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ばさりという音がして長髪が靡き、なんとも言えない女の香りが漂う。
シャナイアの髪は癖が強く、梳く前に軽くほぐしてやる必要がある。引っ張らないように気を付けながら、手で布を広げるように柔らかく動かす。ざっと整えたところで新しい刷子を手にすると、使い慣れぬそれを確かめるように優しく当てていく。
最初は緊張して肩が強張っていたが、刷子が動くたびに脱力していく。
「侵食について、ボクはそこまで詳細に知っているわけじゃあない」
シャナイアはそう断ってから語り出した。
恐れていた事実がようやく聞ける……聞かなくてはならない。ジグは重々しく頷くと、逆に緊張しそうになる手を意識から切り離して彼女の言葉に耳を傾けた。
「魔女の魔力は他者を侵す……これは以前説明したね。無意識にばら撒かれる魔力は亜人人間を問わず侵食して、その者を狂わせる」
「シアーシャが冒険者を続けてからそれなりに経つ。周囲で彼女に対して異常な行動をした者は……いないこともないが、美女に対する反応としては常識の範囲内だったぞ」
これまでもシアーシャに言い寄る者や下心を持って接する者はそれなりにいた。
しかし彼女の容姿を考えれば特段おかしなこととも思えない。ジグも含めて男とはそういう生き物だ。
むしろ少ない方だったかもしれない。四六時中厳つい男が隣にいたり、有力な冒険者とも関わりがあることのおかげだろう。
「それはあの魔女の意識が君一人に向けられていたからさぁ。あれとの関係は単なる友好って言葉だけじゃ片づけられないでしょお?」
「……どうだろうな」
ジグは明言を避けて曖昧に濁した。
はぐらかしているのではない。自分の中でどう捉えていい物か計りかねているだけだ。
シャナイアは少しだけ振り返って肩越しにジグを見た。深い瞳に内心まで見透かされるような錯覚すら覚える。
結局彼女はそのことには触れずに前を向くと話を続けた。
「侵食を受けた者は徐々に思考が歪んでいく。魔女のことしか考えられなくなって、ただの操り人形になり果てる」
「……」
そう、本題はここだ。
思考を奪われ操り人形と化す―――これこそ最大の懸念点であり、今後の関係を揺るがしかねない問題。もしこれまでの行動が操られていたものだとするなら、幼い頃より守ってきたジグの行動理念を揺るがしかねない。
「俺は、どうなんだ?」
これの返答如何では……護衛依頼の解消も選択肢に入ってくる。
その覚悟で問いかけた。
「ボクもそれは疑問に思っていたんだよねぇ。昔、別の魔女が連れていた雄を見たことがあるんだけど……まさしく操り人形といった様子でねぇ。魔女のためだけに動く傀儡になっていて自意識が残っているのかも怪しい状態だったよ」
彼女にとってもジグは珍しい例らしく、顎に手を当てて首を傾げている。
それだけを聞けば自分は違うのだと安心できなくもない。だがこの大陸の人間とは体の構造が違う。必ずしもその情報が無事を証明してくれるものとはならない。
「俺は侵食を受けていないのか?」
「いいやぁ? 間違いなく受けているよ。ジグ君の中にはあの魔女の魔力が確かにある……」
シャナイアは言いながら、いつの間にか止まっていた手を咎めるように腿を抓る。
話している間は髪を梳くという約束だ。動揺しているとはいえジグの方からそれを破るわけにはいかない。再び手を動かすと、彼女は抓っていた手を放し両膝に載せて気持ちよさそうに首を反らした。
「はぁ……それで、なんだっけぇ?」
「俺の中にシアーシャの魔力がある」
「あぁ、そうだった……侵食は十分に受けているはずなのに、ジグ君にはその症状が見受けられないんだよねぇ。受け答えも普通だし……いや普通ではないけどぉ、それはどちらかというと元々の頭がおかしいだけに見えるんだよねぇ。侵食によるおかしさとは別な気がする」
随分と失礼なことを言っているが、自身の考え方があまり一般的でないことくらいはジグも自覚している。そもそも傭兵とはまともな仕事ではないのだ。
「好き勝手言ってくれるな」
「だからボクも最初は気づかなかったのさ。君の近くに魔女が潜んでいて、その残り香か何かとも思った」
「……侵食を受けながらも平常でいられる理由は何だと思う?」
「分からないねぇ……何しろ前例がない。そもそも無差別に撒き散らしているからと言っても短期間一緒にいるくらいじゃ侵食は受けない。長期間共にいるか、ジグ君みたいに集中的に受けない限りは、ね」
分からないという彼女の言に怒るわけにもいかない。
魔女同士が基本的に不仲なのは間違いない。シアーシャも過去に別の魔女と会った時に殺し合いになったと話していた。そんな相手に選んだ繁殖相手を見せる方がどうかしている。
「魔力が少ないことが関係していると思うか?」
「逆だね。魔力が少ないと侵食はより速く進むよ。だから魔女は一般社会で生きていけない。普通の人間にとって魔女は毒でしかないからね」
それは初耳だった。魔力が少ないと侵食が速く進むのはどういう理屈だろうか。
魔力が大きいからこそ侵食の影響も大きいと思っていたのだが、彼女の口ぶりを聞いているとどうやら間違った認識のようだ。
ジグの疑問を手つきから感じ取ったのか、シャナイアが指を立てて話し始める。
「魔力は血と同じく体中を流れているものだからね。侵食された魔力が全身を循環するうちに、本来その人間が持つ思考が壊れていく。少なければそれだけ影響も受けやすい。か細い清流が汚れやすいように、魔力が少ないだけその影響は大きい」
「自分たちを汚れと言うのか」
「あの傀儡を見て自分たちがいい物だと思えるほど、ボクは自分が綺麗だとは思っていないさ……」
そう言ってシャナイアは膝に置いた両手を所在なさげに弄っている。
どこか他人事のように語る彼女の小さな背中に、永い時を一人で過ごしたが故の諦観が感じられた。
”選んだ雄の一匹ですら力で奪い、操り人形にする……魔女とは生まれながらにして、孤独な存在なのさ”
彼女は以前そう語っていた。
力で奪うのはともかく、侵食はあくまでも不可抗力であり、本心からそう望んでいるわけではないとしたら。
魔女が孤独であることは結果に過ぎない。
彼女たちの全てが本心から望んで独りでいるわけではないことを、ジグは知っていた。
「だから余計に不思議なんだよねぇ。ジグ君くらい魔力が少なければさして時間も掛からずに操り人形になっているはずなんだけどぉ……何か特別な理由でもあるのかなぁ?」
それを見せたのは一瞬だけ。
彼女はすぐに普段の調子に戻ると、探るような口ぶりで揺さぶりをかけてくる。
窓の硝子越しにこちらを窺う金の瞳が爛々と輝いていた。
弱さを見せることでこちらの油断を誘ったのか、それとも弱さを見せてしまったことを恥じて取り繕ったのか。
どちらか判断できぬままに選択を迫られる。
すなわち、ジグの出自を話すか否か。
こことは異なる大陸の出であること、生まれながらに魔力がないこと。
これらをこの大陸の魔女であるシャナイアに話すことでどのような結果になるのか。
話す利点は明白。
侵食に対するより正しい予想が聞ける。彼女が話したのはジグが魔力を持っていることを前提で語られていることであり、ジグが魔力を持っていないと理解すればまた別の意見も出てくるかもしれない。
逆に欠点はどうだろうか。
次に戦うことになった際、こちらの手札が割れている状態で相対することとなる。
飛び道具や隠し玉が碌にないと知られた状態で魔女と戦うのは危険だ。ただでさえ少ない勝ち目をさらに下げる羽目になる。
また彼女がこのことを吹聴すればより危険度は増す。裏にも表にも狙われる心当たりなどいくらでもある。そういった輩にジグの情報が伝わるのは得策ではない。
総じて判断すると話す方が危険は多いように思える。
現状を見れば正気は保てているのだから、危険を冒す必要は感じられない。
「―――俺は」
だがそれでも。
それでもジグは知りたかった。
自身の弱点を晒してでも、今の自分がどうなっているのかを……これまで自分が振るってきた剣が、自らの意志で振られたものであったのかどうかを。
「俺は、別の大陸から来た人間だ」
長らくご迷惑をおかけして申し訳ない……峠は越えましたので更新ペースを元に戻します。