第三話 松井愛子
松井愛子は三歳のとき、芦原健太と同じ住宅街に引っ越してきた。四つ並びの建売住宅の右から二番目、茶色の屋根の家である。
愛子も引越してすぐに、家の近くの保育園に預けられた。健太と同じ保育園である。両親はともに看護士で、市内の大きな病院に勤めていた。
愛子は一言でいえば、優等生であった。成績はクラスで一番というわけではなかったが、常に上位だったし、運動も特別苦手というわけではなく、何でもそつなくこなした。
常に笑顔で、誰に対しても優しく分け隔てなく接していたので、よく学級委員に推薦されたりもした。愛子は自らすすんで何かに取り組むようなことはしなかったが、頼まれごとは嫌な顔一つせず丁寧に引き受けた。
愛子は中学校に入学した際に、両親から部活動に入るか塾に通うように勧められたが、「家にいるのが好きなので」と断った。両親は忙しい自分たちに代わって、家事をしたり下の弟の世話をしたりするために、自分を犠牲にしているんじゃないかと心配したが、そうではなかった。
愛子は、人の世話をするのが単純に好きだったのだ。自分が手伝うことで、手伝った人の状況が好転したり、周りの環境が良くなったりすることに、喜びを見出していた。
保育園からの付き合いの、信吾、真美、健太の三人に対しては、特に世話を焼きたがった。部活や習い事をせず、自由な時間を長く持ちたがったのはそのためもあった。
三人は、相談したいことがあるときは、親や友人よりも先に、愛子に報告するのが習慣になっていた。なにか具体的なアドバイスをもらえるわけではなかったが、愛子に親身に話を聞いてもらえるだけで、頭がすっきりして気持ちが落ち着いた。
愛子の笑顔には、人の心を安定させる不思議な力があった。
ーーそんな愛子の身体の真ん中に、大きな穴が空いていた。
信吾は眼前のあまりに異様な光景に、一瞬思考が停止しかけたが、すぐに愛子の方へ駆け出した。「愛姉!」思わず出た大きな声に反応したのか、愛子は糸人形のような動作で信吾を振り返った。
愛子の表情は、最後に微笑えもうとしていたが、途中で急に色を失った。
その刹那、愛子はその場に崩れ落ちた。隣に座り込んでいた真美が絶叫する中、信吾は愛子の元に駆け寄ったが、一目でわかった。目に力がない。息をしていない。そもそも、鼓動する心臓がない。血と臓物が、地面を湿らせている。
絶命している。
信吾も真美と同じように叫びたかったが、気持ちを制してすぐに周囲を見渡した。そして、愛子に大きな穴を開けたであろう原因を確認した。見たこともない銃火器を持った女が、少し離れたところに立っていた。
信吾は、その姿に強烈な違和感を覚えた。透き通るような金色の髪に、一点の曇りもない瑠璃色の瞳。ファションショーでもお目にかかれないような端正すぎる顔立ちに、生きものがもつ有機的な質感を感じることができなかったからだ。
戸惑う信吾に、真美が呟いた。
「あいつ、機械人形よ」
信吾はその言葉を聞いた瞬間、全身の毛が逆立つのを感じた。唇の内側を強く噛んで動揺を隠そうとするが、汗が噴き出してきた。
スイスの天才科学者によって誕生した人工知能は、死者の発生による人類史史上最大の混乱に乗じて、人類が構築したネットワークを牛耳ったあと、自ら生み出した機械人形によって、物理的にも人類を支配した。信吾は、機械人形と目の前で対峙して生き延びた例を、今まで聞いたことがなかった。
「我々、あなた方に危害を加えるつもりはありません」
女型の機械人形が口を開いた。
「はあ?なに言ってんのよ!愛姉を殺しておいてよく言えたわね!」
信吾が返事するよりもはやく、真美が気持ちを代弁してくれた。愛姉をこんな姿にしておいて、どの口が言うというのだ。
「先に危害を加えようとしたのは、そちらです。身の危険を感じると、防衛プログラムが優先されます。その女性には、申し訳ないことをしました」
淀みなく発せられる日本語に、信吾は戸惑いを覚えた。死者にしても、機械人形にしても、言葉を話すという例は聞いたことがなかった。よく見ると、女型の機械人形の足元にナイフが転がっていた。愛子が投げつけたのだろうか。
「愛姉が先に攻撃したから、仕方なく応戦したというわけか?」
信吾は、会話を長引かせて脱出の糸口を探ることにした。戦っても、勝てる相手ではない。なんとか真美だけでも安全な場所、第一防衛線の更に内側につくられた最後の砦、最終防衛線まで連れていきたかった。
「はい、そうです。私は、話し合いをしに来ました。そちらのコミュニティの代表と話がしたい。交戦の意思はございません。先刻も違う場所でそうお伝えしたのですが、いきなり発砲されてしまいました。私は、完全機械型ほどには丈夫につくられていません。応戦せざるを得ませんでした」
外側の第一防衛線が破られたのは、おそらくこいつの仕業だ。手に持つ銃火器で、前衛本部を壊滅させたのだろう。だから緊急警報も流れなかった。
「人間は、思っていたよりも感情に左右される生き物なのですね。実に興味深い。私は、もっと多くのデータを集めないといけません。改めて、話し合いを希望します。コミュニティの代表と会わせて下さい」
信吾は大きく息を吸い、吐いた。愛子を殺された怒りで腑が煮えくり返っていたが、冷静に振る舞う必要があった。一つの判断ミスが、死に直結するからだ。
「わかった。但し、条件が、ある」
一語一語をゆっくり発音した。時間を稼ぐ必要があったからだ。目の前の個体に、現段階で敵意がないのは理解できた。もしそうなら、とっくに殺されている。だが、自分たちの命を預けるほど信頼できる相手では到底なかった。必ず隙をみつけて、この状況から脱すると決めた。そしてそのタイミングが間もなく訪れることを、信吾は予想していた。
「条件とは?」
女型の機械人形が、瑠璃色の瞳で信吾をじっと見つめる。
「二つある。一つ目は、俺たちが、次の防衛線まで、生きて、到達すること」
変わらず、一語一語ゆっくり丁寧に発した。時間稼ぎをしているのがバレないように、話す速度に注意を払った。
「わかりました。その条件は容易に達成できるでしょう。あなた方を安全な場所までお届けします」
「お前が言うな」と食ってかかりそうになる真美を、信吾は右手で制した。
「二つ目は?」
「愛姉を、蘇生させて、ほしい」
女型の機械人形は、少し考える様子を見せたあと、口を開いた。
「残念ながら、二つ目の条件を受け入れることはできません。我々の技術をもってしても、そちらのお嬢さんを蘇生させることは不可能です」
「それでも!ーーそれでも、蘇生に、取り組む努力は、みせてほしい。生き返らなかったとしても、元の姿に、戻す努力は、してほしい。次の防衛線の、大人たちも、無抵抗の若者に、危害を加えた、機械人形なんかと、話し合いなんて、断じてしない。そうなると、困るのは、おまえだろ?」
女型の機械人形は、黙ったままだった。回答例を探しているようにも見えた。
「おまえが、愛姉を、蘇生させようと、するなら、この件は、事故だったと、機械人形に、攻撃の意思は、なかったと、俺から、皆に、説明する」
「それは少し困りましたね。手持ちの装備では蘇生どころか、修復に取り掛かることもできない。私としてはここであなたがたを処分して、次に向かっても良いのですが」
途端に空気が張り詰める。「失敗したか」信吾の唾を飲みこむ音が、隣の真美にも伝わった。
「ーーわかりました。あなたの提案を受け入れましょう。これも学習の機会の一つです。我々のコロニーで、こちらのお嬢さんの蘇生を試みます。但し、あなた方にもついてきて頂いて、証人になってもらいます。その上で、そちらの代表と話し合いの場を設けて頂きたい」
信吾は、少し安堵した。眼前に迫っていた生命の危機を、とりあえず先送りすることはできた。あとは、逃げ出すタイミングであった。
そのとき、信吾たちの住む地区からサイレンが流れた。
「緊急警報!緊急警報!ただいま第一防衛線内で死者が発生、東地区が襲撃を受けています。前衛本部は壊滅した模様。第一防衛線内の生存者は、今すぐ最終防衛線内に避難して下さい!繰り返します!」
サイレンと緊急警報が鳴り響いた。驚いた鳥たちが、一斉に羽ばたいていった。しかし目の前の機械人形は、慌てる素振りすら見せない。
「さあ、急ぎましょう。ここはあなた方には危険です」
機械人形が手を差し伸べたそのとき、ざざっ!と音がした。
突然、死者が、木々の間から飛び出してきて、女型の機械人形に背後から襲いかかったのだ。機械人形はくるりと反転し、重々しい銃火器の引き金を引いた。死者の頭部が、跡形もなく吹き飛んだ。
その瞬間、信吾は真美の手を引いて駆け出した。女型の機械人形は、今度は信吾たちに銃口を向けた。信吾は叫んだ。
「おい!機械人形!約束は守るが予定は変更だ。一つ目の条件は自分たちで達成する。愛姉の身体を保護しながら俺たちの安全を確保するのは、お前でも難しいだろう。あとは愛姉の身体を元に戻して俺たちの前に連れてこい。そのときはいくらでも話を聞いてやる」
女型の機械人形は少ししかめた顔をしたが、引き金を引くことはなかった。
「あの男、流暢に話せたんだな。時間を稼いでいたのは、死者が襲いかかるのを待つためか。ーー面白い」
女型の機械人形はそう呟くと、着ていた衣服を脱ぎ、愛子の穴を塞ぐように結んだ。そのまま片手で担ぎ上げると、第一防衛線の外へ向かって駆け出した。
信吾と真美は、自分たちの住居がある東側の地区には向かわず、直接北側の最終防衛線を目指した。木々を縫うように全力で駆けた。
「ねえ、地区には向かわないの?」
真美が、途切れ途切れの声で信吾に尋ねた。
「ああ。地区も死者に襲撃されてもう安全じゃない。特効薬を回収できても、健兄を探し出すのは困難だ。第一、時間が経ちすぎた」
信吾は、それ以上続けなかった。真美は、死者に変わり果てた健太の姿を一瞬思い浮かべたが、すぐに頭の外に追いやった。
「ねえ、愛姉は生き返るかな?」
真美が尋ねた。信吾は返事をしなかった。
「私、さっき愛姉と喧嘩しちゃった。こんな状況なのに、なんで信吾に告白するの?って。私の気持ち知ってるくせにって」
信吾は、真美が好意を寄せてくれていることには、薄々気付いていた。しかし、愛子の告白には驚いた。愛子は、健太のことが好きなのだと思っていた。
「私、このままお別れするなんていやだよ。喧嘩になってもいいから、また愛姉に会いたい」
真美は、涙ぐんでいた。
「真美、お前だけは絶対に安全な場所まで連れて行く。健兄も愛姉も、必ず取り戻す」
どんな姿になっていても、と続けようとしたがやめた。愛子は黙って頷いた。
女型の機械人形と別れてから、最終防衛線までの道中では何も起こらなかった。死者に襲われることも、違う機械人形に襲われることもなかった。リミッターが外れた死者の力は、凄まじいものであったが、動きはそこまで機敏ではない。駆ける足を止めなければ、追いつかれることはなかった。
ようやく視界に、最終防衛線の砦が見えてきた。信吾と真美は顔を見合わせた。真美の顔は少しほっとしたように見えた。
「走れ!急ぐんだ!」
門の上の守衛が大きな声で叫んでいる。信吾は、手を上げて応える。
「急げ!急げ!早くー!」
少し、守衛の様子がおかしい。あまりに血相をかえて叫ぶので、信吾は咄嗟に後ろを振り返った。
「違う!上だー!走れー!」
信吾と真美が上を見上げると、透明のような、水色のような液体が、帯状に浮かんでいた。陽の光を反射させて、きらきらと眩しかった。
何だあろう。初めて見る物体だ。
二人の足が完全に止まったその瞬間、液体は急降下し、真美を呑み込んだ。