4 ラット暴走
☆美心side☆
……ズルい。
そんな言葉を口にしたら、戒璃くんに嫌われちゃうのかな?
上昇するエレベーターの中。
狭い密室空間にいるのは、私と戒璃くんの二人だけ。
私の手首は今、大好きな熱でやけどしそうになっている。
戒璃くんは私の隣に立っているにもかかわらず、視線を合わせはくれなくて、貝みたいに口をきつく閉ざしていて、彼が無表情のままじっと見つめているのはエレベーター上部に光る【↑】表示。
ぞんざいに扱われているような気がして、鼻がしらがツーンとうずく。
ほんと、戒璃くんはズルい。
近くにいるだけで、私の心臓を無駄に跳ねさせてくる。
完全に拒絶してくれれば、ただの先輩後輩の距離感で接してくれれば、複雑な恋心を捨てさる覚悟ができるのに。
かすかな期待が生まれてしまうのは、私の手首が彼に握られているから。
そのせいで無意味な欲望が、あふれだして止められない。
このままずっと……
死ぬまでずっと……
私だけを捕らえ続けてくれればいいのに……なんて。
戒璃くんに聞きたいことがあって、少しだけ緩めた口もと。
でもすぐに上下の唇を押し当てたのは、疑問符をこぼすのが怖くなったから。
『私のこと、覚えてる?』
そんなこと聞かなくても、答えはわかっている。
私のことなんて、綺麗さっぱり忘れているに決まっている。
だって戒璃くんは、日本で知らない人がいないほどの大スターで。
大人気バンド【89盗】のギターボーカル。
見目麗しくて、優雅で、気品があって。
ファンサのウインクだけじゃない。
凛とした歌声まで甘々で。
優しさとワイルドさが溶けるアルファフェロモンを、大盤振る舞いで放ちまくっているパーフェクトな王子様なんだ。
彼はいろんな女性と遊んでいるみたいだし。
シャボン玉が飛び交う公園で過ごした私との思い出なんて、美人女優さんの唇の甘さを堪能しているたった数秒の間で消え去ったに違いない。
番のアルファフェロモンは、本当に厄介らしい。
同じ空間にいるだけで、勝手に私の呼吸が荒くなる。
神経がくすぐられるかのように、体温が上昇してしまう。
聞きたいことすら聞けず、彼と視線を絡めることもできなくて、ドキドキとゾワゾワで心臓が乱れている間にエレベーターが3階に到着した。
ドアが開く直前、サッと肌から消えた甘いぬくもり。
手首の締めつけがなくなった瞬間に襲われたのは、恋しさともの悲しさ。
――ゴツゴツした彼の指の感触を、もう一度味わい!
私の五感は、ほんとワガママで困りもの。
恥ずかしいほどの欲望を、ドクドクと募らせてしまうんだ。
大好きな人のぬくもりが消えてほしくない私は、まだ甘い熱が残っている手首を反対の手で包みこんだ。
悪あがきだと、わかってはいるけれど……
彼のアルファ熱をまとい続けたい願望は、私が戒璃くんの番だからなのかもしれない。
瞳を灰色に陰らす私の目の前で、エレベーターのドアがゆっくりと開いていく。
ついてきてと言われたわけじゃない。
でも……
エレベーターを降り、シワ一つないブレザーの背を追いかけてしまうのは、私がまだ戒璃くんに未練があるからだろう。
戒璃くんが足を止めたのは、あるドアの前。
ん? 生徒会室?
ドア上部のプレートに視線が奪われていた、たった数秒の間に、ガチャ、戒璃くんは鍵穴にさしたキーを回しドアの押し開けまで完了していた。
私の方に体を向け、誘導するように手で部屋の中をさしているけれど、熱湯が一瞬で鋭いツララになりそうなほどの冷酷な瞳を光らせているのは、相変わらずで、大好きな人からの嫌悪感がダイレクトに突きささり、私は涙の製造を食い止めるので精一杯。
「入って」
ひゃっ?!
生徒会室に戒璃くんと二人だけ?
戒璃くんは私との過去なんて、一切覚えていないんでしょ?
それとも……もしかして……
――本当は俺、ずっと美心に会いたかったんだ!
なんて童話のお姫様展開が待っているんじゃ……
「早くして。新入生には、生徒会として書いてもらわなきゃいけない書類があるから」
……うっ。
そんな夢みたいな展開が、起こるわけがなかった。
めんどくさそうな顔で、重い溜息までつかれちゃった。
ほんとバカだよね、私。
絶対にないとわかっているのに、ちょっとだけ期待しちゃった。
誰もいない生徒会室に、戒璃くんが私を連れ込む理由。
それが、私と二人きりになりたいからならいいのにななんて。
足を踏み入れた生徒会室は、王子様が住まうお城の一室みたい。
広い部屋のいたるところから漂う高級感。
ラグジュアリーって言葉が似合うのは、部屋の壁も家具も小物も、高貴な紫と黒で揃えられているからかもしれない。
入ってすぐのところには、4人掛けのソファが2こあって、ローテーブルを挟むように対面で配置されていて、その奥にはVIP社長が鎮座しそうな、黒光りするデスクがドーン。
椅子に座ると部屋を見渡せるように置かれている。
多分あれは、生徒会長の戒璃くん専用デスクだ。
私がオメガだからわかる。
彼の番だから感じ取れてしまう。
生徒会室の中で一番、戒璃くんのアルファフェロモンがしみこんでいる場所を。
部屋のドアを閉め、なぜか鍵を回しかけ、ブレザーから袖を抜いた戒璃くん。
「そこのソファに座っていて」
脱いだばかりのブレザーを、私に託すように投げると
「資料庫から書類を取ってくるから」
無表情のまま部屋奥に進み、ドアを開け中に消えてしまった。
言われた通り、私は4人掛けのソファの真ん中に腰を下ろす。
私の心臓をいじめてくるのは、キュンキュンともドキドキとも違う、ザラザラした痛み。
痛みをごまかしたい私は、鎮痛剤がわりに抱えていた戒璃くんのブレザーに顔を押し当てた。
はぁあぁ~~。
なんで人の心って、いろんな感情が絡み合っちゃうのかな?
転入生として生徒会長に従わなきゃ。
生まれる感情が生徒としてのものなら、心臓がねじれそうなほど痛まないはず。
「好き」「大好き」「愛してる」
LOVEの3段活用に脳内が支配されていれば、大人気スターを独り占めできる贅沢なこの時間を、神様に感謝しているはず。
それなのに……人に見せられないほどの汚い感情が、私の中に居座っている。
どす黒く濁る悲しみ沼に、ハートが突き落とされそうになっている。
ねぇ、戒璃くん。
私の首のうしろを噛んだこと、本当に覚えてないの?
【運命の番だね】
そう囁いてくれた幸せな時間を、思い出の宝箱に大事にしまっているのは私だけ?
テレビの前では、誰に対しても優しい笑顔を振りまくのに、私には拒絶めいた冷酷な視線を突き刺してくるなんて……
ほんと無理なの。
シンドイの。
苦しくてたまらないの。
ずっと心の奥で願っていたんだよ。
いつか戒璃くんに会えたらいいなって。
ファンに振りまく王子様スマイルを、私だけにプレゼントしてほしいなって。
でも現実って残酷なんだね。
妄想と現実の落差が激しいと、ハートがトラックにひかれたように痛みだしちゃうんだね。
初恋の人との再会なんて、良いものじゃなかった。
テレビの前でペンライトを振る、ファンと推しの関係になりたい。
今日学校が終わったら、雷斗さんと風弥さんに頼みこもう。
一刻も早く、私の脳内から戒璃くんを追い出してください!
戒璃くんと繋がっている「番」という残酷な鎖を、粉々に叩き割ってください!
二度と私の中で、戒璃くんへの恋心が生まれないように……
☆戒璃side☆
――もう俺のことなんて、何とも思っていないんでしょ?
資料庫から出ようとして俺の足が固まる。
――俺に気持ちがないならなぜ、そんな可愛いことをするかな。
開きかけのドアの後ろ。
見つからないように、俺は瞳だけを晒した。
生徒会室の4人掛けソファに座っているのは、腰まで伸びる黒髪がまばゆく光る転入生。
彼女は俺のブレザーに顔をうずめては、「う~う~~」と顔を小刻みに震わせている。
オメガ特有の求愛行動【巣作り】
その初期動作のように見えるんだけど。
顔をこすりつけたくなるほど、ブレザーにしみこんだ俺のフェロモンが恋しかった?
そんな求愛行動っぽいことをされたら、勘違いしちゃうけどいいの?
都合よく思い込んじゃうけどいいの?
美心は俺のことが、今でも大好きだって。
ふっと緩んだ俺の口元。
表情がだらしなくなてしまうのは、ずっと会いたくてたまらなかった子が俺の瞳に映っているから。
たった一度だけ時間を共にしたあの日から、2年半もたっている。
想像以上に大人っぽくなっていて驚いたよ。
美心はもう高2になったんだし、色気が増していてもおかしくはないか。
華奢で瞳がグリグリなところは幼いままだけど、溢れているのは他人を包み込むような陽だまりオーラ。
可愛さと姉御系が混在しているような、しっかり感。
施設で親のいない子供たちの面倒を、一生懸命みてきた証拠かな。
こぶりながらもプクっと膨らんでいる唇は魅惑的すぎで、自分の唇で感触を確かめたい願望に襲われるから困りもの。
ねぇ美心、このままキミをこの生徒会室に監禁してもいい?
オメガは、番のフェロモンに包まれたくなるんでしょ?
番の洋服の山に潜り込んで、スヤスヤ眠るのが幸せなんでしょ?
オメガの本格的な【巣作り】は、そういうものだって聞いたよ。
今から寮に帰って、俺の服を持ってくるから、私服もパジャマもライブ衣装も大量にプレゼントするから……
お願い、双子アイドルと別れてよ。
俺だけを美心の恋の瞳に映してよ。
でも……恋をする相手に、美心が俺を選んでくれたとしても……
俺は破壊神、半以内に地球を滅ぼす使命がある。
だから……堂々と美心に愛を注ぐことはできないけれど……
資料室のドア後ろに隠れたままの俺。
ドアに手をつき「はぁ……」と、心の痛みを重い溜息に溶かし捨てる。
力なく落ちてしまう表情筋を、無理やり押し上げる気力がわかなくて。
陰る目でただただ見つめてしまうんだ。
ソファに座りながら俺のブレザーに顔をうずめる、大好きな美心の姿を。
美心は俺にとって初恋のオメガだ。
俺の瞳には今もなお愛おしく映っている。
それなのに彼女を見ているだけで苦しい。
針山に押し当てられたように心臓がギリギリと痛みだし、愛してる以外の醜い感情に、俺のハートがどす黒く塗りつぶされてしまうんだ。
なぜアルファしか入れない高校に、美心がいるの?
なぜ俺以外のオスフェロモンが、美心の体中にベタベタに塗りたくられているの?
双子アイドルの恋人だというのは本当なの?
雷斗と風弥に溺愛される甘い生活を、毎日送っているの?
ほんと苦しいよ。
俺は2年半前からずっと、美心への愛で心が縛られたままなんだよ。
『好き』
本当はこのたった二音を、美心の心に届けたい。
今ここで熱い思いをぶつけたら、美心を双子アイドルから取り戻せるのかな?
……なんて。
……アハハハ、言えるわけないって。
悲しみの涙の代わりに、自虐笑いがこぼれちゃった。
俺は破壊神だ。
あと半年で、地球を破滅させなければいけない使命がある。
期限が過ぎたら、前破壊神のルキが豪快に爆破させるだろう。
美心が住む地球を守りたくて、美心には幸せになって欲しくて
【全人類を自分たち89盗に沼らせ、地球人のメンタルを破壊してみせる】
なんて嘘をつき、使命続行中とルキに思い込ませるため、全人類に優しさを振りまき続けているのに……
本当に俺はダメな神だな。
美心の幸せを願えるほど心が広くない。
――愛おしくてたまらない子が、双子アイドルに溺愛されている。
そんな苦しい現実を受け入れることなんて、とうていできない。
俺は美心だけを愛したい。
世界中の人に嫌われてもいい。
大人気バンドの肩書、エリートアルファの称号、名誉もお金も全て失ってもいい。
美心だけが俺のものになれば、他に何もいらない。
俺が破壊神じゃなければ、双子アイドルから愛する人を全力で奪いに行けるのにな……
2年半前から揺らがない、美心への愛。
ルキにバレたら最後、美心の命の灯は吹き消されるだろう。
俺が地球を破壊する妨げになるからと。
美心がいなくなる最悪な未来は避けたい!
だから好きな子を瞳に入れない日々を過ごしてきたんだよ。
初恋を押し殺してきたんだよ。
それなのになんで、俺がいるこの学園に転校してるかな。
わかってる?
ここはアルファのみが通える高校なの。
いくらオメガフェロモンのバラマキを抑える薬を飲んでいるとはいえ、薬の効能を過信しないで。
オメガにとっての危険地帯に、変わりはないんだ。
盛りのオオカミの群れに、フェロモンを少しでも放ったウサギが投入されたら……
どんな悲劇が生まれてしまうか、簡単に想像ができるでしょ?
今は俺と美心の間には、番関係が成立している。
だから他のアルファは、美心のフェロモンに惑わされる可能性は少ないのかもしれないけれど。
万が一ってこともあるし……
あっ、そうか。
大好きな双子アイドルと、1秒でも一緒に過ごしたいってことか。
今の美心の体には、俺以外のフェロモンがベタベタに塗りたくられているし、美心にマーキングしたアルファは双子アイドルで間違いないでしょ?
エレベーターで後ろに倒れそうになった美心を片腕で支えた時、俺は絶望したんだよ。
美心のひたいや頬に、唇を押し当てられたような強いフェロモンが染みついていたから。
耳の後ろは、俺が目をそらしたくなるほど異常なアルファ臭が漂っていて、雷斗か風弥のどちらかに舌で愛されたんだろうと、簡単に推測ができてしまった。
……よりにもよって、あの二人に美心を取られるんなんて。
増し増しにこみあげてきた怒り。
俺は手にしていた生徒会入会用紙をギュー。
シワシワになるほど思いきり握りしめたのに……
噴火しそうなほど煮えたぐる怒りの熱量は、一向に下がらない。
わからないのは、高ぶる感情の静めかただけじゃなくて、抱いてはいけない「好き」の捨て去り方も誰かに教えて欲しい。
叶わぬ初恋の針山から、俺を助け出して欲しい。
今朝この学園に着いた瞬間、俺は美心の極甘フェロモンを感じとれた。
彼女が瞳に映っていなくても、違う階にいるくらい離れていても、美心のフェロモンだと俺は確信をしたんだ。
だから今はまだ、俺と美心は番関係のままだと断言できる。
だがこの先はわからない。
【アルファとオメガの番関係は、一生断ち切れない】
これが一般論。
だがそれには特例がある。
あの双子アイドルのみ、番関係をぶった切ることができるんだ。
この地球上には、3人の神が降りたっている。
地球人に紛れて生活をしている。
1人が破壊神の俺。
そして残りの二人は、雷神と風神。
雷や電気を操る神
五六雷斗。
風の力を宿し神
五六風弥。
雷神と風神の聖なる力が絡み合えば、アルファとオメガの番解消は容易いこと。
ねぇ美心、本当に双子アイドルが好きなの?
今も俺のブレザーに顔をうずめているけれど、番のアルファフェロモンに惑わされているだけなの?
立場上、気持ちは伝えられない。
でも美心のことが大好きだよ。
毎日何度も思い出しては「会いたいな」って、せつなさをこぼしてしまうくらい。
一生抱きしめてあげることはできないけれど、この世で一番美心を愛している自身があるよ。
本当にかけがえのない人なんだ。
親に捨てられ、村の人たちに裏切られた。
そんな俺の根深い恨みを拭い去ってくれた、恩人でもあるんだ。
美心をとられたくない。
大好きすぎて誰にも渡したくない。
俺と美心の番関係は、何としてでも死守しなくては!
だって――
雷神風神に番関係を切られてしまったら最後、俺は二度と美心と番には戻れないんだから……
募り募った美心への愛。
キラキラと輝くダイヤモンドのように、綺麗な感情だけで固められていたらどんなによかったんだろう。
この2年半で膨らみ過ぎてしまった愛が、俺の中で決壊しかけている。
双子アイドルへのドロドロな嫉妬心が、手が付けられないほど暴れ狂っているのがわかる。
美心、逃げた方がいいよ。
今すぐに、この生徒会室から。
そうしないとどうなるのかって?
俺はあと数分で、恋の野獣と化してしまうだろう。
会いたくてたまらなかった子が、急に俺の前に現れてたんだ。
理性が吹っ飛ぶのは当たり前。
美心が逃げても追いかけて。
泣きわめいても、やめてあげなくて。
大好きな美心のことを、ぐちゃぐちゃに愛してしまうかもしなれない。
今の俺の心臓の駆け具合は異常だ。
2年半前に経験がある。
いや大好きが暴走して、オメガフェロモンにあてられ、美心の首を噛んでしまったあの時以上に、心臓が爆ついている。
俺の呼吸は、勝手に荒くなっているし、肌を突き破りそうなほど暴れている心臓は、ナイフで一刺ししない限り静まらないんじゃないかな?
――今すぐ、美心を生徒会室から逃がさなくては。
――嫌われたくない。
――美心を傷つけたくない。
そう思いながらも、俺のとった行動は正反対で
――雷斗と風弥に美心を奪われるくらいなら、俺が!
独占欲が手に負えないほど膨れ上がってしまい……
嫉妬心で吊り上がる表情筋を放置したまま、俺はブレザーに顔を埋める美心の前まで進むと
「ねぇ、なにしてるの?」
凍りそうなほど冷たい声を吐きだし、逃がさないと言わんばかりの力で美心の腕を掴んだ。
☆美心side☆
「ひゃっ!」
驚き声とともに跳ねた私のお尻。
腰まで伸びたストレート髪が、一斉に外側に跳ねる。
万引きの現行犯で捕まると、こんな気持ちなのかな。
ソファに座ったままの私の心臓は今、手錠をかけられる直前のバクバクっぷり。
いや……もう……掛けられちゃっているのかも?
温かくてゴツゴツした手錠を。
私の右手首は、血管が止まりそうなほど強い力でぎゅっと掴まれている。
顔に当てていたブレザーから目だけを出した私は、再び「ひゃっ!」
斜め上から鋭い眼光が突き刺ささっているからなんだけど、怖いよーと心の中だけで叫んで、戒璃くんから視線をそらしちゃった。
テレビの中の戒璃くんは、誰にでも優しい笑顔を振りまく王子様なのに、今は何というか悪を許さない鬼教官みたいと言いますか……
視線を足元に逃がしてはみたものの、肩の震えは止まらない。
私の斜め前に立っている戒璃くんの怒り顔を、まじまじ見る勇気なんて湧き出てこなくて、とりあえず謝らなきゃ!と気持ちだけが焦りだす。
「ごっ、ごめんなさい」
戒璃くんのブレザーに、顔なんかうずめちゃって。
「ねぇ?」
声、低っ。
絶対に私のことを怒ってるよ。
「アルファのフェロモンを嗅ぎたくなっちゃったの? 俺に隠れて」
えっと……
戒璃くんのブレザーを受け取ったときは、自制心が働いたんだ、確実に。
推しのものだから、大事に持っていなくちゃ!
ファンとして模範になる行動を、心掛けていたはずだったんだけど……
だんだん、ブレザーから放たれる香りが気になって。
大好きな番のフェロモンを堪能したいって、心がうずきだしちゃって。
気づいたらやってしまっていたんです。
顔をすりすりって、結構長いこと。
うっ、嘘でしょ?
今まで気づかなかったけれど、戒璃くんのブレザーにシワが入ってる!
私がフェロモンの誘惑に負けて、顔をこすりつけちゃったせいだ。
どどどどっ、どうしよう……
気が動転した私。
掴まれていた戒璃くんの手をふり払いながら、立ち上がり
「本当にごめんなさい。クッ、クリーニングに出してくるね」
走りだそうとしたけれど
「今から?」
不機嫌そうに首を傾けられ、ハッ!
「あっ今お店に持って行っちゃうと、戒璃くんが着れなくなっちゃうか。職員室にアイロンはあるかな? なかったら家庭科室で借りて……クリーニングは放課後に……」
どうしたらいいの?
テンパりすぎて早口になっちゃう。
目がグルグル回っちゃう。
「クリーニングなんていい」
「えっ?」
「そのまま返してくれればいいから」
「……でも」
「返して!」
イラつき顔の戒璃くんに、ブレザーを奪い取られちゃった。
拒絶するように私に背を向け、ブレザーに袖を通している。
戒璃くんは私のことなんて、全く覚えていないんだよね?
それなら私は、勘違いされているのでは?
会ったこともないファンに、私物を盗まれそうになったって。
弁解したいけど……
戒璃くんは部屋の奥に歩いて行っちゃったか。
怖い魔王様みたいに目を吊り上げたままで。
は~~~ほんと悲しいな。
首を噛んだ私のことを、戒璃くんが全く覚えていないことも、番のフェロモンに惑わされてしまうのが私だけという現実も。
……って。
えっ?!
「かっかかか、戒璃くん?!」
なんでいきなり、生徒会室の窓にかかるカーテンを閉めだしたの?
ザザザーって、部屋中全部。
小窓についているブラインドまで。
カーテンの隙間から入り込む光があるから、生徒会室は真っ暗とまではいかないけれど、お互いの顔が確認できるくらいの薄暗さにした理由は……なに?
あっ、そっか。
DVD鑑賞でもするんだ。
学園のことを知ってもらうためのムービーを流すから、ちゃんと見るように的な。
立ち上がっちゃったけど、もう一度ソファに座るね。
生徒会長って大変だね。
転入生の面倒も見なきゃいけないなんて。
アハハハハ……って。
「ひゃっ?!」
本当にいきなりだった。
予想外だった。
グワンと沈みこんだソファ。
私の体が少しだけ傾き、そのまま視線を右に。
紫を溶かしたようなサラサラ髪が目に入り、ドキリ。
肩がぶつかりそうなほど近くに戒璃くんが座っていて、バクバクバク。
私の心臓が無駄にきしむ。
長い足を組んでいると、本物の王子様みたいだな。
『お城でくつろぎ中です』と吹き出しをつけ、優雅に紅茶を飲んで欲しい。
はぁ~微笑む推しを拝みながら変な妄想に走るクセ、何とかしなきゃな……って。
ほっほほ、微笑んでる?
私に向かって?
おかしい、おかしい!
さっきまで戒璃くんは、不機嫌そうに眉を吊り上げていたのに。
今は私の顔を見てニコニコなんて。
いや……
ニコニコというより笑顔がネチャネチャ?
行きすぎスマイルが逆に怖すぎるような……
「ねぇ」
ひっ、アーチ状の陽だまりeyeで話しかけられた!
「なんでこの学園に入学してきたの?」
そっ、それは……
戒璃くんとの番関係を暴露されたくなければ……って、雷斗さんに脅されたからなんて言えないし。
「キミ、オメガだよね?」
「……えっ?」
まさか、自分が気づかないうちにオメガフェロモンを放出しちゃってる?
名前呼びされなかったし、やっぱり戒璃くんは私のことを覚えていないんだ。
「気づいてる? オスのアルファフェロモンがベッタベタに塗りたくられてること」
仕事を教えるって言われて、甘え方を双子アイドルにご指導いただいた時に付いたんだと思うけど……
「不快だから、俺のフェロモンで上書きさせて」
ままま、待って!
横に座ったまま、私の肩を挟むようにソファの背に両手をつかないで。
彼の顔が目の前に迫ってきた。
逃げるように上半身をそらしてはみたものの
……うっ、逃げ場なし。
私の背中はソファにべったり。
これ以上、戒璃くんと距離を取ることはできないんだ。
恐る恐る顔をあげ、視線を彼のサラサラな紫髪から下に向かってずらしていく。
あれ?
戒璃くんの目が、いつのまにか灰色に濁っているような……
きっ気のせいじゃないよね?
呼吸が荒くなっているような……
かっ勘違いじゃないよね?
戒璃くんから放たれているアルファフェロモンが、『甘い匂い』から『オスっぽいワイルドな香り』に変わったように思えちゃうけど……
隣に座ったまま、上体を私の方にひねっている戒璃くん。
「覚えておいてね」
病んでいるような目を細め、ダークに微笑み
「他のオスにつけられたアルファフェロモンは、そう簡単には上書きできないんだよ」
逃がさないと言わんばかりの力で、私の両肩をギュー。
掴みながら私の髪に顔をうずめてきた。
ひゃっ、くすぐったい!
鼻先でこすられている、髪の奥に隠れていた頭皮も。
バクバクうるさい私の心臓も。
平常心の許容範囲を超えて、背骨がゾワゾワって震えちゃう。
「やっ、やめて」
「ごめん、やめてあーげない」
おちゃめな言い回しなのに、声が低音すぎて怖いんですけど。
私のほっぺが、戒璃くんの肩に沈み込んでいるせい。
彼の顔は全く見えないけれど。
声を聴くだけで、悪魔っぽい表情をしていると断言できちゃうよ。
一刻も早く、テレビカメラ向かって優雅な笑顔を振りまく、いつもの正統派王子様にもどってもらわないとな。
ここは声に力を込めて……
「戒璃くんお願い、いったん落ち着こう!」
まずは私から離れて。
肺に入りきらないくらいの深呼吸をして。
悪魔に乗っ取られているなら、お祓いしよう、ねっ。
やり方はわからないけれど。
お札を作るとか盛り塩をするとか?
協力できることは、なんでもするから……って。
うわっ、わっ、わわわっ!
私の両ほっぺが、普段ギターの弦をはじいている綺麗な手のひらで包まれてる!
抱きしめからの解放をしてくれたのは、ありがとうだけど。
これはこれで、なんか無理。
吐息が感じられくらいの至近距離から、見つめられちゃっているの。
戒璃くんの綺麗な瞳に、心臓バクバクで倒れそうな私がはっきりと映っていて……
彼は彼で、何か企んでいそうな悪めいた笑顔を浮かべていて……
声を出したいけれど、胸がジクジク苦しくて気道まで塞がれちゃった。
説得を諦めた私。
両手で戒璃くんの胸元を押してみた。
ありったけの力を込めてギューって。
でも全然ダメ。
私の頭をかかえこむように、今度はていねいに抱きしめてくる。
「ほんと可愛い」
私の後頭部に、ほほを押し当てスリスリしてくるし。
「俺だけのオメガね」
ひっ!
勘違いしちゃうから、マジ告白みたいに甘い声を漏らすのはやめて欲しい。
ペットを溺愛するみたいに、ゼロ距離で頬の熱をこすりつけるのも、お願いやめて。
幸せ過ぎて、ずっと戒璃くんの腕にの中で愛されたいって、願っちゃうんだから……
「かっ、戒璃くん! 本当に離して!」
私はお腹の底から焦り声を吐き出した。
でも彼の心には響いていないみたい。
「こんな強力なオメガフェロモンを放っておいて、俺が抗えると思うの?」
まるで理性を飛ばした野獣のよう、妖艶な声を私の耳に吹きかけてくる。
ややややや、やっぱりそうだ。
私は今、オメガフェロモンをまき散らしているみたい。
匂いなんてしないし、自分では全くわからないけれど……
戒璃くんは私のフェロモンにあてられて、おかしくなっていて、ラット状態に入っているんだ!
【ラット】
それはアルファ特有の暴走行為。
濃厚なオメガフェロモンに惑わされ、自分を見失ってしまうもの。
強力なオメガフェロモンは、アルファにとって恋の麻薬そのもので、大量に取り込むと一大事、脳がバグを起こしてしまう。
自分の行動が、正しいのか正しくないかの判断できなくなり。
欲求だけが募り募って、手が付けられないほどの巨大願望に成長。
目の前にいるオメガを自分だけのものにしたくなって、かわいがりたくて、愛でたくて、心も体も独占したくて、相手が泣き叫んでいることすら気づかず、ぐちゃぐちゃにオメガを求めてしまうこともあるんだとか。
『ラット状態になったアルファは、好きでもないオメガを運命の番だと思い込んでしまう。自分の人生が狂わないよう、アルファもオメガも気をつけて』
ネットにはそんな専門家から忠告もあふれている。
2年半前、私の首を噛んだ戒璃くん。
『俺の愛はすべて、美心だけに注ぐと約束するよ』
永遠の愛をささげる約束をしてくれたけれど……
あの時もラット状態だったんだろうな。
私を襲うような猛獣化はしていないから、【プチラット状態】がしっくりか。
私のオメガフェロモンに惑わされ、私を好きだと勘違いしたことは間違いない。
冷静になった帰りぎわ
『美心と番にはなれない』
ごめんと謝って逃げたのが、その証拠なんだろう。
「黒くてサラサラで綺麗なこの髪に、顔をうずめられたでしょ? あの双子たちに」
「ひゃっ!」
過去に彷徨ってて今気づいたけど……
私、片腕で抱きしめられてる!
頭を撫でられてる!
戒璃くんの胸元に押し当てられた私ほっぺは、絶対に真っ赤に染まっているよ。
大好きな人に包まれているんだもん。
火照らない方が無理だよね。
「ここは誰にキスを落とされたの?」
「……っ」
甘柔らかい弾力が、私のひたいに押し当てられて
「ほっぺもだよね?」
「……っ、……っっ」
私のほほを上唇と下唇で挟みこんだ戒璃くんは、ついばむようなキスを降らしてくる。
「悪い子だなぁ、簡単に自分の弱い部分を差し出すなんて」
怒りがこもっているような声なのに、なぜか甘々で……
「俺以外のアルファに心を捧げちゃダメだからね」
私の耳に意地悪く吐息を吹きかけてきて
「わかった?」
私の耳を溶かすように、舌を私の耳後ろに絡めてきたんだもん。
「ひぃあっ……」
自分の口から出たとは思えないほどの甘鳴きがもれて、恥ずかしくなっちゃった。
心臓の爆動を鎮めたいのに、戒璃くんはそんな暇すら与えてはくれない。
ドギマギ震える私に、いきなりのアゴくい。
ハチミツを溶かしたようにトロトロな彼の瞳に、見つめられてしまい
――私は今、大好きな人を独占しているんだ。
込み上げてくる幸せの大波に、どこまでもどこまでも流されてしまいたくなる。
「ねぇ」
「……?」
「この可愛い唇は、誰にも食べさせてはいない?」
私の唇に戒璃くんの親指が滑っていく。
「ここは……誰にも……」
「偉いね、嬉しいよ」
うっ……、、、心臓……限界……
頭を撫でられながのキラキラウインク。
そんな最高のプレゼントをされたら、心臓が過労死しちゃうのに……
「俺からの特別なファンサ、欲しい?」
欲しいに決まってる。
あっ、私も戒璃くんのアルファフェロモンに、やられちゃってるのかな?
意識がボーとしてきてコクって頷いちゃった。
自分の願望がバレちゃうくらいオーバーに。
「素直な子って好きだな」
「……///」
「オメガの甘さ、俺に堪能させてね」
スマートに私の腰を包み込んだ、戒璃くんの腕。
反対の手は、頭を守るかのように私の後頭部に添えられている。
彼の熱が、肌だけじゃなく私の心臓にまで伝わってきて、肌を突き破りそうなくらい暴れる心臓に手を当てているうちに……
ひぃえぇぇ!
わっわわわっ、私の視界に天井が映りこんでいるんですけど?!
背中全部がソファのクッションに包まれているこの違和感。
最大のハテナは、私の真上に紫がかる綺麗な髪が揺れていること。
……こっこの状況は。
いっいいい、いつの間に私、ソファの上にあおむけで寝かされちゃったの?!
さっきまで座っていたよね?
うん、間違いない。
それなのに……
って、過去を振り返っている場合じゃないよ!
大事なのは今!
そして未来!
「オメガが欲しい……」
えっ?
戒璃くん、ソファの上で四つんばいにならないで。
「オメガを味わいたい……」
私の顔の横に両手を置いて、真上から私を見おろさないで。
「今すぐ俺だけのものにしたい……」
あわわわわ……
戒璃くんの態度が急変しちゃった。
いやさっきまでも暴走気味だったけど、自分を見失っているっていうか、完全なる恋の野獣になっちゃったというか。
魂を抜かれたゾンビにも見えちゃうんだけど……
ソファに寝そべる私の真上から、美顔が迫ってきた。
――こんなの、私の大好きな戒璃くんじゃない!
あわてて私は顔を横に逃がす。
「戒璃くん、やめて!」
体をよじりながら叫んでも
「離れて、戒璃くん、お願いだから!」
足をばたつかせても、私の声なんて彼は聞き入れてはくれなくて、目を吊り上げ歯を食いしばり、逃がさんとばかりに私の両手に指を絡めてくる。
獲物を狙うような鋭い眼光。
焦げそうなほどの熱量で真上から私に突き刺してくるのに、彼は私を『七星美心』と認識していない。
それが悲しくてたまらない。
『目の前にいるオメガを、自分だけのものにしたい!』
願望荒ぶる吐息をもらした彼が、私の首筋に唇を押し当ててきた。
「かっ、戒璃くん……っ……」
もがくように体を左右に揺らしても筋力の差がありすぎるせいで、私は逃げ出すことが不可能なんだ。
戒璃くんは今、アルファの欲望に支配されている。
完全なるラット状態に陥っている。
きっともう何を言っても彼の耳には届かない。
暴走だって止められない。
アルファの欲求が満たされるまで、私はされるがままなんだろう。
わかってるよ。
これは戒璃くんのせいじゃない、私のせい。
2年半前と同じ、私が無意識にフェロモンをまき散らしてしまったせい。
オメガなんだから。
アルファを誘惑する人食い花なんだから。
自業自得なんだから。
大好きな番に襲われるくらい、我慢しなくちゃ……
私は辛いことがあると、左手の薬指を噛むクセがある。
どうにもならないくらい苦しくてたまらない時ほど、歯が骨に食い込むくらいギリギリギリって。
今がまさにそう。
人生で一番強く、私は薬指に激痛を走らせている。
本当に大好きだったんだよ、戒璃くんのこと。
私がオメガじゃなかったら……
もし私がベータだったら……
アルファを誘惑する怪物じゃなかったら……
「オメガ」としてではなく「七星美心」として、私と接してくれた?
こんな風に乱暴に襲うんじゃなくて、一人の女の子として優しく扱ってくれた?
フフフ、なにを考えているんだろう私は。
私がオメガじゃなかったらって。
そしたら2年半前、戒璃くんは私に心を開いてはくれなかったよね。
きっと人生で交わることもなく、一生彼の瞳に映ることなく、私は生きていたんだと思う。
ほんと苦しいよ。
オメガとして生きること。
この先もこうやって、知らず知らずのうちにアルファを誘惑しちゃうだろうし、襲われるたびに『私がオメガだからいけないんだ』って、自分を納得させなければいけない。
世間はオメガに厳しい。
この世はアルファが絶対で、アルファが暴走してオメガを襲っても、誘惑フェロモンを放ったオメガが悪いと罪をきせられてしまう。
やっぱり私、この世に存在しちゃダメなのかも……
うっと苦みを感じ、左手の薬指を上下の歯から引っこ抜く。
赤紫にくすんだ痛々しい歯形。
覆い隠すように薬指から血が垂れていた。
溢れてくるのは血液だけじゃない。
こらえきれなくなった心の痛みが溶けた涙も一緒。
両ほほを伝って、ソファに落ちてしまう。
人前で泣きたくないのに。
大好きな人の前でなんて、絶対に泣きたくないのに。
ダメだ……
薬指の皮膚を食いちぎるように噛んでも、激痛の波に襲われても、心の痛みがごまかしきれない。
あふれる涙が止められない……
「……え」
我に返ったような人間味のある驚き声。
私の耳に届き、ハッとなり、視線を戒璃くんに向ける。
涙のしずくをこぼしながらでも、はっきりとわかる。
戒璃くんが私に覆いかぶさったまま固まっていると。
眉を落としていて。
困惑気味に肩を震わしていて。
とんでもないことをしてしまったというような焦り顔で。
真上から私を見つめてくる姿に、隙を感じ……
――逃げるなら今しかない。
私は手の甲で涙を拭き、血が目じりに塗りたくられてしまったことに気づきもせずに、ソファからおりた。
生徒会室のどこへ逃げればいいのかわからない。
戒璃くんに捕まらない場所に行きたいのか、本当は一番近くにいたいのか、パニックすぎて私の願望さえも認識できないでいる。
まだ涙は製造され続けたまま。
雫で視界がにじんで見にくいのに、私が走りだしてしまったからだろう。
部屋の暗さのせいもあったのかもしれない。
「ひゃっ!」
足元の何かにつまづいた私。
2、3歩よろけながらそのまま前に倒れていって、棚の上に飾られていた抱えられるくらいの大きな花瓶に、私の腕がぶつかってしまった。
ガシャガシャ、ギャシャーン!!
陶器が割れる豪快な破壊音。
薄暗い生徒会室に響き渡ったと同時、私の体は勢いよく床に叩きつけられた。
「……痛いっ……っ……」
陶器の破片がスカートでは隠れない太ももやふくらはぎに突き刺さり、かばうように床に手をついたせいで掌にも鋭い激痛が走る。
色とりどりの花とともに、床にばらまかれてしまった花瓶の水。
傷口に触れるたびにジリジリと痛みが強まり、顔を歪めずにはいられない。
……うっ。
体中が痛いからって、床に倒れこんでいる場合じゃない。
早く立ち上がらなきゃ。
見るからに高価すぎる花瓶を割ってしまったんだ。私の不注意で。
綺麗にいけられていた花たちも、床に叩きつけられてしまっているし。
謝らなきゃ。
花瓶の割れた破片も片付けなきゃ。
花も別の花瓶に生けなおして。
濡れた床も拭いて。
私の血が飛び散っている床も棚も、綺麗にして。
……あっ。
しっかりしなきゃいけない時だってわかってる。
まずは心を込めて、戒璃くんに謝らなきゃいけない。
それなのに、立ち上がれなくなっちゃった。
また涙があふれてきちゃった。
止められなくなっちゃった。
陶器の破片が飛び散る床の上で、お姉さん座りなんてしている場合じゃない。
理解しているはずなのに、心の中が、ネチョネチョな感情に支配されていくのがわかる。
怒りに似た震えが、背骨を駆け上がってくる。
「だっ……大丈夫?」
戒璃くんがラット状態から抜けたんだ。
心配そうな焦り顔で、私を見つめないで。
「すごい血が出てる。待ってて、部屋の奥の棚から救急セットを持ってくるから」
2年半前、私の首を噛んだことを忘れているなら、私と出会ったことすら記憶にないのなら、お願い放っておいて。
近づかないで、優しくなんてしないで。
私に対して「好き」の感情がないのなら、これでもかってほど酷い言葉をぶつけて、戒璃くんのことを大嫌いにさせてよ。
……辛いんだから。
……毎日、毎日、失恋の悲しみに耐えるのが苦痛なんだから。
……大好きすぎて、もう限界なんっだってば。
……これ以上、私の恋心を惑わさないで。
……お願い……します。
今も体中に走る激痛。
心の痛みなのか傷跡のうずきなのかわからない。
木の救急箱を抱え、不安そうに顔を歪めながら私の方に走ってくる戒璃くんが目に入った。
――戒璃くんの優しさを、これ以上受け取りたくないの!
「お願い、来ないで!」
戒璃くんの足を止めるくらい強く、私は涙声を張り上げた。
「キラキラなシャボン玉に詰め込んだ戒璃くんとの思い出、泥だらけにしないで!」
声が裏返る叫びに驚いた戒璃くん。
私から5メートルほど前に立ち、目を見開いたまま救急箱を抱きしめている。
「戒璃くんは私のことなんか忘れているみたいだけど、私ははっきりと覚えているの!」
2年半前に約束してくれたよね?
いつかお互いの左手の薬指に、シャボン玉みたいに輝くキラキラな指輪をはめようねって。
「運命の番だねって微笑まれたのが嬉しくて、ずっと戒璃くんと一緒にいられるんだなって思ったら、幸せすぎて夢みたいだなって喜んでいたのに、やっぱりごめんってなに?
首を噛まれたのに、私たちは番になったのに、美心とは一緒にいられないってなに?
そのあと走り去って行っちゃって……」
責めたくないよ、戒璃くんのこと。
嫌われたくない、大好きすぎだから。
それなのに……もうダメだ……
一度開いてしまったハートの穴は、修復なんて不可能で、自分の中にため込んでいたどす黒い感情が、涙と一緒にあふれてきて止められない。
戒璃くんは目を泳がせながら、何かを言おうとしているみたい。
でも私には彼を構う余裕なんてない。
尖った涙を飛ばすように語気を強める。
「わかってたよ、私なんかが戒璃くんみたいな素敵な人と結ばれるわけないって!
私はオメガだし世間の人たちに毛嫌いされる劣等種で、親にすら愛されず捨てられた私が、誰かに好きになってもらえるはずないってわかってたはずなのに……」
「そんなこと……」
「あの日から数か月たって、高校性バンド【89盗】として、テレビの中で戒璃くんが歌ってた時には震えが止まらなかった! テレビの向こう側にいる人なのに、見ているのがしんどくて、幸せな時間を思い出して、振られたことに絶望して、でもカッコよくて、大好きで、私が一番戒璃くんのファンでいたくて、でも辛くて、逃げたくて、楽になりたくて……」
この2年半、いろんな感情に襲われて苦しかったの!
「戒璃くんがテレビの中で女性に優しさを振りまくたびに、週刊誌で熱愛報道がのるたびに、心が引きちぎられそうになるくらい痛かった。
でもちゃんとわかってる。戒璃くんのせいじゃない。こうなったのも、私が抑制剤を飲んでいなかったせい。
戒璃くんは間違いなく被害者で、好きでもない私のフェロモンに誘惑されただけで、そもそもオメガの私がこの世に存在していること自体が罪で……」
「おっ、俺はオメガが劣っているなんて思ったことは一度もないし。あのときは……」
「……もう限界なの! どれだけ左手の薬指を噛んでも、心の痛みはごまかせないの! ハートに襲い掛かる激痛には耐えられないの!」
……消えたいよ。
オメガとしての劣等感から解放される術は、それしかないんだから。
醜い感情を叫ぶように言語化してしまい、私の呼吸が駆け狂っている。
はぁはぁと荒い呼吸を続けるたび、涙が床にポタポタたれてしまう。
はぁぁぁぁ、なんてことをしちゃったんだろうな……私。
2年半前に一緒に過ごした私のことを覚えてもいない芸能人相手に、まくし立てるように涙声を飛ばしちゃうなんて。
私は水でびしゃびしゃに濡れた床の上に座ったまま、涙でぐちゃぐちゃな顔を大好きな人に晒してしまっている。
でももういいのか、戒璃くんに嫌われても。
風弥さんと雷斗さんに頼んで、戒璃くんとの番関係を断ち切ってもらえば済む話。
大好きな人に関する記憶は全て、私の中から消え去ってくれるんだから。
「おっ、俺は……」
焦った顔で私の方に近寄ろうとしたけれど、戒璃くんは歩みを止めた。
ガチャガチャガチャ!
部屋の外から聞こえてきた、ドアノブを乱暴に扱う音。
ハッとなって、私も戒璃くんも入口ドアに視線を突き刺す。
「ったく。やっぱこのドア、鍵かかってんじゃん。でもって鍵はこのタイプかよ? 国が認めたトップ高のくせに、古くせーよな。電子キー使えよ。俺様じゃ開けられんね―し」
生徒会室の外にいるのは雷斗さん?
「フフフ。かわいくお願いしたらどうですか? お兄様、お願いしますって」
風弥さんまでいらっしゃるみたい。
「どや顔ウゼー、兄貴づらウゼー。カザミ、早くカギ開けろっつーの」
「お任せください。それにしても大事な生徒資料が保管されている生徒会室の鍵が、鍵穴にキーを回し入れるタイプとは。お勧めしませんね。私が風圧をいじれば……」
「あっ、昨日俺様の部屋から美心奪ったの、その手口だろ」
「猛獣みたいに私の頭に覆いかぶさってこないでください! はい、鍵が開きました。雷斗、突入しますよ」
「カザミだけ活躍しましたは腹立つから、次は俺様の番な」
「何をする気ですか?」
「堅っ苦しくノックは却下。まだ蹴られた腹痛てーし。お行儀よく入るっつー気分になれねーから」
「ちょっちょっと雷斗、どこまで下がるんですか? まさか助走をつけて、ドアを蹴り飛ばす気では……」
風弥さんの慌て声の後、ドーン交じりの木がバキバキに割れる音が聞こえ
――私の瞳に映っているのは、夢じゃなくて現実なの?
床にお姉さん座りをしたまま、まばたきをしてしまいました。
パチパチパチって高速で。
入口のドアに、人が通れるくらいの大きな穴が開いている。
生徒会室には割れた木が散乱していて
「ヤベっ……マジ快感!」
八重歯を光らせながら満足げに微笑んでいるのは、床に片膝をつく金髪アイドル様で……
えっ?
生徒会室のドアって、飛び蹴りで割れちゃうくらい脆いの?
違うよね。
金髪アイドル様の脚力が、人並みを外れているだけで……
毎日ダンスのステップ練習をしていると、足の筋肉が鍛えられちゃうのかな?
アハハハハ……
私の脳が変な解釈をしている間に、今度は風弥さんが生徒会室に入ってきた。
体をかがめながら、ドアに開いた穴を長い足でまたいでいる。
「あーもう、私が鍵を開けた意味がなくなってしまったじゃないですか!」
「はいはい、すいませんでした」
「雷斗の頭の中には、反省という大事な言葉が欠如していて……」
「そんなことよりカザミ、この状況どう思うよ?」
「血まみれの我が姫が、目に涙を浮かべているんです。相手が格上だとか私たちがアイドルだとか関係なく、怒りをあらわにしていい爆風案件かと」
ひぃえぇぇ!
二人とも、部屋の中央に立つ戒璃くんを睨みつけているよ。
彼らの背中に、怒りの炎が燃えたぎっているような……
目を吊り上げた雷斗さんが、戒璃くんの方に向かって歩き出した。
エレベーターの時みたいに、喧嘩が勃発しちゃうのでは?
止めに入らなきゃ!と、立ち上がろとしたけれど……
「美心、大丈夫ですか?」
駆けてきた風弥さんが、私の前にしゃがみこみ
「何があったんです? 水浸しなうえに血だらけじゃないですか」
私の両肩を掴んできたから
「えっと……これは……」
どう伝えれば、戒璃くんのせいじゃないってわかってもらえるかな?
風弥さんの怒りを鎮める方法を一生懸命考えているせいで、言葉が出てこない。
「こんなに目を真っ赤にして。たくさん泣いたのですね。ほほに涙の跡が残っています」
大泣きしたこともバレてる。
恥ずかしい……
「この状況から推測するに、八神戒璃が美心に花瓶を投げつけたんですね!」
「えっ?」
「許せません! 美心の仇は私が……」
マズいマズい。
怒気をまとった風弥さんが、腕まくりをしながら立ち上がっちゃった。
私は腰を上げ、太ももに走る痛みをこらえながら風弥さんの腕にしがみつく。
「違うんです、戒璃くんは何も悪くなくて!」
「信じられません」
「私が勝手に花瓶にぶつかって。尖った破片の上に倒れこんじゃったから、血がでちゃっただけで……」
「そう言えと八神戒璃に脅されているのですね」
勘違いにもほどがあるよ。
「美心、安心してください。すぐに済みます。八神戒璃との決着がついたら、病院に連れて行ってあげますから」
私を安心させるためか、お兄さん笑顔で私の頭を撫でた風弥さん。
表情をこわばらせくいっと眼鏡を上げると、長い足を進めだした。
戒璃くんと向かい合っている雷斗さんの隣に立ち、腕を組んでいる。
「生徒会長様。さっきは臓器が破裂するんじゃねーかって心配になるくらいの激痛を、俺様の腹にどーも」
「五六……雷斗……風弥……」
「酷いくらいに荒れてますね、この部屋」
「まぁドアに大穴あけたのは俺様だとして。ご丁寧に閉められたカーテンといい、豪快に割れた花瓶といい。どうせ派手に暴走して、ラット状態にでもなったんだろ?」
雷斗さんの挑発するような言い回し。
戒璃くんが「……っ」と、唇をかみしめうつむいている。
「美心に危害を加えるなんて許せませんね」
「エレベーターでの生徒同士の朝の親睦会も、まだお開きになってねーし。八神戒璃、締めに一発殴らせろ!」
ズカズカと大股で歩き出した雷斗さん。
狂犬の様に歯をガチガチさせ、戒璃くんの胸ぐらを掴んだ。
戒璃くんはどうして抵抗しないの?
悲しそうに瞳を揺らして、うつむいたままなの?
二人を同時に蹴り倒しちゃうくらい、強いんでしょ?
「八神戒璃、歯を食いしばれ!」
あっわわわ……
顔の横まで上げた雷斗さんのげんこつが、臨戦態勢に入っちゃった。
このままじゃ戒璃くんが殴られちゃう。
私が何とかしなきゃ!
「違うんです!」
痛みにこらえながら引きずる足。
なんとか前に進め、雷斗さんの腕を掴む。
戒璃くんから遠ざけたくて、風弥さんと雷斗さんを部屋の壁までひっぱってきた。
「雷斗さん風弥さん、私の話を聞いてください!」
「止めるな美心。俺様は今、八神戒璃の腹に一発ねじ込まないと気が済まなくてだな」
雷斗さんはまだ殴りに行く気満々だし。
「これは私のせいで……戒璃くんはただの被害者で……」
「腕を離してください。首を噛んでおきながら、あなたを捨てた男ですよ。美心のことすら覚えていないんですよ。どうしてかばうのですか?」
「それは……私がオメガだからで……」
なんでこんな時に涙があふれてくるかな。
戒璃くんの無実を訴えなきゃいけない、大事な場面なのに。
大粒の涙が、ボロボロって。
「私がいけなくて……アルファを誘惑する人食い花だからで……知らず知らずのうちに、フェロモンを放ってて……」
だから……
「泣かないでください。オメガだからって、自分を卑下する必要はないんです」
「オメガがいなければ……私がこの世に存在しなければ……戒璃くんも……アルファのみんなも……」
「なにバカなこと言ってんだよ! ほら、俺様の袖で涙拭け!」
「あなたは人食い花ではありませんよ」
「カザミの言うとおりだ」
「……でも」
「美心はそのままでいいんです」
「オメガ姫の七星美心として、アルファにも負けないキラッキラな笑顔の花を、無邪気に咲かせときゃそれでいい」
「……風弥さん……雷斗さん」
私の頭に二つの温かい手のひらがのっかった。
止まらない涙を袖でこすり、視線を上げてみる。
「俺様達が作ってやるからな。オメガが自分らしく笑って暮らせる世界」
雷斗さんに乱暴に髪を撫でられて
「ちゃんと見ていてください。劣等種と見下されているオメガを、アルファよりも高貴で崇め称える存在に変えてみせますから」
風弥さんに陽だまり笑顔を向けられて
――オメガが受け入れられる日が来るなんて、地球が一旦滅んで再生しない限り無理だろうな。
そう思いながらも、嬉しくて涙が止まらなくなっちゃった。
「美心、あなたのお仕事はなんですか?」
「えっ?」
「もう忘れたのかよ。さっきエレベーターの中で教えたばっかじゃねーか」
……そっ、それは。
恥ずかしいけど、言葉にしなきゃ。
オメガの未来を変えようとしてくれている二人に、感謝が届くように。
「あっ…甘える……こと…です……」
「誰にですか?」
うっ。
意地悪だ、この双子。
私の顔が真っ赤になる言葉を、あえて言わせようとしてくる。
「誰に甘えるのが仕事かって、俺様は聞いてんだけど」
そっそれは……
えーい、勇気をかき集めて。
「風弥さんと……雷斗さんに……です……」
はぁぁぁ。
バクバクが積もりすぎて、涙が瞳の奥に引っ込んじゃった。
「フフフ、模範解答ですね。美心に花丸を差し上げなければ」
「花丸とかじゃなくてさ、目に見えるプレゼントをくれてやれよ。例えば、ダイヤモンドとか。今夜買いに行くか? ジュエリーショップ何店舗か貸し切ってさ」
ひぃえ?
「う~ん。美心の心の輝きに勝るジュエリーなんて、この世に存在しませんからね。プレゼントをしたところで、宝石が自信を無くして道端の石ころと化してしまうのではないでしょうか」
「確かに、あり得るな」
ひゃっ!
なにその発想……
「八神戒璃、よーく聞け」
雷斗さんが離れたところに立つ戒璃くんに人差し指を向けた。
風弥さんも敵意むき出しで、眼鏡の奥から鋭い眼光を突き刺している。
「私たちはオメガフェロモンにあてられなくても、七星美心を愛おしいと思っています」
「番関係にアグラをかいていたオマエより、愛が深いんだバーカ!」
「おっ俺は……」
「美心、八神戒璃に伝えておきたいことはありませんか?」
苦しそうに顔を歪める戒璃くんが、戸惑いの目を私に向けている。
どっ、どうしよう。
戒璃くんに捨てられた悲しみは、風弥さん達が生徒会室に来る前にぶつけてしまったし。
これ以上、ひどい言葉で戒璃くんを傷つけたくない。
ただ……
大好きな人に大事なことを伝えるチャンスは、これが最後なのかもしれない。
私の願いはただ一つなの。
――戒璃くんのこの先の人生が、私なんかのせいで狂いませんように。
そのために今私ができることは……
覚悟を決め私はこぶしをぎゅっと握りしめる。
目をつぶり、叫び声を生徒会室に響かせた。
「かっ、戒璃くん! 私たちの番関係を、断ち切らせてください!」
戒璃くんには、私以外にもたくさんの番がいる。
首を噛んだことすら覚えていないくらい、私に興味がない。
それなのに学園ですれ違うたびに私のフェロモンに惑わされてしまうなんて、戒璃くんが可愛そうすぎるもん。
私の中から戒璃くんの記憶がなくなってしまうのは、悲しくてたまらないけど。
大好きな戒璃くんの幸せを考えたら、番関係を断ち切ることが最適解でしょ?
正しい判断だとわかっている。
でも縁切り宣言を口にした直後、つま先から震えが駆けあがってきた。
好きな人とのつながりがなくなってしまうのが、悲しくてたまらなくなってきた。
後悔なんかしちゃダメ。
大好きな人の幸せのためだもん。
戒璃くんに辛い思いはして欲しくない。
今までみたいに、スポットライトがまぶしいステージの上で、きらっきらな蜜甘スマイルをファンに飛ばして欲しい。
そのためにはオメガの私は邪魔者で……
私の初恋は捨て去らないとダメで……
でも大好きでたまらなくて……
涙腺が緩みそうになって、涙が製造されそうになって、血がにじんだままの左手の薬指に歯を押し当てた私。
「ったくもう、これ以上自分を痛めつけんなって。見てらんねーし」
指に痛みが走らないようにと、雷斗さんが私の手を掴み口元から遠ざけてくれた。
「ちゃんと自分の気持ちを、八神戒璃に伝えられましたね。えらかったです、美心」
風弥さんは、マリア様みたいなおっとりスマイルで私の頭を撫でてくる。
「帰ったら屋敷でたっぷり可愛がってやる」
「思う存分私たちに甘えつくしてくださいね」
贅沢すぎる優しさを向けられているのに、誰かに甘えたいなんて思えない。
今すぐ布団にもぐって、失恋の痛みを涙で洗い流したい。
コツコツコツ。
前から近づいてきた足音。
消えたと同時、うつむく私の視界に映りこんだ戒璃くんの靴。
「これ、生徒会入会用紙」
温かい陽だまり声に戸惑ったのは、私の耳の鼓膜で、戒璃くんの表情を確認したくて、慌てて視線を上げてみた。
あっ、私に優しく微笑んでくれている。
転入生を歓迎する生徒会長みたいな、お兄さん笑顔で。
ファンに愛を送るトップミュージシャンのような、慈悲深い表情で。
親しみをもって微笑んでくれているのは嬉しいけれど、拒絶シールドを張られているような気も……
「紙がシワシワになっちゃってごめんね」
「……いえ」
「入会用紙、書けたら2年の十守孝里に渡して」
「ともり……こうり……くん……?」
それって89盗のドラム担当の?
「孝里はキミと同じ高2だから、クラスが違っても一緒のフロアに教室があるんだ」
「わかりました」
紙を受け取っちゃったし、私が生徒会室にいる理由がなくなっちゃった。
これで戒璃くんとバイバイだ。
今夜、番関係を解消されたら、戒璃くんのことはすべて忘れちゃうんだ……私。
「ごめんね……今まで俺のエゴで縛り付けて……」
えっ?
戒璃くん、今のってどういう意味?
「最後にもう一つだけ」と、せつない声をもらした戒璃くん。
私の耳に形のいい唇を近づけた。
「美心だけじゃないよ。大事な思い出を、キラキラなシャボン玉の中に閉じ込めているのは」
それって……
「行くぞ、美心」
待って雷斗さん。
私の腕を引っ張らないで。
戒璃くんは、2年半前のことを覚えているの?
私と過ごした思い出を、大切にしてくれているの?
「マネージャーが学園まで迎えに来ます。今から病院に行きましょうね、美心」
お願い、戒璃くんと話をさせて。
私の中から戒璃くんの記憶がなくなる前に。
膨らみ過ぎた彼への恋心が、シャボン玉のように消えてしまう前に。
「わっ私、割れた花瓶を片付けなきゃ。水浸しの床も拭いて、花も……」
「大丈夫だよ。この部屋は生徒会長の俺が責任をもって綺麗にしておくから」
「でも……」
違うの!
私は戒璃くんと話したいの!
あなたの本心が聞きたいの!
お願い、もう少しだけ一緒にいさせて……
私は今、必死な顔をしているんだろう。
涙をぐっと堪えながら、戒璃くんとの縁をなんとか繋ぎとめたくて。
今ここで伝えてもいい?
戒璃くんのことが大好きだよって。
2年半前から変わらず、大好でたまらないんだよって。
「あのっ……」
「割れた破片と一緒に、捨て去りたいものがあるんだ。俺のことは気にしないで」
「戒璃くん、私ね」
「それと転入生さん」
「……?」
「学園内ですれ違っても、二度と俺に話しかけないで」
極上に甘い声。
ささやきながら、戒璃くんはとびきりの笑顔を浮かべてくれた。
テレビで見る王子様スマイルを、私だけにプレゼントしてくれた。
ファンに恨まれそうなほど贅沢な表情だった。
それなのに……
私の心臓が、トラックにひかれたような激痛に耐えられない。
言われちゃったな。
二度と話しかけないでって。
大好きな人からの残酷なフレーズ。
頭の中で何度もリピートされ、私は口角を上げる気力すら湧き上がらない。
「花瓶を割ってしまって……本当にごめんなさい……」
私は戒璃くんに深く頭を下げると、傷口がうずく足を引きずりながら生徒会室を後にした。