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「ジグさん、ただいま戻りました……?」
「おかえり」
部屋に戻って来たシアーシャは言葉の途中で眉間に皺を寄せた。
彼女も魔女だ、入る前からシャナイアがいるのには気づいている。
あまりいい気分ではないが、街の防衛に役立つのであれば近くをうろつくことくらいは許容してやらなくもない。
自分は本能に従うのではなく、人の世で生きるため理性的に振舞うと決めたのだ。
気に入らない相手がいるからといって誰彼構わず殺すような真似はしない。相手から敵意を向けてくるのならばともかく。
「……なんです?」
こちらを見てくるシャナイアは何故か勝ち誇ったようにいやらしい笑みを浮かべている。
たとえ理性で押さえつけても苛ついてしまう感情自体を無くすことは出来ない。なにはなくともささくれ立つ心を自覚しながら、何やら言いたげな彼女へ尋ねる。
「いやぁ?」
すると彼女は一段と笑みを深め、ニタニタと粘度の高い表情ではぐらかした。
腹の立つ言い草にシアーシャの眼つきが険を帯びる。いかにも聞いてほしそうな態度を取りながら、聞くと答えないとはどういう了見か。
なんの真似だと視線で問えば、シャナイアは見せつけるように髪を靡かせた。
自分とは毛質の違う長髪がふわりと広がり、紫紺の髪が部屋の灯りを受けて艶めいた輝きを放っている。
「?」
何か違和感がある。いつも乾かしてやっている時と比べて妙に毛ツヤがいい。
まさかと思いジグの方を見る。彼は寝台に腰かけたまま安堵した様子で双刃剣に布を巻いていた。
普段あまり表情に出ない彼にしては妙にゆったりと落ち着いているが、今気にするべきはそこではない。彼の胸元、服の辺りを注視すると長い毛髪が付着しているのが確認できた。
自分の物ではない。
「ふふーん」
「!?」
そしてシャナイアが手元で弄んでいるのは新品らしき刷子。使った直後らしく、絡んだ髪を取っている。明らかに見せびらかす目的でいたはずのそれを、シアーシャが気づくと同時に懐へ仕舞った。
分かりやすい挑発だ、乗るべきではない。
シアーシャは自身にそう言い聞かせて堪えた。口の端を震わせながらも平静を装い、然も気にしていないかのように振舞った。
そんな彼女をせせら笑ったシャナイアはすれ違い様に振り返り、ジグへ流し目を送る。
「またねジグ君。あの話に進展があったらその時にでも」
「うむ」
意味深な内容を言い残したシャナイアが部屋を出て行く。
残されたのは無の顔をしたシアーシャと、ここ最近頭を悩ませていた懸念事項が解消されてすっきりしたジグだけ。いつになく油断した彼は危機が迫っていることに気づきもせず、”そろそろ夕食の時間か”と腹を撫でている。
その後、彼は腹の虫が鳴る中で日が落ちるまでただ櫛を動かすだけの装置と化した。
人間は古来より適応力の高さをもってその生息域を広げてきた。
野生の動物や魔獣と比べれば非力でありながらも、人が大陸における覇者と呼べる存在でいられるのはそのためだ。暑い場所でも寒い場所でもお構いなしに住み、自分たちの都合のいいように環境を整える図々しさは他のあらゆる生物にも真似できない。
つまり人間の強みとは適応力。
いつ魔獣に襲われるか分からないような過酷な環境であろうともいずれは慣れて、逞しく生きる生物。
だが物事は表裏一体、長所もあれば短所もある。
住民たちが魔獣の襲撃に慣れてしまったことにより危機意識が麻痺し、より安全な場所に逃れようという意識が欠けてしまっていた。稀に紛れ込んだ魔獣に襲われたり、住民同士での諍いから殺しに発展するくらいで大きな被害が減っていたことも大きい。
それは冒険者たちも例外ではなかった。
「でやがった! あの魔獣だ!!」
屋敷の扉を蹴破るようにして飛び込んできたレナードが叫ぶ。
ロビー中に響き渡るような大声にまず注目が集まり、告げられた内容を理解したギルド職員や待機していた冒険者たちに緊張が走った。
真っ先に動いたのはシアンだ。
他の職員に小声で指示を出すと、読んでいた書類を放り投げてレナードから詳しい情報を聞き出す。
「場所と距離は?」
「南西だ! まだ半刻は掛かる距離だが……野郎、悠々と歩いてきやがる!!」
「報告では複数本の脚を破壊されたとのことですが、その形跡は?」
「ない。五体どころじゃない満足ぶりだったぜ」
報告を聞いたシアンは訝し気に目を細めた。
聞いていた通りのとんでもない再生能力だ。それに以前交戦した際には地中から現れたという話だが……堂々と姿を見せて近づく意図が分からない。
疑問を抱きつつもやるべきことが変わるわけでもない、今は即断即決が必要だと考え直した彼女は声を上げた。
「魔術師を中心に付近の冒険者を向かわせてください。それと早馬で東区のシアーシャさん、北区のシャナイアさんを呼び戻すよう手配を」
シアンは指示を出しながら内心で舌打ちをする。
迂闊だった。いくら生えてくると言ってもあれだけ大きな脚を切断されたのだから、もうしばらくはやってこないと楽観視していた。また攻めてくることを見越し、行商の護衛と街道の整備を優先してまずは足場を固めようとしたのが裏目に出てしまった。
「敵は想像以上の再生能力を持っています。討伐ではなく足止めを優先し、街から引き離してください」
「注意を引けなかった場合はどうする?」
冒険者の一人が手を挙げて質問をすると、用意していた答えを返す。
相手は魔獣だ。こちらの予定通りに動いてくれないことも当然視野に入れてある。
「脚を狙って移動能力を奪ってください。如何に再生が早いとはいえ、瞬時に生えてくるわけではありません。継続的に攻撃を加えることで再生の阻害を試みてください。他に質問は?」
最善は発見後ただちに強力な魔術師の準備を整えて、飽和攻撃で迎え撃てればよかったのだが……一手遅れた分をなんとか巻き返さなければならない。
ギルドの指示に冒険者たちが動き出す。
冒険者たちへ魔獣の持つ特徴と攻撃手段などは事前に説明を済ませている。またハリアンで切り落とした脚を解析した結果、強度と想定しうる弱点なども通達されていた。何の情報もなく戦ったあの時とは訳が違う。
いつの間にか派遣されていた澄人教徒が姿を消している。ヨラン司祭と僧兵たちへ伝えに行ったのだろう。彼らの動きも気にはなるが、戦力を提供してくれるのは正直言って有難かった。目的が目的なので、最後の最後で邪魔をしないか心配ではあったが。
「……」
各々が自身の役割をこなすために動き出す中、シアンは壁に背を預けて耳を傾けていた傭兵へ視線を向けた。非常時に細かな指示を出すのは難しいため、こういう事態にどう動いて欲しいかは事前にある程度話し合っている。
一瞬の交錯を指示と受け取った彼は無言で小さく頷き、剣を手に冒険者たちの後を追って歩き出す。
大きな背に寄せるのは信頼ではなく、為してきた行動とそれによる結果のみ。
出会った最初の頃、彼に抱いていた印象は有望な冒険者の隣にいる胡散臭い傭兵だった。
金のために動くと言って憚らないあの大男に嫌悪感を持ち、護衛という立場にもかなり懐疑的だったものだ。あれだけ純粋で美しい女性に傭兵などというどこの馬の骨とも知れない存在がいつ手を出しやしないかと気が気でなかった。
彼が特別何かをしたわけではない。いつからかその疑念は解けており、少なくともシアーシャへ害を及ぼす存在でないことだけは理解できた。
そして今、短い期間ながらも彼を雇うことでその行動理念を知った。
金のために動く。
決して人聞きのいい言葉ではないその主義も、見方次第ではそこまで悪くはないのだと……そう思えるくらいに。
シアンは払う側になることでその使い勝手の良さと、金を出した分の結果を齎してくれる都合の良さを実感していた。その考え方がどこぞの上司に似ていることに気づかぬまま。




