとろい子よ!」
それを聞いてママはすごいけんまくでどなった。
「そんなこと言う子はママの子じゃないわ。出ていきなさい!」
ふいに両目が熱くなり、ママの顔もかすんでよく見えなくなった。
「何よ。ママなんか、ママなんか、明日香のママになればいいのよ!」
ふるえる声で思わずそう言い返すと、ランドセルをママに放り投げ、勢いよく表に飛びだした。
「美月!」
ママの叫ぶ声など知らんふりして、マンションの一階までかけ下りると、お気に入りのピンクの自転車に飛び乗り、力まかせにペダルをこいだ。
こうして、すっかり葉ざくらになったなみ木道を、自転車の灯かりをたよりに、美月は『おてんばさん』のある丘をめざしたのだった。
丘に着いたときには、日はもうすっかり暮れていた。
さっきから風が吹き始めている。
六月はもうすぐだというのに、なんだか風が冷たい。
美月は自転車から降りて、身ぶるいした。
身ぶるいしたのはもちろん寒いからだけじゃない。
『おてんばさん』とお母さんさくらの頭の上には、三日月が、まるで食べかけのメロンのように光っている。丘のはずれでは古いがい灯が、うすオレンジ色の明かりを投げかけている。おかげで、二本のさくらの姿もぼんやり照らし出されてはいるけれど、やっぱり、昼間とはちがってとってもぶきみだ。
美月はまわりをぐるっと見回した。
美月のほかにはだれもいない。
なんだ、精霊なんか来ないじゃない。
ここへ来るまで、美月は、あんなママのところにはもう帰らない、アーチをくぐってどこかよそへ行ってやるんだと決めていた。明日香の言う、『おてんばさん』の精霊にたのんで、もっとやさしいお母さんを見つけてもらおうとも考えていた。
その精霊の現れる気配がしない。
やっぱりやめとこうかな……。
ちょっぴりこわくなってきた。
でも、そのときふと地面に目が行った。
風が強まって、『おてんばさん』とお母さんさくらの枝の影が、とっくみあいのけんかをしているように見える。
『おまえさんの母さんは、ええひとじゃないか。』
『そんなこと言う子はママの子じゃないわ。出て行きなさい!』
花村のおじいさんとママの声が聞こえ、怒ったママの顔が浮かんだ。
あのとき、花村のおじいさんは、ママはいい人なんだから、美月がママとけんかして、『おてんばさん』と母さんさくらのアーチをくぐることなどないだろうと言いたかったのだろうか。
でも、ママはいい人なんかじゃない。美月のことなんてどうでもいいと思っているに決まっている。
美月はうなずいた。
精霊なんか来なくたっていい。どこへ行ったってかまうもんか。いなくなってママをおどろかせてやるんだ。そうしたら、ママだって、少しは美月にすまないと思うはずだ……。
美月はくちびるをぎゅっとかんだ。
ハンドルをもつ手に力が入る。
目をつぶる。
そのままゆっくりと自転車を押す。
『おてんばさん』とお母さんさくらのアーチの中を、ゴーゴーと音を立てて風が吹きぬけ、美月を押し返そうとする。美月は歯を食いしばって、じりっじりっと前に進んで行った。
と、そのとき、美月のからだと自転車がフワリと浮かんだ。
つぎのしゅんかん、アーチがぐるぐる回りはじめた。食べかけのメロンのような月が上になったり下になったり、どっちが空でどっちが地面かもわからない。
美月は、「たすけてえ」と大声を上げた。
でもゴーゴーという音にかき消されてしまう。
美月は必死に自転車にしがみついていた……。