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空気が震えている。
遠く離れた場所から音を届かせ、心胆の奥底まで訴えかけるような何かが伝播する。
歓喜のようでいて、しかし慟哭のようにも思えるソレ。
生命が持つ原初の欲求を乗せた咆哮が街を駆け抜け、彼方まで響き渡らせんとするようであった。
「何だ、今のは……」
「音……鳴き声、か?」
「―――」
音と、何より覚えのある魔力に反応したシアーシャが髪を靡かせて振り向く。
周囲の人間が戸惑いながら声が来た方角を探る中、彼女だけはまっすぐに一点だけを見つめていた。
「……なにか、寒気がしないか?」
「魔具の調子が悪い……一体何が起こっているんだ」
自身に匹敵する……あるいは凌駕するかもしれない危険な相手の気配を悟り、自然と意識が戦いの物へと切り替わっていく。内に滾る魔力が目を覚まし、活性化するように体を駆け巡っている。
迸る魔力の奔流に中てられた者たちが体と道具の不調を訴え、顔色を悪くしていた。
災害にも似た暴威を、その一端ですらない予兆を浴びただけで矮小な身は委縮し、本能が危機を呼び掛けていたのだ。
「……」
これまでにない危険を前にしたシアーシャが表情を変える。
敵意と、それ以上に憐憫すら滲ませた蒼い目で外敵がいるであろう場所を思う。
「ジグさん」
そしてそれに立ち向かっているであろう彼のことを想った。
「―――!!!」
ジグとウルバスが動くより先に、痺れを切らした化け物が動く。
触腕による攻撃から巧みに逃れて足元にまとわりつく冒険者たちに苛立った化け物が再度、強硬手段に出た。複数の口による詠唱で自身の身体ごと巻き込んだ広範囲無差別攻撃。
「やばい、また来るぞ!?」
「下がれ下がれさがれぇえええ!!」
皆が泡を食って全力で後退を始める。初撃を見て、この化け物の攻撃を防ぐことの愚かさを理解している冒険者たちは必死だ。
一斉に触腕が魔術を唱え始めた時点で潮が引く様に距離を取り始める。
その潮が引き終わる前に嵐が訪れた。
「「「A―――」」」
氷雷と炎嵐。
相反する魔術が双方から吹き荒れ、諸共に冒険者たちへ降りかかった。
避けられないことを悟った者たちは絶望的な表情で防御術を展開するが、その悉くが薄紙のように蹴散らされていった。
「―――っ!?」
荒れ狂う吹雪が瞬く間に人体を凍りつかせ、雷の鞭が粉砕する。
取り返しがつかないほどに粉々にされた氷像の修復は一流の彫刻家にも不可能だ。
巻き起こる陣風が防具ごと寸断し、燃え盛る炎が乱切りにされた肉を焼き上げる。
強すぎる火力で黒焦げになった肉塊は犬も喰わぬほどの汚物と化している。
人間にも……いや、魔女にすら成し得ぬ多重詠唱による複合魔術。
その威力は筆舌に尽くしがたいものであり、間に合わず直撃を受けた冒険者は悲鳴すら上げられぬ間に飲み込まれ、その命を散らしていった。
掠めた者も被害は甚大であり、この戦闘どころか冒険者を引退せねばならないほどの深手を負っている。
これほどの大規模魔術は想定していなかったのか、僧兵の側にも被害は出ていた。幾人かが法衣を赤く染めて倒れ伏し、それ以上の数が人であったかもわからぬほどに損壊している。
「……これほどとは」
窮地に陥ることを免れたレアヴェルが表情を険しくして被害状況を見て表情を硬くする。
「―――!」
意味の分からぬ声で哄笑を上げる化け物が、次いでジグたちに狙いを定めた。
大柄で目立つ活躍をした二人は化け物から見ても注意を引く存在らしい。眼球が威嚇するように瞳孔を開くと、一斉に触腕が殺到する。
「ッ!!」
言葉はない。
二人は合図もなく、互いの呼吸を読んだかのように同時に踏み出した。すれ違いざまに斬り落とし、触腕を躱しながら化け物に向けて突っ込む。
薙ぎ払いをウルバスが盾で受け止め、間髪入れずに勢いの死んだ触腕をジグが斬り上げる。
身を翻して振るわれる長い尾が切断された触腕を弾き飛ばし、放たれた炎弾とぶつかって爆発する。
煙の中から投擲されたウルバスの曲刀が触腕の眼球に突き刺さる。葡萄が潰れるように弾けた眼球の痛みで触腕が怯む中、煙の尾を引きながら飛び出した巨体が刺さった曲刀を掴んで振り抜く。
ジグが魔術を唱える口へ蒼金剛の硬貨を放り込み、怯んで一瞬動きが止まったところをウルバスの曲刀が斬り抜け、持ち替えると同時に逆手で刎ねた。
剣技と機転に長けた二人の即興連携は触腕による猛攻を物ともせず、空いた距離を瞬く間に詰める。
「D―――」
二人の接近を嫌がった化け物は防御障壁を生み出した。
生成された魔力の壁は冒険者の攻撃魔術をも受け止める強固な壁となり道を阻む。
「任せろ」
ジグは並走するウルバスへそれだけ伝えると、仄かに光を帯びた双刃剣を手に前に出る。
高濃度の魔力に反応してか、この化け物と相対した時から切れ味と威力を増している今の武器ならやれる。かつてシャナイアの魔術をも斬り裂いたこの凶刃ならば。
走る勢いはそのままに、地を擦りそうなほどに下げた切っ先を逆袈裟へ全力で振りぬいた。
赤黒い刀身は層になった障壁へ衝突し、激しい魔力光を散らした。
「くっ、―――おおおおお!!」
「「!?」」
耳障りな音と共に動きが止まるジグに、化け物の障壁は剣を受け止めたかに思えた。
しかし一瞬の拮抗の後、光を強めた双刃剣は再び勢いを強めて障壁を引きちぎる様に両断した。
割れ落ちる硝子を思わせる燐光が乱反射する中、深緑色の鱗が駆け抜ける。
「―――いくよ?」
盾を捨てた彼の手が根元から刀身を撫でる。
鎧長猪の大牙から削り出された白い刃が真紅に染まり、熱された鉄のように周囲の空気を歪ませた。
亜人は全体的に肉体の能力が優れている代わりに魔力が少なく、操作も苦手だ。
だから彼らはあれこれと複数の手段を用意するのではなく、ここぞという時の切り札として一芸に特化する。
ウルバスにとっての切り札はこれだ。
刀身に付与する魔術はより効率的な運用のために無駄な炎を放出せず、ただ極限まで高められた熱によってあらゆる外殻をも焼き斬る。
幾度も鍛錬を続けて高めた技術とそれに耐えうる堅牢な武器があって初めて成立する、焦熱の刃。
「―――!??」
その危険性を理解した化け物は咄嗟に触腕で防いだが、無駄なことだ。
ただ一瞬、刹那の勝機を逃さぬために全力を注いだ乾坤一擲を防ぐこと能わず。
束ねた麻紐を焼き切るが如く素通りした刀身は、しかし未だ熱を失わぬままに化け物の脚へ到達。
外皮を突破した刃が肉を焼き、流れる赤い血すらも蒸発させながら進んでいき、振りぬいた。
自身の激しい魔術すらも耐えきる頑丈な脚。
それを焼き切った一刀に化け物が悲鳴を上げ、その身をぐらつかせる。
だがそれでも化け物にとっては痛手ではない。数ある脚の一本が短くなっただけだ。
憎き相手への反撃をするべく、渾身の一撃を放ち隙のできたウルバスを踏みつぶそうと脚を振り上げ、
「いい加減、お前の脚も斬り飽きた」
少しだけうんざりした声音。
しかし手にした赤刃には些かの慢心も混じってはいない。
友が自分を信じて隙の大きい一撃を使ってくれたのだ、それに応えずなんとする。
化け物の意識がウルバスへ逸れたことでわずかだが時間はできた。
貴重な時間を存分に使って下半身で溜めを作り、後ろに構えた双刃剣を音がするほどに握り締める。
盛り上がった全身の筋肉は引き絞られた弦のように張り詰め、ジグという矢を打ち出す瞬間を待ちわびていた。
それが今、解放される。
「―――ッ!」
弾けるような音と共にジグの姿がブレる。
割れた大地と土煙だけが踏み込みの強さを物語り、襲い掛かる触腕は彼のはためく外套を撫でることすらできない。
ウルバスに迫る化け物の大きな足へ、仄かに光る双刃剣の赤い軌跡が線を引いた。
両者は衝突しなかった。
ただ交差した瞬間、何の抵抗もなく一方だけが血を撒き散らしながら消し飛んだ。
せっかくなので、なろうシアーズプログラムに参加してみました。




