第二話 芦原健太
芦原健太は三歳のとき、地方都市の程よい郊外に引越してきた。四つ並びのよくある建売住宅の一番右側、灰色の屋根の家である。
家の前には公園があり、歩いて三分のところには、生鮮食品の鮮度に定評のある地元スーパーがある。最寄駅に行くには自転車を使わないといけなかったが、校区の小学校や中学校に荒れた噂などはなく、公務員や会社員が住まうには人気のエリアであった。
健太は4000グラムを超える大きな赤ん坊として、この世に生をうけ、大きな怪我や病気をすることもなくすくすくと育った。背の順で一番後ろを譲ることはなかった。
健太の父親は警察官であった。正義感が強く温厚な性格であったが、頭に血が上りやすいタイプでもあった。勤務時間外でも、よく町の不良やチンピラと言い争いをしていた。オンオフ関係なく自身の正義を遂行する父親に母親はうんざりしていたが、健太には自慢の父親であった。
「男たるもの強くあるべし」という(父親の)教育方針から、健太は小学生になってすぐに柔道と剣道を習い始めた。健太には武道の才能があり、その体格の良さも相まって、県内では共に負けなしの成績をおさめるようになった。中学校に進学する際には、より適正のある柔道一本に絞り、将来は五輪選手と噂される選手になっていった。小学生になってからできた二人の弟も、兄のことを誇らしく思っていた。
健太にとって小さくない事件が起きたのは、中学三年の秋のことであった。スポーツ推薦で県内の強豪校に進学が決まっていた健太は、学校の帰り道にいじめの現場に遭遇した。加害者側の三人と被害者側の一人は皆高校生であったが、健太は年齢差を考えることなく止めに入った。
父親の正義の教えが身に染みていたのと、少し自信もあったのだろう。自然と身体が動いた。止めに入った健太は、次第に三人の高校生と口論になり、遂には掴み合いの喧嘩になった。健太は難なく三人を投げ飛ばし制したが、その内の一人の打ちどころが良くなかった。
救急車を呼ぶ事態になり、相手の親が必要以上に騒いだこともあり、この事件は進学予定の高校の耳にも入ることになった。事件を重くみた高校側は健太の内定を取り消し、健太は幼馴染の愛子と同じ、市内の公立高校に進学することになった。
健太は、内定が取り消されたことには流石にショックを受けたが、自身の行動を悔いることはなかった。父親も、相手に怪我をさせたことについてはきつく叱りつけたが、健太の行動自体を否定することはしなかった。
「相手に怪我をさせなくても済むように、もっと精進しろ」
健太は、父親の言葉に無言で頷いた。自身の行動が否定されなかったことに安堵し、より強くなることを心に誓った。正義の教えは間違いなく健太に遺伝していた。
ーーその正義に満ち溢れたスポーツマンの右足に、人の形のようなものがしがみついていた。
死者だ。
死者の歯が、健太のふくらはぎの辺りに深く食い込んでいた。健太は咄嗟に蹴り払おうとするが、しがみついた両腕が解かれることはない。
近くにいた三人の中で一番早く動いたのは、信吾だった。信吾は、不測の事態にも動揺することがない。特別勉強ができるわけでも、運動ができるわけでもなかったが、周囲には常に一目おかれていた。誰が相手でも物怖じしないし、どんな状況下でも慌てることがなく、自分の意思を貫く強さがあったからだ。
真美と愛子が悲鳴を上げる中、信吾は背負っていたバックパックからナイフを取り出し、刃のカバーを外した。健太の足元に駆け寄るとナイフを逆手に持ち直し、死者の脳天に二度、三度と突き刺した。
三度目の刺突で、死者の動きが止まった。
「健兄、傷口をみせて!」
健太の薄手のジーンズを捲りあげて見てみると、ふくらはぎが抉れたようになっている。
「駄目だ、骨まで届いてる。愛姉!止血に使えそうなものはない?なんでもいいから!あと、真美!バッグからナイフを出して周りを警戒して!まだ他にいるかもしれない!」
二人は信吾の声に我に返り、すぐに動き始めた。
愛子は、バックパックに包帯代わりに使えそうなものがないことを確認すると、ナイフを取り出し、自分のスカートに切れ目を入れた。そのまま両手で引き裂き長い帯状にすると、信吾に急いで手渡した。真美もナイフを抜いて、辺りを警戒していた。
信吾は、愛子から手渡されたスカートの切れ端を、健太の膝の少し下のところできつく結んだ。健太は苦悶の表情をみせたが、声は出さなかった。
「健兄、立って」
信吾は健太に肩を貸し、無理矢理立たせた。
「多分、感染してる。急がないと」
信吾の言葉に、空気が張り詰めた。
(30分以内に特効薬を打たないと取り返しがつかなくなる。特効薬は地区の診療所にしかない。普通の足でも20分はかかる。くそ、どうする)
信吾の脳がフル稼働で最適解を探し始める。この間、三人は口を挟むことはしない。なにか取り決めをしたわけではないのだが、このような場合は信吾が決断を下すことが四人の決まりになっていた。信吾の決断が失敗に終わることは今まで殆どなかったし、こうやってこの悪夢のような環境下でもなんとか命を繋いできた。
「決めた。二手に別れる」
信吾は、三人の顔を順に見た。
「俺と健兄は歩いて地区の診療所を目指す。愛姉と真美は学校に戻って地区に無線で、特効薬を持って車でこちらに向かうように連絡してくれ。打つのは一秒でも早い方が良い」
真美と愛子はしっかりと頷いた。
「あと、先生に頼んで緊急警報を流してもらってくれ。まだ他にも死者が潜んでいるかもしれない」
二人はナイフを手に、学校へと駆け出した。
「健兄、俺たちも行こう。痛いだろうけど、ここは無理して歩いてくれ」
「わかった」
健太は信吾に肩を借り、ひょこひょこと歩き出した。
「信吾、ありがとな」
「なんだよ、急に」
「こんなときじゃなきゃ、礼も言えないだろ。俺たちがこんな世の中で、人のまま生きていられるのは、間違いなくお前のおかげだよ」
「そんなことない。俺は、健兄と愛姉と、あとおまけで真美がいないとなんにもできない、ちょっと口が悪いただの高校生だよ」
「口が悪いのは自覚してるのな」
額に脂汗をにじませながら、健太がにかっと笑った。一歩あるく度に激痛が走るのが、肩を貸す信吾にも伝わった。
「とにかく、健兄には助かってもらうからな。じゃないと困る」
「ああ、わかった」と返事をしようとしたとき、健太は周囲の違和感に気付いた。
通学路の南側の木々から物音が漏れ出している。以前よく耳にした、死者が枝や葉を揺らす音だ。信吾もその音に気付いたようだ。一瞬身体が強張ったのが伝わってきた。
ふう、と健太は大きく息を吐き出したあと、こう言った。
「信吾、二人を今すぐ追い駆けろ。この音からして、10や20の数じゃない。多分、第一防衛線が破られてる」
信吾は何か言おうと口を開くが、言葉がでてこない。
「いいか、信吾。今、おまえの頭の中で思い浮かんだことを実行するんだ。それが正解だ」
「でもそれじゃ、健兄がーー」
死んでしまう、と言いかけて言葉を引っ込めた。
「死んでしまうかもしれないな。普通のやつだったらな」
健太は、わざと白い歯をみせて笑った。
「あいにく、俺は普通のやつじゃなくて、将来の柔道界を背負ってたつスーパーマンだ。人口が激減した今なら、メダルも確実だろう。なに、いざってときは木にでも登って、地区からの助けを待つさ」
「ーーわかった」
信吾は健太の顔を真っ直ぐにみて、首を縦に振った。
「今、俺にできることをするよ。愛姉と真美と合流して、学校を目指す。学校に着いたら、すぐに地区に連絡して、健兄と俺たちを助けに来てもらう」
「おう」
「健兄はできる限り安全なところをみつけて、待機しておいてくれ。俺たちも先生たちと協力して、バリケードをつくって立て籠る」
「わかった。二人を頼む。じゃあ、またあとでな」
信吾は、健太の顔をじっと見つめてから、振り向き去った。
(健兄の馬鹿野郎、木に登るだって?この辺りの木は背も高いし、掴まるところも無い。普通でも難しいしのに、あんな怪我をした足じゃ。くそっ、集中しろ。最善の選択をするんだ。四人揃って、必ず助かるんだ)
信吾は念じるように、全速力で二人のあとを追いかけた。
引き返して間もなく、予想よりも早い地点で人影が目に入ってきた。こんなところで立ち止まって、愛姉と真美は一体なにをしているんだ。信吾は全力で足を回転させて二人に近付いたが、眼前の光景に脳の処理が追いつかなくなり、立ち尽くした。
目の前には、へたへたと地面に座り込んだ真美と、身体の真ん中に大きな穴を開けたまま立っている愛子の姿があった。