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氷が溶けて薄まってしまった麦酒を飲み干す。
味の良く分からなくなった酒を苦い気持ちで空にして杯を机に置くと、残った氷がカランと乾いた音を立てた。
「……」
澄人教の司祭たちは亜人を穢れた存在だと認識していなかった。信徒たちへの裏切りにも等しい暴露だが、往々にして扇動する側にとって大義や教えとはそんなものなのかもしれない。
ただあれだけ声高に罪人だと断じておきながら、その中心人物たちはまるでそれを信じていないというのはなんたる皮肉か。
しかし一つ疑問は残る。
司祭たちが亜人を罪人でないと判断する理由は何だろうか。単純に怪しげな言い伝えなど信ずるに値しないと考えている可能性はあるが、それならばもっと意見がバラつくはずだ。十人十色とまでは言わないが、揃いも揃って誰も信じていないということは考えにくい。
何かがあるのだ。司祭たちが信じないと確信するだけの何かが。
「司祭共が信じない、その根拠はなんだ?」
判断するには手持ちの情報が足りなさ過ぎる。答えを知っているであろうレアヴェルへ求めると、彼女はなんとも呆気ない口調で悍ましい答えを返してくれた。
「簡単です―――実際に交わらせたのですよ。人と獣を」
「……あ?」
周囲の音がどこか遠くに聞こえるような感覚に陥った。
だというのに、レアヴェルの声と自分が唾を飲み込む音だけが妙に頭に響く。
「私が入信するより随分昔に、祖先の教えに疑問を持った大司祭がいたそうです。祖の教えは実に理知的で私たちをよく導いてくれるというのに、亜人に対する教えだけは妙に感情的かつ、合理性に欠いているのではないかと。……とりわけ熱心な信徒だからこそ、その矛盾に気づけたのかもしれませんね」
ジグも様々な修羅場を潜ってきた。大抵のことには驚かないし、悲惨な戦場も見てきた。
常人では考えられないような理由で人を惨殺する者、快楽のために人を殺す者、溜まった欲を死体で晴らす者。
「その大司祭は研究者気質だったようで、祖先のことで一度疑問を覚えると試さずにはいられませんでした。検証のために男女の罪人を用意し、様々な獣と交わらせてその結果をまとめたのです。実際にいる狼などの亜人に類する獣だけでなく、捕えられる限りの獣……果ては蟲や魔獣まで。様々な人以外の種と交配させ、実際に亜人が生まれるかを試しました」
だが司祭たちの行いはそれらともまた質の違った悍ましさを感じる。
過酷な環境で剥き出しになった本能や、追い詰められた果てに狂気へ至った凶行ではない。
真実を確かめるという、ある種どこまでも純粋かつ冷静な思いを感じ取れるが故に。
「結果は全滅。母体がどちらの場合においても、人と獣から亜人が生まれることはありませんでした。精々が人の腹を苗床にした蟲が生まれた程度です。……これではとても教えが正しいとは言えません」
ただ盲目的に敬うのではなく、その真意を読み取るための行動……そう表現すれば聞こえはいいが、これでは体のいい人体実験だ。それも成功する見込みすらない、ただの疑念を裏付けるためのどこまでも身勝手なもの。
「その時、彼は亜人が罪人でないことを理解したのです。耳を覆うような罪を犯した人であろうと、慎ましく暮らす真人間であろうと、結果は変わりませんでした」
乾いた木の弾けるような音が手元から聞こえた。
無意識に力の入った手は空の杯を粉々に握り潰し、それでも足りぬとばかりに残骸を木屑へと変えている。
「……下衆共が」
民間人を巻き込んで行われた狂った検証に、ジグらしくもない直球の罵倒が自然とこぼれた。
自分が傭兵という人の道から外れた行いをしてきたのは自覚している。だがその傭兵から見ても彼らの行為をそう評する以外にできないと、そう感じた。
淡々と語り続けていたレアヴェルはそこでやっと溜息をついて残りの酒を飲み干した。どこかヤケになったような様子の見える仕草は、彼女が意識して感情を乗せずにいたのだと読み取れる。
「ええ、同感ですよ。もっと長い歴史の観点で見れば、亜人が罪人でないことを証明した偉人にも成り得たのでしょうけど……天才って皆こうなのかな? 兄もそうですけど、頭おかしい人ばかりで嫌になりますね……ああ、もう面倒なんで瓶ごといただけますか?」
嫌なことを語り終えたレアヴェルは杯を掲げて酒のお代わりを要求すると、肩を落として嘆息する。
「話が大分逸れてしまいましたね……病的なまでに教義を重んじる兄にとって、過去の大罪人と同じ過ちを犯した者は誰であれ赦罰の対象です。行為が露呈したその日のうちに兄は大司祭を処理し、誑かした亜人の娘も同様に始末しました」
しかしいくら免罪官とはいえ、大司祭をも手に掛けてしまったことには問題があった。
一定以上の地位がある者ならば大なり小なり似たような後ろ暗いところがある。ヤサエルにとって彼らは地位を斟酌せず容赦なく処罰する対象たり得るのだと、そう理解してしまった。
「初めは秘密裏に兄を消そうと動いたみたいですが……全て失敗に終わりました。表も裏も、隙のない男でしたから」
直接ヤサエルを始末することはできない。ならば正式な命令として遠くに置くしかない。
問題の解決にはならないが、喫緊の脅威は遠ざけられる。
「大司祭たちですら手を焼いた兄を、田舎街のマフィアや冒険者風情にどうこうできるはずはありません」
言いながら葡萄酒を杯に注ぎ、まだ中身の残った酒瓶をジグの前に滑らせる。
大きな一口を呷り、身を乗り出したレアヴェルには酒の場で盛り上がる話を要求する面倒な輩の気配すら感じさせる。
「正直なことを言わせてもらえば、あなたでも勝てるかは疑問です。ですがこの街で見てきた冒険者の中で、兄に届く可能性があるのはあなた以外には居ませんでしたから。消去法とはそういう意味です」
評価しているのだかしていないのだか、よく分からない賛辞を聞き流して酒瓶に手を伸ばした。
今度ははずみで握り割ってしまわぬように。
実際のところ、どう弁解してもあまり意味はないように思えた。レアヴェルはジグがやったと確信しており、それは澄人教の不祥事を伝えてまでも確かめたいことなのだと示して見せた。
思うところがないという内心を暴く眼力などジグにはない。
だがあれだけの男を兄に持ち、また自らも並みならぬ実力を得ている彼女が何を考え、そして澄人教の真実を知りながらなぜまだそこに属し続けるのか。興味がないと言えば嘘になる。
……近頃、物事の判断基準に興味という枠が増えたような気がする。それが年を経たことによる余裕なのか、これまで生き残り続けてきた慢心なのか、あるいは様々な経験をしたが故の好奇心なのか。
酒瓶を呷り、答えの出ない疑問を酒と共に腹の底に流し込んだ。
「好きにしろ。だが、そうだな……お前からの質問に答える代わりに、俺からも聞きたいことがある」
明確な返答ではない。だが否定もないその答えに、レアヴェルは微笑んで杯をこちらに差し出した。
「いいでしょう、それが対等というものです」
「いち傭兵風情が免罪官様に対等と言われてもな」
ジグは冗談交じりに返すと、彼女の杯に酒瓶を合わせた。
申し訳ない……文章コピペしようとしたら間違えて文章半分ぶっ飛んでました……
それもこれも友人が読者さんに紛れて私のXを監視しているせいなんだ! ゆるせねぇ!




