ep.5 喪失
「ジークフリード殿下。
夜分に申し訳ございません」
「どうしたんだ?」
先ほど帰ったばかりのアルトが、焦った様子で戻ってきたことに怪訝な目を向けた。
「急ぎお尋ねしたいことが。
以前ルティーア嬢について、調べたことがありましたよね?」
「ああ、嘘をつくのに必要だったからね」
「その時なにか違和感があると、おっしゃっていませんでしたか?」
「うーん……言ったかなぁ?」
ジークフリードは必死にその時の記憶を辿る。
そしてパッと顔を上げて言った。
「あ、思い出した。
納税額ってこんなもんかって言ったな」
ジークフリードは机の引き出しを探り、一枚の紙を取り出した。
「ほら、レストリング領は鉱山が多く鉄鋼業が盛んだ。しかもそれをバンバン他国に輸出しているはず。なのに、納税額はその辺の領地と変わらない」
手渡された紙をアルトは目で追っていく。
「おかしいですね」
「そう。しかも、それを誰も指摘しなかった、というのが一番解せない」
「……共犯ということですか」
「そうだろうね。
けど、そのころには婚約は成立していたから」
「第二王子殿下が気づいていたとしたら……」
「今回の件もきな臭くなる」
ジークフリードは腕を組んで、考え込んだ。
「捕まったのは?」
「第一王子を支持する派閥の者で、聞くところによればギャンブル好きだったとか」
「ああ、如何にもお金が好きそうだね」
不正は大体お金が絡む、だからジークフリードの予想は確信に変わっていく。
「アルト。詳しく調べてみてくれる?」
「仰せのとおりに」
アルトが臣下として礼をしたところで、ドンドンと慌てたノックが響いた。
「ジークフリード殿下! リチャード殿下が急変しました……!」
「っ、アルト! アリスを戻らせて! はやく」
アルトは全力で廊下を駆ける。
先ほど別れたアリスティアはまだ邸にはついていないはず。
そう考えたアルトは厩舎に向かうと、馬に飛び乗った。
月明かりだけが頼りの闇の中を、馬を急かして走る。
五分ほど走ったところで、公爵家の馬車を捉えた。
「アリス!!!」
アルトは力一杯叫んだ。
三度ほど叫んだとき馬車が止まり、アリスティアが窓から顔を出した。
「リチャード殿下が急変した!
馬で戻ろう!」
アリスティアの顔からは血の気が引き、急ぎ足で馬に駆け寄った。
アルトはアリスティアを引き上げて、自身に掴ませる。
そして、今度は王宮に向かって馬を走らせた。
「リチャード様……お願い……」
アリスティアは月に祈るように、繰り返した。
王宮の扉が見えたとき、アリスティアとアルトは門番に馬を預けて走る。
リチャード殿下の部屋には国王陛下や王妃殿下、王族の方々と医者が集まっていた。
「リチャード様……」
けれど、息を切らすアリスティアにはまるで目に入っていなかった。
ふらふらとリチャードの元へ向かう。
「――アリスか……?」
正気のない真っ青な顔でゆっくりと目を開ける。
それを見たアリスティアは、予感に瞼を震わせた。
「はい、……アリスです。リチャード様」
「やはり俺はヒーローになれないな、わるい」
眉を下げて謝るリチャードは、力なく笑った。
「なにいって……いやですと言いましたよ……?
私のヒーローはリチャード様だけだと、」
「……昔からヒーローは俺だけじゃなかっただろ」
「私はずっとリチャード様をお慕いしておりました!リチャード様以外、見ていません。
一生リチャード様だけと決めているんです!」
そう言っている間にも瞳から涙がこぼれ落ちそうで、必死に唇を噛み締めた。
「ばかか。俺はアリスに幸せになってほしいんだ。
俺のヒロインはそんな望みも叶えてくれないのか?」
「ええ、いやです。心の狭いヒロインなんですよ」
アリスティアには、自分が笑えてるのかわからない。ただ気丈に振る舞った。
「はは、困ったヒロインだな。
――なあ、アリス。最期までいてくれないか?」
「私はリチャード様から離れません」
「棺までは来るなよ。
――最後くらい不誠実でも許されるよな?」
リチャードはそう言うなり、アリスティアを引き寄せた。
そして唇を重ねる。
優しく、何度も、まるで自身を刻みつけるよう。
誰もふたりを止めなかった。
もし、毒だったら危険なのに、誰も止めることができなかった。
アリスティアにはリチャードがだんだんと弱々しくなっていくのが、手に取るようにわかった。
「……父上、母上。親不孝をお許しください。
身体に気をつけて長生きして。あと、アリスを守ってほしい」
朦朧としながらも、リチャードは言葉を紡ぐ。
「カイン、いい王になれ。お前なら出来るぞ」
「ジーク。嘘は誰も幸せにしない。
俺のようになるなよ。――後悔するぞ」
遺言のように語るリチャードに、皆が肩を振るわせる。まだ大丈夫だとは誰も言わない。
だからアリスティアも察してしまう。
「アリス。誠実な奴と幸せになれ。
だが、俺は心の狭いヒーローだ。
この贈り物は左手でないと怒るし、墓は一緒でないと怒るぞ」
そう言ってアリスティアの手に鍵を握らせ包み込ませた。
「な、にいってるんですか、まだリチャード様は大丈夫です、だって……」
握っている手にもう力はない。
リチャードは一生懸命に口を動かしている。
「アリス。愛してる」
涙は見せないと決めていたのに、迫る最期にボロボロと流れ落ちる。
「最期までキスしろ」
もうリチャードには顔を動かす力も残ってなかった。
アリスティアは、何度も何度も唇を重ねた。
涙がリチャードの顔を濡らし、力なく閉じられた瞼に気付いても、何度も。
誰もがそれを止めることはできなかった。
「ゔぅ……うああ……っリチャードさま……」
アリスティアが泣き崩れた時、医者が駆け寄り心拍を確認した。
そして、静かに首を振った。
皆が咽び泣く声が室内に響く。
アルトは真っ先にアリスに駆け寄って支える。
ジークフリードはその場で立ち尽くすことしか出来なかった。
「ねえ……? どうしてなの……?
リチャード様はどうして……?」
「アリス……」
泣きじゃくるアリスティアをアルトが優しく包み込んで、その顔を苦しそうに歪める。
「急変なんておかしいでしょう?
だって、落ち着いていたのに……!
ルティーア様だって見ていたのに!」
「彼女が、この部屋に?」
「……任せて帰ったの、私、任せたのよ……」
アルトは部屋を見渡す。
そこにルティーアの姿はない。
「この部屋に一番先に着いたのは誰ですか?」
王族だらけで躊躇しているアルトの言葉を、ジークフリードが代弁するように声を発した。
「わたくしよ」
ハンカチで目元を押さえながら手を挙げたのは、王妃だった。
「その時にルティーア嬢を見ましたか?」
「いいえ、誰もいなかったわ。
部屋の前にいた騎士もアリスティアだけだったといっていたわよ」
王妃の返答に部屋の中がどよめいた。
「アリス、……これ開けてみないかい?」
アルトはアリスティアが握り込む手を指す。
それはリチャードがそっと渡してくれたもの。
リチャードが最期まで触れていたもの。
アリスティアは誰にも触れさせたくなかった。
だから鍵を胸に抱き込み首を横に大きく振った。
「アリス……」
「触らないで、お願い、リチャード様の……」
「触らない、触らないよ!
だからアリスが開けてくれないかい?」
興奮して泣き叫ぶアリスティアを落ち着かせるように、アルトは背中をさする。
「開けないといけないの……?」
「……もしかしたらリチャード殿下も伝えたかったことがあるかもしれない。
アリスに託したかもしれない」
「…………わかった、わ」
アリスティアはよろよろと立ち上がる。
けれどいくら見てもこの寝室には鍵のついたものはない。
「私室かしら?」
「いや、あの子は鍵なんて使う性格ではなかっただろう……」
国王と王妃は、どこの鍵か心当たりがないようだった。息子の最期に誰よりも心を痛めているはずなのに、現実に向き合おうとする強さを感じて。
アリスティアはその姿にリチャードを重ねて、また涙を流す。
「僕なら……自分の大切な場所に隠す」
佇んでいたジークフリードが、確信めいたように静かにつぶやいた。
「――いやよ!あの場所は誰にも教えたくない……」
「アリス……」
ジークフリードは、知っていた。
けれど、そんなことは言えない。
「アリス、私はリチャード殿下に頼まれて迎えに行ったから大体の場所は知ってる」
「お兄様……けれど、」
「中には入らないし、何かあった時のために近くにいるだけ」
「アリスティア嬢。わたくしからもお願いするわ。
リチャードがあんなに貴女を想っていたなんて知らずに、……母親失格だわ。だから息子の最期の願いは聞いてあげたいの」
王妃は涙をながしながら、鍵を握りしめる手をそっと包み込んだ。
「リチャードを想ってくれて、ありがとう。
貴女がいてくれてよかったわ」
アリスティアはもう断れなかった。
リチャードのためと言われれば、行くしかなかった。
「行ってきます……」
アリスティアは涙をドレスの袖で拭う。
それには吸水力はなく、ただ冷たくなるだけだった。
その冷たい袖を振って走り出した。