6
あの日、僕は心配だった。
僕が犯行を起こす前日、
光里は父親の持っていた包丁を見て僕の家へと逃げ込んできた。
『殺される』。
そう思ったに違いない。
「まさか…私を殺そうと?」
光里は肩で息をしながら、今にも泣き出しそうな顔をして言った。
なぐさめて、否定してやりたい。
だが、素直に否定しきれない思いがあった。
そして、運命を変えてしまうあの日。
空はきれいに晴れ渡っていた。
光里は僕の家から直接仕事場へ向かった。
しかし、僕は心配でいても立ってもいられなかった。
光里があの家へ帰ったら、今度こそ父親に…。
嫌な不安だけが僕を包み込んでいた。
その『不安』は、彼女の死をあらわすものではなく、
自分自身の運命を変えてしまうものだとは知らずに…。
その不安に背中を押され、本能的に光里の家へと向かった。
考える暇もなく、勝手に足が動き出していた。
「光里…?」
ドアを開けて名前を呼んでみる。
丁度、仕事から帰る頃を狙ったはずなのだが、彼女はいなかった。
その代わり、光里の父親がそこにいた。
「何だ、光里の男か」
虚ろな目をした男が、不安な足取りで僕に近づいてくる。
物凄い酒の匂いが嗅覚を奪った。
この男が光里を・・・。
そう考えている内に、怒りが込み上げてきていた。
今まで苦しんできた光里の姿が目に浮かぶ。
何かぼそぼそと呟いている彼の全身を見回した。
ここで僕が怒っても仕方がない。
全ては光里の石が一番大切。
そう理解していたはずだった。
しかし、彼の手の中にある古びた包丁を見た途端、
僕の血は全て脳へと送り込まれていくようだった。
「それで光里を殺すのか…」
我を忘れたボKは、彼の返答を待つ間もなく、飛びかかっていた。
断片的な映像が瞳に送り込まれる。
彼が無造作に握っていた包丁が、何故か僕の手の中にある。
気付いた時にはもう、遅かった。
倒れた彼の体中から、赤い体液が次々と溢れ出し、
酒の匂いと混ざって尋常ではないものとなる。
流れていく血液を、頭を空にして眺めていた。
こんな汚い男から流れる血でも、真っ赤で綺麗に見えるものなのか…。
これからどうしよう、と思った瞬間、
僕の隣には仕事から帰った光里が立っていた。
―――そうして、僕は彼女をもこの手にかけた。
「あなたは恋人を殺してしまったショックから、
この悲惨な出来事を一時的に忘れてしまったのです」
―――彼女がそう望んだのか、父を殺した僕を批難したのか。
「いわば、精神混乱状態だったのです」
―――僕はもう、覚えていない。
「彼女の幻覚を見ていたのですよ。
さて、光里さんを殺したのは覚えていますか?」
―――ああ、はっきりと覚えているよ。
「瑞哉さん、聞いていますか?」
彼女は僕の手を握って、自分で自分を解放したんだ。
君が好きだった父と同じもので、同じ僕から。
最後に見た、光里の顔は笑っていた。
―――そう、笑っていたんだ。
「瑞哉さん」
「…光里、笑っていた」
「それはどうしてですか?」
「僕と…そして父を愛していたから」
幻覚から覚めた僕は、後悔するものだと思っていた。
しかし、彼女を幸せに導いたのだ。
彼女の望みを叶えるために、僕はそのリスクを全て負うことになる。
それでも、彼女の最後の表情は僕に様々な感情を与えてくれたから…。
空が曇っている。
あの日と同じ、晴れ渡った雲はもう現れない。
現れるとしたら、それはきっと僕が現実から解放される、その日だろう。