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杯に満たされた褐色の液体に浮かぶ氷。子供の拳大ほどあるそれは溶けた水と酒の層を作りながら冷やしている。円を描くように軽く杯を揺すって薄まった部分を攪拌すると、良く冷えた麦酒を呷った。
喉を通る冷たい感覚と弱めの酒精が何とも心地いい。
楽しみにしていた久しぶりの味に、油断して思わず声が漏れてしまいそうになるのを飲み込む。
「悪かった。てっきり悪戯か何かかと思ってな」
一息ついたところで杯を軽く上げて氷の礼をする。
辻斬りならぬ辻氷をしてくれた人物……レアヴェルは困ったように頬を掻いた。
「ああいえ、迂闊な行動で無用に警戒をさせてしまって申し訳ありません。……まさかこの程度の魔術に気づかれるとは思ってもいなかったので」
彼女はそう言って感心と呆れが半分ずつ混ざった曖昧な笑みを浮かべた。
この大陸の人間にとって魔力のある生活とは身近なものだ。自身の体を流れている血液のようなものである。だから小さな氷を生成する魔術程度であれば気付く方がどうかしている……らしい。
「勘が良くてな」
魔術など見たこともない場所から来たジグからすれば、大小の問題ではなく魔力自体が異質な存在なのだから気づいて当然なのだが。いつ敵対するかも分からない相手にこちらの手札を教えるつもりがないジグは適当に誤魔化した。
「勘ですか……そういう事にしておきましょう。あなたの反応が良かったおかげで酒をかぶらずに済んだことですし」
誤魔化されていることには気づいているが、戦う人間である彼女も深くは追及しなかった。まさか他の大陸から来た人間だとは思ってもいないだろうが。
「それで……何が聞きたい」
杯を置いたジグは傍らの双刃剣を意識し、また意識していることを相手に伝えるように視線をやる。
やるのならば相手になるぞと、言外に告げている。
彼女にとってジグは身内を殺した仇だ。どうあっても物騒な関係は避けられない。表面上の穏やかなやり取りは内に滾る激情を制するためかもしれないし、冷静にこちらの隙を窺っているだけかもしれない。
自然な笑みを浮かべたままのレアヴェルと視線が交わる。
張り詰めた空気などないごく普通のやり取りは、それだけ両者が命のやり取りに慣れていることの証左でもある。
そんな戦士同士の前哨戦ともいえる視線を、彼女の方から逸らした。
「すみません、葡萄酒を……強いので」
カウンターへ顔を向け、軽く手を挙げて酒を頼む。
ともすれば喧騒にかき消されてしまいそうな澄んだ声は、しかし風の魔術を上手く活用して店主の元へと届いた。少し驚いたような顔でこちらを見た店主は、にっこりと微笑むレアヴェルにだらしなく顔を緩ませてから頷いた。
「……まず、先に誤解を解いておきましょうか」
視線をこちらに戻した彼女の顔は作った笑みを消した無表情へと戻っている。
褐色の瞳はジグに対して何かを取り繕うような色は感じられず、どちらかと言えば興味……負の感情を感じさせないものであった。
「私は兄のことで、あなたに対して何ら思うところはありません。そうですね……しいて言うのならば、あの男に勝った人がどんな人物なのか……それを知りたいと思って、こうして接触しています」
向けられるのは好奇の視線。
彼女がわずかに身を乗り出し、体で押されたテーブルが小さく音を立てた。
「……さて、何のことを言っているのか分からないな」
レアヴェルの真意までは分からないが、ヤサエルを殺した証拠はほとんど手に入らないはずだ。
ハリアンの教会周辺がマフィアの縄張りとなっている現在、澄人教が調べてもそうそうまともな情報など手に入らず、知り合いの冒険者は腕利きばかりでちょっとやそっとでは口を割るのは難しい。
彼らがストリゴに来てからまだそこまでの時間は経っていない。ヤサエルの死を調べるだけならばともかく、誰がやったのかまでは手が回るはずがない。
だというのに、なぜこの免罪官はジグがやったと確信しているのだろうか。
ハッタリだとかカマを掛けているような素振りはまるで感じず、ただ事実のみを確認しに来た……彼女の振る舞いからはそう感じられた。
エルシアのような眼を持っているのかとも思ったが、魔術が使用された気配はない。
「お察しの通り、あなたが殺ったという証拠は何もありません。ただの消去法です」
「……消去法?」
ジグの疑問に答えるより先になみなみと注がれた葡萄酒が運ばれてきた。
気前よく杯を持ってきた店主がレアヴェルに満面の笑みで酒を渡し、ジグに舌打ちをして戻っていく。酷いとばっちりだが、シアーシャと共にいればこんなことは日常茶飯事なので気にもならない。
両手で杯を抱えたレアヴェルはグイッと勢いよく傾け、一気に半分ほどを流し込む。
豪快な飲みっぷりに他の客から歓声が上がり、反対に図体のでかいくせに麦酒を少しずつ飲むジグへ嘲笑の目が向けられた。
「ふぅ……簡単に言いますと、田舎街程度にあの男を止められる者など居ないということです。私も免罪官だなどと持ち上げられてはいますし、自分の実力と経験には相応の自負もありますが……そんな私の目から見ても、アレは紛れもない化け物ですよ」
ほんのりと頬を赤く染めたレアヴェルは赤紫の湖面に視線を落としてそう口にした。
「……兄とは一回りほど歳が離れていましてね。私が僧兵になった時には、もう免罪官として頭角を現していました」
最年少で免罪官の栄誉を賜ったヤサエルは周囲の期待を大きく上回る成果を上げ続けた。
重犯罪で指名手配され高額の賞金を掛けられるほどの亜人を次々に赦し、同じ免罪官すら屠ってきた強者をも単身で降した。
それでいて自身の立場に驕ることなく、誰よりも教えに忠実であった。
清貧を守り、罪を犯さず、祖先を称えた。
免罪官の職務は罪を犯した亜人と向き合い続ける性質上、自然と彼らを見る目は厳しくなりがちだ。しかしヤサエルは罪を償う亜人に対しては寛容を以って応じ、無用な迫害をこそ罰した。
戒律に厳しく、人望と実力を伴った傑物。
教えに対してどこまでも実直なヤサエルは、しかし今の澄人教では受け止めきれなかった。
教えを都合の良い様に拡大解釈して自らの私腹を肥やし、権力闘争に明け暮れる生臭坊主共にとって、融通が利かない上に人望と実力と実績のあるヤサエルは相当に目障りだったことだろう。
だが有能ではある。人を集める広告塔としても申し分ない。
汚職さえ知られなければいいのだ。免罪官の持つ権威は小さくはないが、それはあくまでも実務関係の物。細かい帳簿や取引等に口を出すような力はほとんどない。
高僧たちは表面だけヤサエルを褒め称えながらも、裏ではこれまで通りの醜い稼ぎや暗闘を繰り返し続けた。実際、それだけならばヤサエルが気づくことはなかっただろう。
事が起きたのは、数年前のことだった。
「大司祭の一人が、ある亜人を手籠めにしました」
レアヴェルが嫌悪感を滲ませた顔で口にした言葉に、ジグは思わず動きを止めてしまった。
強姦自体に驚いたわけではない。宗教に限らず、一定の規模を持つ思想を持った団体ではよくあることだ。だから止まってしまったのは別の要因だ。
確か、彼らの教義では……
「大昔に大罪人が獣と交わり、その結果生まれたのが亜人。大罪人が源流となる亜人は生まれた時から穢れている……そう、聞いていたが?」
それが澄人教の教義であり、亜人たちを罪人であると断じる理由。
その罪人と交わることがどれだけ忌避されている非常識な行いであるかは、わざわざ口にするまでもないはず。
掲げる教義の大本とも言える教えだ。たとえ腐敗しているとはいえ、自分たちの重んじる戒律を根本から否定するような行動をとるなど考えにくいはずだが。
「……まずは、そこからですね」
ジグの様子を見たレアヴェルが重苦しい溜息をついた。
こちらの持っている認識が現実から大分ズレていると理解した……そんな口調だ。
「私たちの教えを……ほとんどの一般人や信徒、僧兵たちを除いた司祭たちは―――亜人を不浄の大罪人だと信じていません」




