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確かめると言っても仕事中に押しかけるわけにもいかないので、シャナイアが戻って来るまで待機するしかない。
ジグは言葉にできない気持ちを抱えたまま屋敷のロビーで時間を潰す。
不安とも恐れともつかない感情はいつかの砦での防衛戦を思い出させた。敵がいつ攻めてくるのか、どこまで守り切れるのか読み切れない漠然とした感覚が胸中を占めている。
そんなジグの内心を知ってか知らずか、冒険者たちが戻って来るまで誰も話しかけてこなかった。
ジグはいつも通りでいたつもりだ。しかし普段一人でいると何かと話しかけられることを考えれば、やはり言葉にはせずとも近寄りがたい空気が滲み出ていたのかもしれない。元よりあまり穏やかな人相をしていないジグが眉間に皺を寄せていれば、普通の感覚をしていれば話しかけないものだ。
考えている内に時間は過ぎていた。賑やかな声と共に冒険者たちが屋敷の門をくぐっている。
防衛区域によって戻る時間に差異が出るのだが、運がいいことに目的の人物は早めに戻ってきたようだ。寄りかかっていた壁から背を離して足早に彼女の元へ向かう。自然と握った手に力が入るのを自覚しながら。
「お、聞いてくれよジグ! 今日は……」
ジグに気づいたハインツが片手を挙げて、声を掛けたところで言葉を詰まらせた。
怒りに顔を歪ませているわけではない。だが戦いの険しさとも違う暗い感情で眉間に皺を寄せているジグに驚き、普段の変わらない表情との差に閉口してしまった。
彼の反応だけで自分が今どんな顔をしているかが鏡を見なくとも分かった。
「悪いな」
「お、おう……」
目を丸くするリザと生返事のハインツへ詫びの言葉もそこそこに、冒険者たちの後ろに一人で歩いているシャナイアの前に立ち塞がる。突然前を塞がれた彼女は不快気に顔を上げ、それがジグであることに気づいてにたりと口の端を吊り上げた。
「何かなぁ、ジグ君?」
「顔を貸せ。話がある」
粘着質な笑みを浮かべる彼女へ、いつになく硬い口調でジグが命じた。
命令されることに不快感を示すかとも思ったが、シャナイアは機嫌良さげに頷いただけで大人しくついて来た。
何か企んでいるのか、それとも機嫌が良いだけなのか。
今はそれすらどうでもいい。
「ちょっとぉ、速いよー」
「……ああ」
逸る気持ちに体が連動していたのか、声に後ろを振り向けば随分と距離が開いてしまっていた。
彼女が遅いのではなくジグが速いのだ。身長二メートルにも及ぶ彼の歩幅は広く、そして兵とは基本的に早足が基本だ。ちんたら歩いていれば尻を蹴飛ばされる環境にあるのだから、自然とそうなる。
一人の時はともかく、この癖はここ最近治っていた。他でもない護衛対象に歩く速度を合わせる必要があるために。それを忘れてしまうほど焦っている……その事実に今更気づく。
長い髪を揺らして小走りで駆け寄る姿に、護衛を始めたばかりのシアーシャが重なって見えた。
「……無様だな」
(共にいる相手のことも考えられないとは)
そうして自嘲気味に苦笑すれば、少しだけ眉間の皺も和らいだ気がした。
少しだけ心に余裕の出来たジグは追いついて来たシャナイアと肩を並べて歩く。
今度は足並みが崩れることはなかった。
部屋には誰もいない。魔術や魔具で聞き耳を立てられている様子もない。
シアーシャは重要区域を護っている関係上、いつも遅めに帰ってくる。普段ならばそれを待っているのだが、今はそれよりも優先しなければいけないことがある。
「それでぇ……話って何かな? もしかして、あの小娘を捨ててボクを選んでくれるとか」
ふわりと窓枠へ腰かけた彼女がしなを作ってジグを流し見た。
寒気が走るほどの美貌と深く吸い込まれるような金の瞳が向けられた。魔性を帯びたそれらは男一人を狂わせるのに十分な魅力を持っている。完璧と言える造形は魔女の持つ特性を無視した上でも十分に有効だ。
しかし返ってくるのは冷たい言葉と有無を言わさぬ詰問だけだった。
「魔女の侵食について、知りうる限りのことを教えろ」
端的に言えば今のジグはそれどころではない。
いかに好色な人物でも自分が自分でなくなるかもしれないという恐怖を突きつけられれば、どれほどの美女がいたとしても反応している場合ではないだろう。
「……ちぇー。ま、そんなことだろうと思ったけどさ」
シャナイアは詰まらなそうに口を尖らせると、肩を竦めて足をぶらぶらさせ始めた。
本人も今更ジグが靡くとは思っていなかったためか、口ぶりほどには残念そうではない。
彼女は指で毛先を弄りながら何事か考えた後、面白いことを思いついたとでも言いたげな顔をした。
「侵食のこと、教えてあげてもいいけどぉ……条件があるね」
「……お前が条件などと言える立場か? 悪いが今は冗談に付き合う余裕はない」
意味深な口調で上目遣いをする彼女に、ジグの眉間がぴくりと動いて視線が剣呑さを増した。
今にも剣を抜きそうな空気にシャナイアの顔が引きつり、視線から逃れるようにのけ反る。
「だっ、や、待って、待ってよぉ! 大したことじゃないからぁ……ちょっとだけ、質問に答えてる間だけでいいからぁ……」
その剣幕に押されるようにのけ反りつつ、それでも彼女は要求だけは取り下げなかった。
怪訝そうな顔のジグへおずおずと差し出される手に握られているのは一つの刷子。
先日使った備え付けの物とは違う。新しく購入されたらしいそれは上等な木材で作られており、毛の部分は随分と滑らかだ。馬や猪とも違う質感のそれは、おそらく魔獣の毛で作られた物なのだろう。
シャナイアは個人的な借金奴隷のような扱いなので、ギルドから彼女へ給金は払われていない。食堂の利用権だけは交渉して許可をもらっているが、彼女が自由にできる金はジグが渡している小遣い程度のはずだ。こんなものを買う金はないはずだが。
「一応言っておくけど、盗んでないよ。貯めて買ったのさ」
意外な発言だ。
刹那的とまでは言わないが、甘いものに執着を見せていた彼女のことだから、もらった金は全て使い切っていると思っていた。まさか我慢してまでこの刷子を買っていたとは。
「えっとぉ……」
シャナイアは言い辛い、というよりも何と言っていいのか迷うように口籠っている。
これも見覚えのある光景だ。
誰かに何かを頼むということの経験が少ない者が、他人にして欲しいことを伝えるために言葉を選んでいる……そんな逡巡が見て取れる。
いつかの彼女を思い出すシャナイアの様子に、真実を知りたいという欲求よりも、それを邪魔してはいけないという感情が少しだけ上回った。
「話す代わり、に……じゃなくてぇ―――話している間だけでいいから……か、髪を梳いてくれないかい?」
少しだけ上ずった声で、いつもの間延びした口調も鳴りを潜めて。
普段の余裕ぶった態度もないその願いからは、言葉にできない彼女の誠意のようなものを感じた。
己のことで余裕を失いかけていたジグは一つ息をつくと、震える手に握られた真新しい刷子を受け取る。軽く自分の手で毛先の感触を確かめると、寝台に腰かけて彼女の方を見た。
「……引き延ばしは認めんぞ」
言いながらこの前のように股の間を手で叩いてやると、彼女は窓枠から飛び降りていそいそと小走りに駆け寄ってくる。
他人に髪を梳いてもらうのはそんなにも気持ちのいいことなのだろうか。短髪のジグには良く分からないが、自分でやるよりもやり易い以上の感想があるとは思えなかった。
だがそれは知らないだけで、きっとあるのだろう。
寝台が揺れる程の勢いでジグの股座に腰を下ろして期待に髪を揺らす彼女には、そう思わせるほどの説得力があった。
「もちろんさ! その代わり、手抜きも認めないけどね?」