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正直、僕はあまり光里の言葉に驚かなかった。
いつかやる、そんな考えが頭の隅にでもあったもしれない。
石油ストーブの匂いと温かい風で満たされた部屋に彼女を通すと、ベッドに座らせた。
まだ涙が止まらないらしく、鼻をすする間隔が短くなっていった。
「それで・・・お父さんは?」
窓から陽が差し込む。
それに照らされた光里の鼻は真っ赤になっている。
「家に、いる」
とぎれとぎれの言葉は、なぜか彼女を愛しいと思わせた。
そう思う一方で、家にいるという表現はおかしいと感じた。
彼はもう既にこの世にいないのだから。
しかし、ここでとやかく言う問題ではないことは分かりきっている。
もう家には戻りたくない。
彼女は付け加えた。
当たり前だろう。
家には自分で殺した、自分の父親が息もせずに彼女の帰りを待っているのだ。
「ここにいていいから」
僕は少々戸惑った。
これから、どうすればいいのか。
光里の父をそのまま家に放置しておいて良いのもなのか・・・。
「ありがとう」
彼女は涙と笑顔を混雑させた顔を僕に向けて言った。
その表情を見た僕はどうすればいいのだろう。
父を殺してしまったショックと罪悪感、そして父から解放された喜び・・・。
思えば、彼女と出会って一年の間で、度々泣き顔を見ていたような気がする。
光里は、僕と出会う二年前に母親を亡くしている。
それまでは家族三人でごく一般的な生活を営んでいた。
しかし、母の死がその生活を一転させたのである。
母が死に、父はそのショック・喪失感のせいか働きに出なくなった。
だが、生きていくためにも誰も働かないわけにはいかず、
情けない父親の変わりに光里が朝から晩まで働きに出ていた。
所得が減り、それに従って住居も質が落ちる。
加えて父は酒に溺れるようになり、古びた木造のアパートはいつも酒の匂いで満ちていた。
「ただいま」
光里が玄関から部屋の奥へと声を掛ける。
奥、といってもすぐに限界のある広さでの奥である。
返事が返ってくるはずもなく、汚れた空気が蔓延した部屋に足を踏み入れる。
電気はついておらず、そこに父がいるのかも疑わしかった。
「父さん?」
居間に着くと、真っ先に電気のスイッチを付けた。
暗かった部屋に、希望のごとく光が広がる。
だが、光里にとって、それは希望とは全く逆のものであった。
明かりをつけたせいで明確になる現実。
床には酒の瓶と缶が当たり一面に散乱し、その中に埋もれるようにして父が丸まっていた。
暗いほうが幸せだと、何回感じただろうか。
思わず光里の口からため息が漏れる。
その彼女の表情には、負の感情しか込められていない。
時は既に八時を回り、夕飯の支度をしなければいけなかった。
光里は荷物を壁に立てかけるようにして置くと、台所へと歩み出した。
悲劇が起こったのはその時だった。
光里は床に転がっている瓶を見事に踏んでしまったのだ。
前につんのめるようにして倒れるが、何とか前方にあるテーブルにしがみつく。
だが、そう簡単に幸いへ転じてはくれなかった。
しがみついた時には確かにあったはずの、まだ中身の入った瓶が、ない。
気付いた瞬間、テーブルの向こう側に落下していく瓶の口が見えた。
「あ・・・」
声と表情はそれに反応したものの、
体はまだ転んだ後始末をしているせいで、瓶をつかむことが出来なかった。
いや、動けたとしても光里の反射神経では無理だったかもしれない。
彼女の頭の中で瞬時に思考が飛び交う。
確か、父はさっきこのテーブルの下で丸まっていた・・・
考えがまとまった直後、瓶は鈍い音を立てて乳の上へと降って行った。
「父さ・・・」
声が思うように出ない。
か細い光里の声は、父の耳に届くはずがなかった。
テーブルにしがみつくような体勢の光里の瞳に、酒を頭から浴びた父の姿が映る。
「ごめんなさい・・・父さん」
口だけが呪文のように言葉を吐いた。
目は父を捉え、見開き、顔は凍りついたまま動かなかった。
原因は、父のその狂気に満ちた表情にある。
繰り返し吐かれる言葉など、まるで届いていないかのように父は光里を見下ろしていた。
いつもは小さく、頼りない男にしか見えないのに、
今ばかりは何故か巨大で恐ろしい怪物のように見えてしまう。
「ごめんなざい・・・」
そう呟きながら、光里はテーブルから離れて後退した。
自分でも何を言っているのか分かっていない。
ただ無意識の内に言葉が口をついた。
背中を冷や汗が伝う。
なぜか緊張した自分がいた。
今までに一度も見たことのない父の表情。
雰囲気から伝わってくる尋常ではない怒り。
歩み寄ってくる父をなだめようと、光里が手を差し伸べた。
「父さん・・・落ち着いて」
一瞬だけ見えた彼の瞳の奥には、何もない空虚な空間があった。
何も写さない黒色が息を潜めて獲物を待っているだけだった。
光里が次に父の顔を見たのは、数時間後のことだった。
床に横たわった自分がどうして動けないのか、すぐには分からなかった。
光里を見下ろす父の目。
そこには『母の死』も、それに伴う『哀しみ』もない。
ただ理性に欠けた人間がいるだけだった。