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「はい、終わりました」
肩をぺちんと叩かれる音に意識を戻す。話をしている間に針毛を抜き終えたセツが消毒と治療を済ませていた。傷口は粗方塞がっており、血を拭き取ってしまえばほとんど跡も残っていない。毎度感じてはいるが、魔術というやつは本当に便利だ。匂いを嗅ぎとれる程度では割に合わないと思わせるくらいに。
「助かった……手当上手いな?」
やってもらっている身でこう言っては何だが、ミリーナよりも大分手際が良い。
褒められたセツは曖昧に笑うと、相方をちらりと見てため息をついた。
「ミリーナがよく怪我しますので、慣れてしまいました」
「そう、アタシのおかげ」
「あなたのせいです」
胸を張るミリーナへジト目を向けるセツ。これで仲がいいのだから性格の相性とは分からないものだ。
そして男は完全に無視される形となってしまった。文字通り意識すらされていないことに気づき、屈辱と怒りに拳と声を震わせている。
「おい! 話はまだ終わって……」
「いいや、終わりだ」
言い募ろうとした男を押しのけて大柄な影が割り込む。
またしても邪魔をされた彼は我慢の限界とばかりに額に青筋を浮かべて振り返るが、見上げる程の体格に口を半開きにして文句が引っ込んだ。
「話の邪魔しちゃ悪いと思って待ってたんだが、どうにも埒が明かねぇみたいだからよ。先に譲っちゃくれねぇか? 冒険者さんよ」
灰色の毛皮に覆われた体と手指から鋭利な爪を生やした亜人……バルジがにっかりと笑って男の肩に手を置いた。ずらりと並んだ牙はよく手入れがされており白く美しいが、獲物の喉笛を食い千切る凶器でもある。
「え……あ、っと……おう」
「そか。悪いな、仕事の話でよ。あんたら冒険者には感謝してるんだぜ?」
言いながらバルジが肩に置いた手に少し力を入れる。仮にも冒険者である男の服にはその程度では孔は開かない。だがバルジの怪力と鋭い爪は服越しでも少なくない圧迫感を与えられる。
無言で首を縦に振る男に満足そうに頷いたバルジが手を放す。男はさっきまでの威勢をすっかりと失わせて猫背のまま足早に去って行った。牙と爪を活かした、実に見事な交渉術である。
「ったくよぉ……弱い奴ほどよく吠えるってのはどこでも変わんねぇな」
男が見えなくなった辺りで顔を顰めたバルジが吐き捨てる。
彼は後頭部をぼりぼりと掻きながら歩み寄ると、断りもなくどっかりと正面に座り込んだ。
余談だがウルバスたち蜥蜴型亜人が椅子を横向きにして座るのと違い、バルジやレナードのような動物型亜人は股の間から尻尾を覗かせるので普通に座る。これは尻尾の可動範囲や股関節の構造的問題によるものだと思われる。なお股座から尻尾を覗かせるために全員股を開いて座るのだが、女性の動物型亜人がどう座るのかは不明だ。
「手間を掛けたな」
「いいけどよ、お前もお前だぜ? あんなチンピラ一匹ぐらい適当に脅して追っ払えよ。俺よかよっぽどおっかない顔してるんだからよ。なあ?」
失礼な言い草で二人に同意を求め、返答も待たずに懐から葉巻を取り出す。火を点けるとどこかスパイシーさのある香りが立ち込める。売る側だけあって薬ではないらしく、ただの上等な葉巻だ。
セツはどこか冷たさを感じる微笑みをしたままバルジの言葉に同意する。
「そうですね……確かに顔も怖いし、中身はそれ以上に恐ろしい人ですが―――」
言葉途中、小さな風切り音と共に煙が断ち切られ、それ以上葉巻から煙が出ることはなかった。
「……お?」
バルジの咥えている葉巻の先、火のついた部分が綺麗になくなっている。
「女性のいる場で不快な臭いを撒き散らさないだけの分別はありますよ?」
いつの間にか抜かれたサーベルの腹。その上に斬り落とされた葉巻の先端が乗っていた。
「そうそう、臭いの禁止」
煙を上げるそれに髪を揺らしたミリーナが指先を押し当てると、一気に燃え上がる。
「……」
バルジの助けを求めるような視線を向けられたジグが無言で肩を竦め、周囲を見ろと顎をしゃくる。
別にこの屋敷は禁煙という訳ではないしジグも葉巻や煙草くらいで文句を言うつもりはないが、この世はいつだって多数決だ。数の多い意見が優遇され、少数派は淘汰されるか肩身の狭い思いをするのが世の常である。気づけば受付にいるシアンや他の女性冒険者がバルジに対して厳しい目を向けていた。
味方が誰もいないことを理解したバルジはどこか情けない顔で先端の無くなった葉巻をぴこぴこと上下に動かす。
「……最近の女はおっかねぇ」
「……よく知っている。身を以ってな」
男二人、種の枠を越えて分かり合えた瞬間であった。
「それで、仕事の話だったか?」
「おう、そうだったそうだった」
気を取り直してジグが話を促す。
少しだけ尻尾をしゅんとさせたバルジは葉巻を仕舞いながら身を乗り出した。大柄で体格もいい二人がそうやって顔を突き合わせているとかなり迫力がある。
「うわ、物騒な絵面……」
「……」
”葉巻くらいでサーベル抜く娘に言われたくはない”とバルジが目線で訴えていたが、話が進まないので無視して二人を見た。
「聞かせてもいいのか?」
「あ? あー……まあ注意喚起も兼ねてるからいいか」
口寂しいのか棒状の物を咥えながらバルジが曖昧に首肯する。香木の類かもしれない。
わざわざマフィアが傭兵に持ってくるのであまり表に出せない依頼かとも思ったのだが、どうやらそうでもないらしい。しかしこの状況でジグに頼む辺り穏便な依頼とも言い難いのは間違いない。
「ここ最近、街の人間を殺し回っている奴がいる」
懐から出した書類をバルジが机に放った。数枚のリストには主要な死亡者と所属している組織の名前ごとにまとめられていた。
ジグの脳裏を過るのは昨日街で出会った老婆の言葉。バルジの持ってきた依頼と合致しているのは偶然ではなさそうだ。
「確か、標的はマフィアの人間が多いんだったか?」
「お、流石に耳が早えな。……どこのどいつかは分からんが、札付きの外道ばかりを標的にしているのが居る」
鼻息に不満を滲ませてバルジが牙を剥いた。
今や実質的にストリゴを取りまとめているのはファミリアと言っていい。彼らにとって自分たちの縄張りで好き勝手されるのは我慢がならないようだ。
だが、それにしては少し反応が穏便すぎる気もする。もし彼らが仲間をやられたならば悠長に傭兵へ依頼を頼んでいる場合ではないはず。仲間を殺されて安穏としているような組織は舐められ、反旗を翻す輩も出る。だというのに、随分と対応が温い。
「ファミリアから犠牲者は出たのか?」
もしやと思い尋ねてみると、バルジは苦々しい顔で首を振った。
「……それが一人も出ていない。どころか俺たちに敵対しているか、目を離せない糞野郎ばかり被害に遭ってる。おかげでこっちはいつ野郎どもが徒党組んで攻め込んで来やしねぇかと気が気じゃねぇぜ」
確かにやられている側からすればファミリアが敵性勢力を排除しているようにしか見えない。やられる前にやれと手を組んで攻めてくる可能性も馬鹿にはできなかった。
「……ま、実際にそういう動きはあったみてぇだが……それすらも察知して始末されちまったよ」
「相当慣れている。躊躇いも感じられない……冒険者ではないな」
イサナ程の実力者であれば悟られずにマフィアを撫で斬りにすることは可能だ。しかし人殺しとは一般的に忌避されるもの。もちろん金のためならば虐殺を厭わない者はいるだろうが、今回の殺しはあまり金にならない……とまでは言わないが、効率的に稼ぐ手段はもっとあるはずだ。
誰かしらの指示で殺しているか、あるいは復讐などの個人的な理由か。
「俺も冒険者とはちょいと感じが違うと思ってな。最初はお前がオヤジからこっそり依頼でも受けているのかとも考えたんだけどよ。邪魔な野郎を皆殺しにしてくれって」
「……内容と報酬次第では受けないこともないがな。今は防衛の仕事もあるし時間のかかる依頼は受けられん」
「だよなぁ……いくらお前でも物理的に時間が足りんわな」
ソファに背を預けたバルジが香木を噛みながらジグへ爪先を向けた。
「つうわけで、調べてくんね?」
「……なぜ俺に頼む。こういうのは情報屋の、それこそお前たちの領分だろう。レナードにでもやらせろ」
「まあその通りなんだが……なんとなく今回はヤバイって俺の勘が言ってる。あのバカは逃げ足だけは一級品だが、何事にも例外はある」
バルジはその”例外”の目を見ながら香木をがりりと噛んだ。
何も言わずにその目を見返すジグに苦笑した彼は腰に下げた袋を机に置く。ズシリと重たい音を立てたそれの口を開き、中の金貨を見せてからジグの前へ押し出す。
「それとシアン嬢ちゃんにおすすめされてね。厄介ごとを探すことにかけちゃ、お前の右に出る者はいないってな」