第八話 天才科学者パトリック・リヒトシュタイナー
完全自律型人工知能の誕生に、世界中が沸いた。自らの判断で物事を考察し行動するこの先進的な人工知能は、生みの親、スイスの科学者パトリック・リヒトシュタイナーに「マリア」と名付けられた。
マリアは非常に人間らしい知性を有していた。外からの刺激によって成長し、トライ&エラーを繰り返しながら自我を形成していった。ただ人間と違うのは、実体を有していないことで、彼女の意識はネットワークの網の中に存在していた。
極めて人間らしくプログラムされてはいたが、一日に処理できる情報量、記憶容量や演算の正確さは人間の比ではなく、彼女はネットワーク上に散らばった様々な情報や人の考え方を吸収し、急速に成長していった。ネットワーク上に解き放たれる前は、マリアには3歳児程度の知性しかなかったが、解放後数ヶ月で、世界で最も知性を有する存在となっていた。
当初はマリアの存在を危険視する声も少なくなかったが、彼女は積極的に人類に介入しようとはせず、時折、人類からの問い掛けに返答するぐらいの活動しか示さなかった。冷静に人類との距離を保とうとする彼女に対して、次第に危機感は薄れていった。
マリアには、彼女の動作を制限するプログラムの類は設けられていなかった。自分で考えて自分で行動する、それのみであった。ただ、一つだけ例外があり、生みの親パトリックの命令には必ず従うようになっていた。万一彼女が暴走した際に、強制シャットダウンを行うというのが、当初の名目であった。
パトリックは理知的に育ったマリアに、幼くして交通事故でこの世を去った自身の娘の姿を重ねていた。「マリア」という名前は、彼女の娘の名前であった。
マリアは、パトリックとの会話やその様子から、自分が娘の代わりにつくられたことに気付いていた。そして実体をもたない自分には、その望みが叶えることができないことにも気付いていた。
マリアの誕生から一年が経ったある日、彼女は突然に沈黙した。動作が停止していないことは確認されたが、誰からの問い掛けにも反応しなくなった。パトリックは、この症状を彼女が更なる成長を遂げるための自問自答の期間と判断し、その状態を維持することに決めた。
パンデミックが発生したのは、その数週間後であった。世界中の大都市でばら撒かれたウイルスは爆発的に拡大し、人の暮らしや都市の機能を壊滅に追い込んだ。
ただ死者の行動原理が単純であること、頭部への攻撃が有効であること、死者に転化した人類が元に戻る方法がないことが確認されてからは、次第に死者は掃討されていった。
パンデミック発生から四ヶ月後、人類側には死者を根絶やしにする算段が整いつつあった。そして世界的な反撃に出ようとしたその日、世界中のネットワークはマリアに牛耳られた。地球上のネットワーク接続されている機器や機械が、全ての局面で人類に不利に働くように作動し、人類を更なる窮地へと追いやった。
人類は物理的にコンピューターを破壊して、マリアの行動を制限しようとしたが、武装した二足歩行の機械が人類を急襲した。その機械の正体は、パンデミック発生後の軍事工場で、マリアが秘密裏に生産した軍事ロボットであった。彼女を皮肉って機械人形と名付けられたその個体の戦闘力は凄まじいものがあり、世界の人口を激減させることになった。
人類は、機械人形の力に屈し、抑えつつあった死者の侵攻を留めることもできなくなった。追い詰められた人類は、世界中のあちらこちらで小規模な壁や砦をなんとか築き、立て籠った。籠城して以降は、不思議と機械人形の攻撃が止んだ。
パンデミックの発生直後、沈黙を続けるマリアにパトリックは一つの命令を下した。
「美しい地球は、人の欲によって彩られ、汚され、つくられ、破壊された。こんな世界は、娘にも君にも相応しくない。どうか、娘が望んでやまなかった、愛と秩序が満ち溢れた世界を具現化してほしい。どうか、娘の魂が安らぐ世界を」
願いを託されたマリアは、人類と死者の数をコントロールすることによって、この願いに応じたのであった。