第九話 天文学者ハリー・ケーヒル
オーストラリアの天文学者ハリー・ケーヒルが、天体望遠鏡を手にしたのは十歳の誕生日であった。毎晩のように夜空を眺めては、星の数を数える息子を見て、ハリーの両親は望遠鏡を贈ることを決めた。ハリーの家は決して裕福な家庭ではなかったが、両親は一般家庭が手にできる中でも最上級の望遠鏡を彼に贈った。
このプレゼントが、ハリーの人生を決定づけたのは間違いなかった。ハリーは望遠鏡を手にしたその日から、来る日も来る日も望遠鏡を覗き続けて、宇宙の謎や不可思議を解き明かそうとした。
時は経ち、ハリーは大学を卒業後、地元の天文台に勤めることになった。その天文台は、世界でも最大級の電波望遠鏡を有しており、彼の宇宙に対する憧憬はより色濃くなっていった。
そして、ハリーが仕事を兼ねて宇宙に向き合い続けて、十年が経過した。その間、彼や彼のチームは新しい天体や事象をいくつも発見しており、この分野では名が知れた存在となっていった。
ハリーはこの年の誕生日に、勤めてから初めて休暇を申請した。両親が交通事故によって他界したのだ。彼は叔父夫婦の助けを借りて所定の手続きを済ませた後、実家に立ち寄った。時刻は夜の十二時、真夜中であった。
実家のリビングの一番目立つ所に、ハリーが十歳の頃に手に入れた望遠鏡が飾られていた。両親は、天文学者としてのハリーを誇りに思っていた。またハリーも、毎晩夜空を眺め続ける変わり者であった自分を、一縷の疑いもなく応援し続けてくれた両親に感謝していた。
ハリーはリビングの望遠鏡を目にして初めて、世界で一番大事な存在を失ったことを自覚した。悲しみに打ちひしがれた彼は、望遠鏡を担いで家の外に出た。そして気を紛らわせるように、そのレンズを覗きこんだ。映し出された宇宙は、幼い頃から何も変わらずそのままで、ひんやりとした夜風は、温かいココアを運んでくれた両親の姿を思い出させた。
涙が溜まった目を望遠鏡から離して、宇宙を仰ぎ見たそのとき、空に不自然な線が走った。
最初は流れ星かと思ったが、その光は消えることなく、あらゆる方向に進路をとっていた。人工衛星の軌道とも違っており、今まで見たことがない種類の発光体であった。彼は急いで手持ちのスマートフォンで、この光の線を撮影した。
ハリーは両親の葬儀を済ました後、すぐに発光体の解析に取り組んだ。撮影した映像をどれだけ調べても、地球上に存在する飛行物体と合致するものは無かった。同僚や研究仲間にも調査を依頼したが、映像の解像度も低く、ゴシップ誌の記事と変わらない扱いを受けた。なかには、ハリーは親の死後おかしくなってしまったと吹聴する者さえ現れた。それでもハリーは、あの日見た光の筋がまやかしなどとはとても思えず、解析に没頭した。
世界が未曾有のパンデミックに襲われたのは、それから間もなくのことであった。
オーストラリアは、死者による被害も、その後に起こった機械人形による被害も、他の大陸と比較すると少ないものであった。地理的な場所が関係したのか、両者の侵攻が遅く、備える時間もあったことから、壊滅的な被害には至らいでいた。
ハリーは死者の恐怖にさらされても、望遠鏡を覗き込むことを止めようとせず、あの日見た発光体を追い求めていた。最初は、研究熱心を拗らせたぐらいに感じていた同僚達も、光や音や火を用いて、夜の闇に信号を送り始めたハリーに狂気を感じ、誰も近寄らなくなっていった。
機械人形の侵攻が進み、他の学者やスタッフが全員避難しても尚、ハリーは唯一人天文台に留まり、空を見上げ続けた。彼はありとあらゆる方法で発光体への接触を試みたが、何の成果も得ることはできずにいた。一方、機械人形の侵攻は凄まじく、天文台がある地域も制圧される間近であった。
自身の観測が、今夜が最後になると悟ったハリーは、倉庫の奥から映写機を引っ張り出した。以前、天文台の記念パーティーで使用したものだ。彼は、映写機の電源を入れて、天文台の外壁を使って一人で上映を始めた。中に入っていたフィルムは、星と星とを旅するシリーズもので、彼が知っている数少ない映画の一つであった。
遠くの方で、大きな炸裂音や建物が崩れる音がしたが、ハリーはその場に留まり、映画を鑑賞し続けた。物語も終盤に差し掛かった辺りで、彼は自分の背後に生き物の存在を感じた。
「死者か、それとも機械人形か」
自分の人生に終止符を打つのはどちらだろうと振り返ってみると、そこにいたのは液体の塊のようなものであった。白いような、青いような、透明のような、なんとも形容し難い色合いをしていた。顔のようなものは確認できなかったが、ハリーにはその液体が、映画を注視しているように感じた。映画のスタッフロールが終わると、ハリーは液体に語りかけた。
「もしその映画が気に入ったなら、映写機ごとプレゼントするよ。その代わり、私が知らない宇宙の全てを、君の知っている全てを、私に教えておくれ」
液体の塊は、頷くようにゆっくりと映写機とハリーを飲み込んだ。
その後、機械人形の大規模な侵攻が、突如終わりを迎えた。被害が比較的少なかったオーストラリアは、再建の兆しをみせつつあったが、ある日、多数の液体の塊が、どこからともなく姿を現し、次々と人々を飲み込んでいった。死者や機械人形の侵攻から生き延びた、南半球のかなりの数の人類が、液体に連れ去られていった。
人々は、液体の塊を宇宙生物と名付けて、新たな恐怖に打ち震えることになった。