269
静寂が降りた部屋にシャナイアの髪を梳く音だけがしている。
驚きに絶句している、というよりは告げられた言葉をうまく飲み込めていないのだろう。
ややあってから彼女は口を開き、言葉を選ぶようにおずおずと尋ねた。
「少し離れた離島の出……って訳じゃなさそうだねぇ。その口ぶりだと」
どこか信じられないと言った様子を滲ませながらも、一応の確認をするように。
だからジグは誤解のないように、ハッキリと事実のみを伝えた。
「言葉通り大陸だ。お前たちが魔の海と呼ぶ海域を越えて、果ての地からやって来た」
いつかはこのことを誰かに話すときが来るかもしれない。
そんな風には考えていたが、まさか初めて伝える相手が魔女になるとは思ってもみなかった。
大陸を渡った原因が魔女なら、話した相手もまた魔女とは……まったく人生とは、想像以上に数奇で因縁染みているらしい。
ジグは誰にも話してこなかった秘密を打ち明けたことにどこか清々しさすら感じていた。
依頼に関する事を話さない程度の情報秘匿は日常茶飯事だが、これほど大掛かりで危険な情報を抱えたのも話したのも初めてであった。
「そんな、まさか……どうやってあの海を越えたんだい? あそこには地上と比べ物にならないくらい厄介な魔獣だらけのはずだ。ジグ君がいくら強くても海の魔獣相手じゃどうしようもない」
シャナイアは声を震わせて否定する。そんなことはありえないと。
彼女がそう言うのも無理はないだろうなと、もはや懐かしいとすら感じるあの日を思い出す。
上陸した途端に地中から現れた大きな蚯蚓の群れに襲われ調査隊から何人も犠牲が出た。
これは堪らないと海に戻ろうとすれば、無数の魚人に取り付かれる船。
極めつけは角の生えた鯨だ。異大陸航海のために造られた頑丈な船がくの字に折れるあの光景は今も忘れられない。
アレを思えば、どれほど強い人間でも海の前では無力という言にも頷くしかない。鱗に覆われた人型の魔獣程度であればともかく、あの巨大な鯨のような魔獣に船ごと突きあげられてはどうしようもない。たとえそれが魔女でも、海という圧倒的に不利な戦場では為すすべなく沈んでいくだけだ。
「それに関してはいくつか仮説がある……が、本題を話してからにした方が良さそうだ」
「……ボク、海の向こうに人が棲んでいたってだけで結構衝撃なんだけどぉ……これ以上何があるって言うのさ」
ようやく理解が追い付いて来たシャナイアが興奮したように身を震わせている。
だがこのくらいで驚いてもらっては困る。ただ遠い地の出身というだけでここまで身元を隠す必要などないのだから。
「その大陸に棲む人間には魔力が存在しない」
「びゃ―――」
とっておきの……ジグにとっては当たり前の真実を伝えられた時、彼女はとうとう絶句した。
妙な声を上げて固まっていたかと思うと突然勢いよく振り向き……刷子に髪の毛が絡まり、頭皮を引っ張られる痛みに悶絶している。
「……何をしているんだ」
涙目の彼女へ呆れた視線をやりながら解いていく。せっかく整えた髪が台無しである。
癖とは違う飛び跳ね方をする髪を再び梳いてやっていると、痛みから立ち直ったシャナイアが声を荒げた。
「つぅ……そうじゃなくてぇ!」
痛い思いをしたというのに性懲りもなく勢いを付けて振り向く。ジグは察して刷子を避けていたが。
シャナイアは体ごと向き直ると、股座に収まったままジグの胸ぐらを掴んだ。
「どういうことだい!? 魔力がないって……それじゃ君たちはどうやって生きてるんだい!」
”魔力とは血と共に体中を巡るものであり、生きていく上で必要な機能を補うものである”
よく世話になる診療所のドレア先生が言っていたことだ。
これが本当ならば、魔力がないとは生きていく上で必要な機能を持っていないことを意味する。大袈裟に言えば血がない、肉がないと言っているに等しい。それだけこの大陸の生物にとって魔力とは身近であり、大事なものであるらしい。
「そう言われてもな。ないものはない」
向かい合わせになっている状態で肩を竦める。
ジグからすれば何故生きるのに魔力が必要なのかが理解できない。食性や行動、睡眠時間を見るに基本的な機能は同じはずだ。なのにどうして魔力という補助がなければ生きられないのか。そもそも魔力はどこから生み出しているのか。
「俺が隠していた理由が分かるだろう」
「……そうだねぇ。もし口にしても狂人の世迷言扱いされるのが関の山だろうね」
「信じられんか?」
言いながら刷子を再び動かす。向かい合った体勢なので抱くようにして手を後ろに回し、髪を梳く。
シャナイアは気が抜けたのか胸ぐらを掴んでいた手を放し、ぽすんと頭を預けて額を押し付けたまま首を左右に振った
「ううん……ジグ君ならその可能性もあるかなって、そう思ったよ。だってやっぱり、君おかしいもん」
「魔女がどの口で」
「その魔女から見ても、君はおかしいよってことぉー」
いつの間にか普段の調子に戻った彼女がくぐもった声で答えた。服に口を押し当てて喋っているのか、胸元が妙に湿気る。気色が悪いのでやめて欲しい。
「でも、なるほどね。妙に侵食のことに拘るなと思ってたけどぉ……そういう事情があるなら納得かな。そもそもの体の構造が違う……」
シャナイアが言葉を切って顔を上げた。
彼女の口元に不思議と笑みが浮かぶ。殺されかけた男の手の中にいることがおかしくて。その男が今は自分の髪を梳いていること、それ以上に自分がそれを受け入れていることが、とてもおかしかった。
「いや、そもそも本当に同じ生き物なのかなぁ?」
「見た目の似た魔女と人間が違う生き物なんだ。同じ人間同士が違う生き物でもおかしくはあるまい」
本質を揺るがすような問いにもジグは動じない。
刷子を置いてシャナイアの脇に手を入れて持ち上げると、くるりと回して正面を向かせる。やはり向かい合ったままだと髪は梳きづらかった。
「前置きが長くなったが、そういう訳だ。俺にはそもそも魔力がない……だから侵食が俺にどう影響を及ぼすかも分からん」
「魔力がないから侵食も起きないって考えじゃあいけないのかい?」
「空の器なら異質な物で満たしても何も起きないと? 器そのものが蝕まれていない保証が何処にある」
「まぁそうだね。得体の知れない異物が自分の中にあるって状況で楽観的になる方がおかしいか。とはいえ、うーん……ボクも初めて聞いたからなぁ」
とてとてとジグの膝を叩きながら唸るシャナイア。
少しでも情報が欲しい。でなければただ危険な情報を開示しただけになってしまう。
「ジグ君は自分が何か変わったと思う所はあるかい?」
内心で焦るジグにそんな質問を投げかけてきた。
医者の問診を思わせるそれに少し悩んだが、素直に答える方が得策だと判断して口を開く。
「環境が大きく変わったからな。多少なりとも変化はしている自覚はある」
「ふむふむ……それは君の考え方や行動方針に大きな影響を与えているのかな?」
反射的に否だと答えようとした口元を押さえる。
思えばこの大陸に来てから激動の日々を過ごしてきた。下手をすれば傭兵団に所属して戦地を渡り歩いていた時以上に。人間関係の変化も多く、様々な価値観にも触れて来た。
改めて見返してみるべきかもしれない。
金で敵を斬るだけの傭兵であった頃の自分と、シアーシャの護衛として依頼を受けてからの自分を。
「……」
大枠は変わっていないはずだ。
殺しに忌避を覚えるようになっただとか、命の尊さを知っただとか、元の人格から変わってしまうような大きな変化はない。
だが同時に変わっていると言い切れる部分もある。
初めはもっと……なんというか、事務的に接していることが多かったように思う。勿論今でもそうする場面は多いが、多少なりとも相手の事情を考慮することが増えた。
一か所に腰を据えた関係上、同じ人間と接する時間が増えただけという見方もできる。それでもこれはジグにとって変化だった。
仕事さえできれば他の人間との関係を疎かにしがちなジグが、他人との関係に意識を割くようになったのは……シアーシャの護衛を始めてからだったかもしれない。