第一話 放課後
「あつい」
六月。
木造の仮説校舎が熱を帯び始めた紫外線を遮断できるわけもなく、教室はこの時期特有の湿気も相まって、不快指数はかなりのものであった。
「ほんとあつい。エアコン、いやせめて扇風機ぐらい入れてくれればいいのに」
机の上に腰掛けた女生徒、一色真美の声が教室中に響いた。
「真美ちゃん、流石に扇風機は難しいんじゃないかしら。こんなご時世だし。あとそんなに大きな声を出さなくても、はっきり聞こえてるわよ」
真美に腰掛けられた席の椅子に座っている、松井愛子が返した。
「愛姉はいつも注意ばっかり」
少しふてくされた様子の真美が、唇を尖らせて大きな声で呟き、ショートパンツから伸びた長い足を大げさに組み直してみせた。この学校に制服はなく、生徒は私服で登校している。
「それにしても」
会話に入ってきたのは芦原健太。身長は180を超え、恰幅も良い。以前は柔道で将来を期待される選手であった。
「この蒸し風呂の中で、ぐうぐう眠れるあいつはすごいよな」
「ほんと。先生も超呆れてたし。貴重な時間を無駄にしてって」
「マイペースというか、肝が座っているというか。それとも何も考えてないのか」
ここで居眠りの青年、草間信吾の目が覚めた。気付けば、授業もホームルームも終わっていた。
振り返ると、見慣れた三人の顔が目に入ってきた。
「もう終わり?」
「終わり」
真美が矢継ぎ早に返した。
「一応お礼言ってよね。待っててあげたんだから」
「別に頼んでないし。でも」
大きな伸びをしたあと、信吾は言った。
「一応、ありがとう」
「へえ、今日は素直じゃん」
「いつも素直だ。あと、おまえに言ったんじゃない。健兄と愛姉に言ったんだ」
「はいはい」
四人は連なって教室をあとにし、校舎の外に出た。下駄箱は設置されておらず、靴を履き替えることはない。
草間信吾、一色真美、芦原健太、松井愛子、この四人の高校生は、本当の兄弟というわけではない。保育園以来の幼馴染であり、今は訳あって同じ建物に住んでいる。
健太と愛子が前を歩き、信吾と真美がその後ろに続いた。
「ねえ」
真美が珍しく小さい声で信吾に尋ねた。
「あんた、なんで真面目に授業を受けないわけ?」
「だって意味ないじゃん、真面目に勉強したって」
「そりゃそうだけど」
「入学式のときに先生にも言ったけど、俺が教えて欲しいのは、使う機会がない外国語でも、小難しい数式でもなくて、明日を生き抜く力なんだよ」
「あー、言ってたね。そんなこと」
「大人たちの善意はわかるから、おとなしく学校に通ってるけど、本当は一日でも早く外に飛び出して、取り戻したいんだ」
「飛び出すってあんたね」
真美の声が不意に大きくなった。
「真美ちゃん、何のお話?面白そうな話だったら仲間に入れてね」
愛子がくるっとこちらを振り向いた。長めのスカートがふわっと膨らんだ。
「別に?信吾のいつもの戯言にいらっとしただけ」
「そう」
愛子が微笑みながら前を向き直した。
「愛姉、そのスカート長くて邪魔じゃない?」
真美が愛子の背中に話しかけた。
「だって、他にお洒落して行くところがないんだもの」
愛子が振り向かずに答えた。
「でもさ、やっぱり動きにくいし、いざっていうときに困っちゃうよ?」
「いざっていうときは、スカートを脱いで走るわよ。健太、信吾くん、見ちゃ駄目よ」
愛子が少し意地悪そうに笑った。
「無理無理。健兄もこいつも、いつも愛姉のこと目で追いかけてるもん。愛姉がスカートなんか脱いだ日には、男共はまっすぐ走れなくなるよ」
「おまえなあ」
健太が笑いながらこちらを振り向いた。こぼれる歯は、碁石なみに白い。
四人が住む建物は、学校から歩いて30分ほどの所にある。入学した当初は「遠い」「疲れた」と口々に文句を言っていたが、二ヶ月経った今では足も慣れ、もう少し遠い「地区」から通っている生徒もいるとわかってからは、それほど気にならなくなった。
学校は、それぞれの「地区」のおおよそ中間地点につくられた。元々は広場だったらしく、運動場のようなスペースもある。学校までの通学路もそれなりに整備され、道を挟む木々は陽の光を柔らかに遮断し、教室よりは幾分か涼しい。
学校を出てちょうど10分ぐらい経つと、道の真ん中に大きな岩が現れる。信吾は小走りに前に出て、その石に腰掛けた。
「夏休みってあるのかな?」
「さあ、どうかしら」
愛子が、信吾の問いに答えた。
「今も週に二回通うだけだし、ひょっとしたらないんじゃないかしら。それに、家にいてもやることがないし、旅行にも行けないしね」
愛子は微笑んでみせたが、その笑顔は少し憂いを帯びていた。
「いや、旅行には行けると思う!」
健太が、明るい調子で割って入った。
「ここには山もあるし、木もあるし、川もある。それに鳥もいるし、魚だっているじゃないか」
「健兄、それは違うでしょ。非日常の経験をするのが旅行。健兄が言ってるのは、単なる遠足よ」
真美が「おわかり?」といった具合に、両手の掌を上に向けた。
「仕方ないだろ、消灯の時間までには戻らないといけないし。それに遠足だっていいじゃないか。少しは非日常を味わえるさ」
「それで?みんなで遠足に出かけて、カレーでもつくって、キャンプファイヤーでもする?そもそも、防衛線の内側で行ってないところなんて、もう残ってないんだけど」
真美の棘のある物言いに、健太も少し声を荒げた。
「あのなぁ、俺はただ雰囲気を良くしようと言っただけで。真美、今日のおまえ少し態度悪いぞ」
「あら、わたしはいつもこんな感じだけど。愛姉のようにできなくてごめんなさい」
健太の唇を強く結んだ顔に、真美は舌を突き出していた。
「やっぱり」
いつのまにか岩に仰向けに寝転んでいた信吾が、口を開いた。
「今のままじゃ駄目だ。このままじゃ駄目なんだよ。皆わかってるだろ?この二年間は、たまたま生かされていただけだって」
信吾の言葉に、急に空気が張り詰めた。
「相手のきまぐれで明日にも命を落とすかもしれないのに、大人たちはたまたま続いているこの平穏を、自分たちが掴みとった日常だと勘違いし始めている」
「信吾、やめなよ。空気が悪くなる」
真美の制止を気にする様子もなく、信吾は続けた。
「相手の掌の上で踊らされている日常を幸せだと勘違いして、現状維持することに躍起になっている」
信吾は上体を起こして、道の先を睨んだ。
「俺は嫌なんだよ、何もできないまま死んでしまうのが。どうせ死ぬなら、元の生活を取り戻すために死にたい。子ども扱いされて、簡単な手伝いと何の役にも立たない勉強をしている間に人生を終えるんじゃなくて、防衛線を越えて、あの頃を取り戻すために命を使いたい」
信吾を諭すように、健太が口を挟んだ。
「信吾、あのな。お前の言いたいことはわかるけど、俺たちに一体なにができるっていうんだ。防衛線を越えた時点で、俺たちの命なんてどうしようもないほど軽くなる。大人たちだって必死さ。防衛線が破られないように全力を尽くしている。それに、もう間もなく俺たちもそこに加わる。いやでも現実に向かい合うときがくるんだ。今は、偽物かもしれないけどこの毎日を楽しんで、理想を叫ぶのはそのときになってからでもいいじゃないか」
「私も健兄に賛成。皆わかりきってることを、一々言葉にされるとしんどいんだけど。自分だけは違うみたいな顔をされると、正直気分よくない。愛姉は?どう思う?」
「うーん、どちらの気持ちもわかるから難しいわね。正解不正解の話でもないし。でも、敢えての話をするなら、信吾くんに一票かな」
「え、意外!愛姉なら、信吾を諌めると思った」
「だって」
真美がはにかんだ様子で言った。
「せっかくなら、好きな人の味方をしたいじゃない」
「ーーえっ!それってどういう」
信吾がよろめきたったその瞬間、
「痛っ!」
健太の叫び声が空に響いた。
信吾が驚いて振り向くと、健太の足に人のようなものがしがみついていた。