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なんなのだろうか、この状況は。
ジグは刷子を片手に今日何度目か分からないため息を飲み込んだ。
とても休日とは思えない一日を過ごしてきて帰ればこの惨状。
案の定というべきか。部屋では魔女二人が睨み合っており、滾る魔力が入る前から感じ取れるほどであった。
だがまあ、それはいい。
本当にやり合う気だったのならばとうに屋敷は無くなっている。ジグがいくら止めたところで意味はないし、非力な人間の身では殺せこそすれ止められるはずもない。お互い不干渉を選ぶと思っていたから同じ部屋にいたのは予想外だったが。
そして今。どういう経緯があったのかは知らないが、目の前では必死に威嚇している魔女が一人。
「かーーーっ!」
部屋の隅で身をちぢこまらせ、ジグの背嚢にしがみついている推定年齢数百歳児。
容姿が良いのは得なことだなと、現実逃避染みたどうでもいいことを考える。
たとえ野生児を思わせる瞳孔の開いた目で威嚇していても、彼女がやっているとそこそこ絵になる。これを並の人間がやっていれば男女問わず気狂い扱い間違いなしだ。
背嚢に爪を立てるのはやめて欲しいが。
「……」
彼女を前にジグは困り果てていた。
いかに見た目が良かろうと魔女は魔女。扱い方を誤れば命に関わる危険な生物であることに違いはない。この距離であればシャナイアが何かする前に殺すことは容易だが、現在彼女は違約金代わりにこき使っている便利な戦力でもある。依頼をこなすうえで必要な人材な上に彼女にはまだ聞きたいことがあるため、無暗に殺すのは得策ではない。
それに今日は色々と考えることが多かったため、気疲れしてしまったのだ。戦地でただ敵を斬っている方が余程楽だったと思うくらいに、今の状況は面倒であった。
シアーシャに何の意図があってこの刷子を渡したのかは分からない。”あとはお任せしますね”と言い残して去って行った彼女は普段の様子とは少し違ったが、それが何を意味しているのか読み取れるほどジグは女心に聡くない。
刷子の使い道などそう多くはない。
だから何をすればいいのかは分かる、分かるが……こうも警戒する相手へ強引に手を出すのが得策とはとても思えなかった。
「はぁ……」
疲労は思考を鈍らせる。それが理解しがたいどうでもいい問題ならばなおのこと。
全てが面倒になったジグは飲み込んでいたため息を吐き出すと、威嚇するシャナイアを無視して踵を返す。
外套を脱いで雑に寝台へ放ると重い音がした。耐熱・防刃性のある魔獣の素材で作られた外套は性能を考慮すれば軽いが、羽のようにとはいかない。ジグの身長込みで並の外套より余程重かった。
ドスンという音に過敏になっていたシャナイアが驚いて身を竦ませるが、ジグはそれに構わず次々に装備を外していく。
すぐに手にできるよう双刃剣を枕元に立て掛け、自然な仕草で枕の下にナイフを仕込んだ。腰の後ろに予備のナイフを挿し、外したグローブは少し悩んでから鼻を近づける。微妙な顔をした後、水差しから桶に注いで放り込んでおく。
「ふぅ」
手甲、脚甲、胸鎧の順に外し、ようやく身軽になったジグが寝台に座り込む。
勢いよく腰を下ろしたジグの体重に寝台が抗議の悲鳴を上げるが、マフィア御用達のそれは高級なので多少手荒に扱っても問題ない。
その間、背嚢にしがみついているシャナイアは完全に無視だ。
警戒からかジグの動きを凝視している彼女へ一瞥もくれずに寝る準備を済ませると、あろうことかそのまま目を閉じた。
ジグは他人が近くにいると深く眠らない。傭兵団にいた時の仲間やシアーシャ相手は流石に慣れたが、それでも本当に深い眠りにつくことは稀だ。必要に駆られて幼少の頃に覚え、傭兵の頃にそう育てられた。
それは裏を返せば、誰が近くにいても浅い眠りにつくことは可能だということ。
どんな状況であろうと……悲鳴と剣戟が響き、血と矢が飛び交う戦場であろうと、必要であれば眠れる。必要な時に眠れないことは弱いことだと、そう教え込まれてきた。
その生き方はたとえ魔女相手であろうと変わることはない。
「……うそぉ」
良く言えば剛胆、悪く言えば無神経な振る舞いにシャナイアが警戒を解いて思わずこぼした。
そろりそろりと背嚢から離れた彼女は四つん這いのままゆっくりと近づいた。
ジグは腕を組んで座ったまま目を閉じている。死んでいるかと思うほどに身動き一つとらない静かさだが、耳を澄ますと規則正しい寝息が聞こえるので生きているのだろう。
「……」
あれだけ存在感のある大男がこうまで静かなことに興味を惹かれたのか、シャナイアがもう少しだけ近づいた。あの恐ろしい傭兵がどのような寝顔をするのだろうかという、わずかばかりの好奇心を満たすために。
そっと、音を立てぬように身を屈めて彼の顔を覗き込むと―――眼が合った。
「びゃっ!!!?」
驚いて奇妙な音を発したシャナイアは大きく飛び退き、またも部屋の隅へ。
背嚢を盾にして身を隠しながらもさついた髪を覗かせている彼女を見て、ジグは面倒さを感じながら頬杖をついて指で膝を叩いた。
彼女の行動原理が理解できない。
わざわざ隙を見せてやったというのに、何故この魔女は部屋から出て行かないのか。
ジグは背嚢の影から見え隠れする金眼を追いかけると、その視線の先にある物に気づく。
そこにあるのは先ほどシアーシャに渡された刷子であった。彼女の目は適当に放っておいたそれをちらちらと盗み見ていた。
「……」
ジグは無言で刷子を手に取った。すると彼女の視線は吸い寄せられるように手元へ。
左右に振ってもついてくる金の瞳は猫を思わせる仕草だ。その危険性にさえ目を瞑れば、だが。
「……おい」
ジグは驚かせないようになるべくゆっくりと声を掛けると、股座をポンポンと手で叩く。
これに反応しないのならばもうどうにでもなればいい。部屋から放り出して寝る……口にも態度にも出さないが、そんな決意すらしながら。
「―――」
どうでもいい……いやむしろ反応しないでいてくれた方が早く寝れる。
そんな心持ちでいたジグの期待を裏切る形で事態は動いた。
ゆっくりと、背嚢の影からシャナイアが姿を現す。
未だ目には警戒の色が濃く残ってはいたが、それ以上の好奇に負けていた。
彼女は眼を逸らさぬままとてとて近づき、おもむろにぽんと腰を下ろした。
どこか怯えのような気配が見え隠れしているのは、一度ジグが彼女の首へ手を掛けたことのある経験故だろう。この距離、この位置関係ならば、ジグはまさしく赤子を捻るように自分を殺せると……そう理解しているからこその怯え。
それでもこうして無防備に背中を見せているのは、ジグが意味もなくそうする人間ではないと信用してのことだ。もっともジグからすればどうでもいいことだが。
ジグは刷子を滑らせ、紫紺の髪を梳いた。
初めは道具や毛質の違いに自分が慣れるため、何よりシャナイアの緊張を解すためにゆっくりと。
指に伝わる感覚はシアーシャの物とも違う、ふわりとした上質な木綿を思わせる肌触りだ。
相変わらず劣悪な環境にいたというのに艶やかな髪質だ。やはりこれは魔女という種の特性なのかもしれない。
「……む」
そんなことを考えながら髪を梳いていると、異物が指に触れたのを摘まむ。
いかに魔女の髪が美しくとも、物理的な要因までは排除できるはずもない。シャナイアの長くボリュームがある髪はしゃがんだ際に床のゴミを引っ付けていた。
ジグは職業柄か潔癖とは程遠い性格だが、自身の役割という意味では拘る傾向がある。ここ最近シアーシャの髪を梳くのが日課になっている彼にとって、髪にゴミがついているというのは見逃せない点となっていた。本人は無意識だが。
刷子で梳くと埃がばらけてしまいそうなので、髪を手繰って丁寧に取り除く。
そうして梳いてやる内にジグの手つきが慣れたものになっていく。
シャナイアは癖毛なので、まず引っ張らぬよう手櫛で絡んだ髪を解いてやる。上から下へ。髪の内側に流れに沿って指を通し、それから刷子で優しく梳いてやると綺麗にまとまるのだ。
「…………はぁ」
肺に詰まっていたものが取れた……聞いた者がそんな感想を抱くような深いため息。
いつの間にか緊張していたシャナイアの肩から力が抜けていた。怯えるように震えていた気配は露と消え、脱力した体が手の動きに合わせて揺れている。
あれだけ警戒していたくせに、何とも現金なものだ。
女性にとって髪を触らせることは特別な意味を持つと、かつて先輩傭兵は言っていた。
その言葉の真偽はもう確かめようがないが、今思えば娼館の女たちも髪の手入れに気を遣い、大事にしていたように思える。時に乱暴に扱う男を冷ややかな目で見ていたこともあった。
「……ねぇ、ちょっと」
「む、すまん」
不満気な声と共にシャナイアが肩越しにこちらを見上げている。
手は変わらず動いているにもかかわらず、咎めるような口ぶりと視線。つまり彼女が言葉にせず訴えているのは、”他の女のことを考えながらやるな”だ。
ジグは素直に謝ると、紫紺のうねりを整えることに意識を向ける。
何故考えていることが分かるのかについて疑問を感じたこともある。
しかし結局のところ、男の考えていることなど女性からしてみればお見通しなのだろう。
お待たせしました。長期休暇前は忙しくて……




