ep.4 不穏な気配
ぼうっと座り込んでいたアリスティアはガサガサという音に身構えた。
「なに……、猫? 犬?」
急にこの暗闇の中にいることに恐怖を感じた。
頭を抱え込んで目を瞑る。
ガサガサという音は次第に大きくなり、ボキッと木を折る音まで聞こえてきた。
すぐそばになにかの気配を感じる。
アリスティアは怖くなって声を上げようとした。
けれど、懐かしい香りがアリスティアを抱きしめていて喉が閉まった。
「アリス。こんな時間までなにしてるんだ」
走ってきたせいか掠れるリチャードの声に、枯れ果てたと思っていた涙はまたはらはらと流れ落ちる。
「ど、して」
「アリスが行方不明だと、アルトに聞いてな。
……居ても立っても居られなかった」
アリスティアから少し視線をずらす。
逡巡する素振りを見せたリチャードは、またアリスティアに視線を戻した。
「ルティーア様が……」
「ここには、俺とアリスしかいない。
まさかこんなところにいるなんてな」
そう言ったリチャードは一瞬だけ薔薇のほうに視線をやる。
「――まさか三年も経って気づくとは……
さすがアリスと言うべきか」
「なあ……俺はまだアリスのヒーローか?」
視界が涙で滲んでいるアリスティアにはリチャードがどんな表情をしているかわからない。
けれども、アリスティアは一度だけ頷いてみせた。
「相変わらず泣き虫だな」
リチャードは、泣いたままのアリスティアの髪をくしゃくしゃと乱した。
そして泣き腫らした目をその指先で撫でる。
「アリス。さっき言ったことは一旦忘れろ。
知っておきたかっただけだから、俺を待つなよ。
アリスは大事にしてくれる奴を見つけたら、迷わずその手を取れ」
そう言うリチャードの目に冗談の気配はない。
アリスティアは思いっきり首を振った。
「いや」
「駄目だ。少しでも心が動いたら、そいつを選べ」
な?と言い聞かせるリチャードに、アリスティアは声を張り上げた。
「私の気持ちをなめないでください!
確かにリチャード様以外に、ときめいたことはあります! けれど、」
「あるのか」
眉を寄せたリチャードは食い気味につぶやく。
「それはリチャード様の瞳を思い出して……
だからリチャード様にしか、むぐっ」
「アリス、わかったから。それ以上はやめてやれ」
リチャードは口を塞ぎながら、そっとアリスの後ろに視線をうつす。
そこには薔薇の隙間から白い布がちらちらと見えていた。
「――俺もまだまだだな」
ポツリとこぼしたリチャードは、膝についた草を払い落とす。
「今迎えを呼ぶから、少し待ってろ」
そう言って、リチャードは木の隙間を抜けていった。
「アルト、アリスを頼んだぞ」
出てくるなりそう言ったリチャードに、アルトは言葉の代わりに深々と礼を返す。
そしてリチャードは薔薇に寄りかかるジークフリードを引っ張っていく。
兄上はどうするつもりですか、ジークフリードはそう口を開こうとしてやめた。
愚問だった。先程の会話を盗み聞きしていた彼には聞かなくてもわかることだった。
だから違う言葉を吐いた。
「兄上、実は僕ルティーア嬢が好きなんですよ」
ずっと嘘をつき続けていた罰だと、誠実に向き合わなかった罰だと、自身に言い聞かせるようその言葉を噛み締める。
「……そうか」
リチャードはそれ以上なにも言わなかった。
ただジークフリードを隠すように、着ていた上着を頭から被せた。
数日ぶりに会ったジークフリードは、ご機嫌な様子でアルトとアリスティアを出迎えた。
「アリスのおかげで、計画は成功だよ」
「成功?」
「そう。だからあとの事は僕に任せて」
麗しい笑みを浮かべてジークフリードは言った。
それを見ていられないとアルトは、目を逸らす。
一緒に計画を立てた者として、この結果に少なからず責任を感じていた。
「アリス、先に帰ってて」
もう用はないと言わんばかりのジークフリードに困惑するアリスティアにアルトは優しく言う。
そんなアルトに戸惑いながらも、アリスティアは素直に部屋から出ていった。
「殿下」
アルトは硬い声で遠慮がちに口を開いた。
「アルト。僕はルティーア嬢が好きなんだ」
「殿下!」
「それで万事解決! みんな幸せだ」
「殿下は? それで幸せなんですか?」
怒りなのか、呆れなのか、憐れみなのか。
アルトはジークフリードが口を開く度に、口に布を突っ込みたくなった。
「ルティーア嬢は美しいし、誰もが羨む」
「……そうですか」
「ああ、だから心配しなくていいよ。
僕は思ったよりも平気なんだよ」
ジークフリードの貼り付けたような笑みを見て、アルトは唇を噛み締めた。
なにを言っても聞く耳を持たない上に、友人であるアルトにすら本音を言わないとわかったから。
アリスティアはひとり、どちらかは振られる。
それが当たり前のことでも、頑なに嘘をつき通そうとするジークフリードに胸が痛む。
――それがアリスのためだとわかるから。
「では私も失礼いたします」
アルトには、その場を去ることしかできなかった。
その日の夜、就寝の支度をしていたアリスティアの元にアルトが駆け込んきた。
「っ、第二王子殿下が、――倒れられた」
予想だにしない言葉に、ベッドに座り込んだ。
「うそ、うそよ、ね……無事ですよね!?」
アリスティアは震える指先を握り込む。
「わからない、……刺されたらしい」
「誰がそんなことを!?」
「第一王子殿下を支持する者だと聞いている。
水面下で進んでいた婚約解消が、誤解を招いてしまったらしい。
ルティーア嬢は伯爵家、それを公爵家のアリスティアに替える、それは王位をも狙っているのではと」
「そんなことで……!
まさかリチャード様は、これを危惧して……?」
「……わからない」
あのとき『待つな』と言ったリチャードの言葉を思い出す。
「お兄様。私を今すぐに第二王子殿下の元へ連れて行ってください」
アリスティアは涙を堪えて、力強い目でアルトを見る。
アルトは初めて見る妹の顔に躊躇った。
「しかし……」
「早く!」
アリスティアはもう外套を羽織り外に出ようとしている。
まだ婚約解消はされていないのに行くべきではないと思うけれど、アルトには大切な妹の意思を無視できない。
仕方ないとその後を追いかけた。
第二王子殿下の寝室では、数人の医者が忙しなく動いている。
ベッドに横たわるリチャードは、胸を刺されたらしく今包帯を巻かれていた。
荒い呼吸を繰り返しているのか胸の上下は、激しい。
アリスティアは邪魔にならないよう、部屋の隅で治療される様子をただ見ていた。
アルトは別の用事を済ませてくると、出ていった。
ただただ時間だけが過ぎていく。
「リチャード様……」
そして医者はもう心配はいらないと言って、治療が終わると部屋からいなくなった。
なにかあれば声をかけてくださいと。
部屋にはアリスティアだけが残る。
リチャードはメイドをつけるのすら、嫌がっていたから部屋には騎士すらいない。
だから、アリスティアは静かに眠りについているリチャードの手を握った。
部屋の外には護衛騎士が控えていたのを見た。
もう大丈夫だと、アリスティアは安堵の息を吐く。
「どなた?」
鈴を転がすような声が、入り口から聞こえた。
アリスティアは振り向かなくても、声の主がわかってパッと手を離した。
「アリスティア・ラーベルトと申します」
「ああ、貴女ですのね。
わたくしの婚約者を誑かしたと噂の?」
ふんわりとした桃色の髪を揺らして、可愛らしく小首を傾げた。
アリスティアのほうが爵位は上だ。
それなのに先に名乗りもしない。
しかも言葉の節々にも、明らかな悪意が込められている。
けれども、アリスティアはグッと我慢した。
ここで騒ぎを起こせば相手の思う壺だと、わかっているからだ。
「困りますね、そんな噂を間に受けられるなんて。
私と殿下は幼馴染ゆえお見舞いに参りました」
「幼馴染ねぇ……。――殿下が覚えていらっしゃればいいけれど」
クスクスと笑いながら続けるルティーアに、寒気を感じた。
「どういった意味でしょう?」
「頭を打っていらっしゃるみたいなので、心配しただけですわ」
――刺されただけでなく、頭まで……。
ゆっくり休ませてあげるべきね。
「ルティーア様がいらっしゃいましたので、私はこれで失礼いたしますね」
ルティーアの言葉は聞き流して、アリスティアは丁寧に礼をとり扉に向かった。
「ふふふ、見ものねぇ」
背後でルティーアの笑い声が響いても、アリスティアは決して振り向かなかった。
アリスティアが廊下に出ると、ちょうどアルトが部屋へ向かって歩いてきていた。
「アリス? どうした?」
「ねぇお兄様。リチャード殿下の婚約者は、どういった経緯で決まったのかご存知ですか?」
「えっ? どうだったかな。
リチャード殿下が選ばれたはずだけど……」
少し言い淀みながらもアルトは言った。
「そうでしたか。リチャード殿下が、選ばれた」
アリスティアは思考を巡らせながら歩く。
そして馬車に乗り込んでから、ようやく口を開いた。
「お兄様。お願いがあります」
珍しく真剣な顔でアリスティアは言った。
「なに?」
「ルティーア様の、レストリング伯爵家を調べてもらえませんか?」
「理由を聞いてもいい?」
「気になるんです。どうしてリチャード殿下がルティーア様を選んだのか」
少し言い淀んだアリスティアをアルトはじっと見る。
「言われてみれば、不思議だね。
最初からアリスを選ぶことだって出来たはずなのに」
あまりに直接的な言い方に、アリスティアはコホンと咳払いをして、続ける。
「そ、そういう意味ではなくてですね……
リチャード殿下は、私に『待つな』と言いました」
初めはそのままの意味で受け取っていた。
けれども、なにか違う気がしてきていたのだ。
ひょっとしたら、こうなることをわかっていたのでは、とアリスティアは思い始めていた。
それを言えば、アルトは眉を顰めた。
「まさか……」
「アリス、一人で帰れるかい?
急用を思い出した」
突然腰を上げたアルトは、そのまま御者に馬車を止めさせる。
「えっ、はい。……大丈夫ですか?」
「うん。おやすみ、アリス」
アルトはアリスの頭を撫でて、馬車から降りた。
そこから王宮まで走っていく姿をアリスティアは不安な目で眺めていた。