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判断を委ねられたシアーシャは、しかし迷わなかった。
「私は……最後までやり遂げたいです」
はっきりと、自分の意思で彼女はそう口にした。
昔の彼女であれば逡巡を見せていただろう場面だ。あるいはジグの意見にただ頷き、内心では引っかかりを覚えつつもただ追従していたかもしれない。
しかし今、窓硝子越しに見えるシアーシャの眼には明確な意思があった。
「何故なら私は冒険者―――危険を冒す者、ですから。命を無駄にする気はありませんが、危なくなったくらいで退くつもりもありません」
そうすることが当然とでも言うように、シアーシャは自身の立場を口にした。
ジグが傭兵であり続けることに拘るのと同じように、利益や打算よりも自身が冒険者であることを優先した。
であるならば、ジグが言えることは何もない。
「……そうか」
ただの思考停止ではない。
自分で考え、自分で決めた。
その上での選択ならば、彼女の意思を尊重したい……そう思った。
「分かった。付き合おう」
「よろしくお願いしますね、私の傭兵」
不敵な笑みを浮かべるシアーシャは試すような口ぶりでジグに背を預ける。
いつの間にか随分と成長していたらしい。
この大陸に初めて来たときのことを思い出す。ギルドに登録するだけであれだけ狼狽えていた彼女を思うと、なんとも感慨深いものだ。
「……」
彼女の成長を目にし、それを嬉しいと感じている自分に気づく。
師が弟子の成長を見守るのは、きっとこういう気分なのかもしれない。
そうして髪を梳かし終える頃になると、シアーシャがうつらうつらと船をこぎ始めた。
「今日はもう休め。またあの化け物が来た時に疲れて動けないでは困る。奴にはお前の力が必要だ」
「はぃ……」
先ほどの勇ましさはどこへやら。呂律の怪しい彼女を抱えると、寝台に横たえて毛布を掛けてやる。
すぐに聞こえてくる寝息を起こさぬように離れ、後回しにしていた装備の手入れに取り掛かる。
油を馴染ませた布で丁寧に刀身を拭い、歪みや傷を確かめる。
あれだけ硬い物を立て続けに斬ったはずだが、やはり刀身に目立った異常は見当たらなかった。
異常事態にジグが声を出さずに唸る。
最初からこうだったのならばいい。イサナの刀など、高価な武器には自然修復機能とも呼ぶべき能力があるという話は聞いたことがある。
しかしこの武器を使い始めた頃は普通に傷がついていたのだ。そういった特性があるという話はガントやシェスカにも聞いていない。
便利だからと放置していたが、折を見て調べる必要がある。
武器の手入れを終えたジグは次にグローブを外した。
「……これもそろそろ弾切れか」
見間違いではないかと角度を変えて調べるが、結論は変わらず小さくため息をつく。
衝撃波を放つグローブに嵌められた魔石は大分色褪せており、素人目にもあまり保たないことが察せられる。もう二、三発は行けそうだが、いざという時に弾切れでしたでは洒落にならない。
一発何万もするような魔具を景気よく使ってきたが、元が取れたかというと微妙なところだ。
これがあったおかげで助かった場面もあったのだから、あまり贅沢を言っても仕方がない……そう自分に言い聞かせることで出費から目を背ける。
「……なんとまぁ、飼い馴らされちゃって。……魔女が人間に、ねぇ?」
誰に聞かせるでもない独り言。一人黙々と牙を研ぐ傭兵の背を、金の瞳が胡乱気に観察していた。寝台で横向きに寝転がったもう一人の魔女は納得がいかないとでも言いたげにジグを、そしてシアーシャへ不満気な視線を送っていた。
「飼った覚えはない」
ジグは挑発交じりの言葉を軽く流し、腰のナイフを抜いて刀身を指でなぞる。指先がわずかに引っかかった部分を軽く研ぎながら、静かに返した。
「ふぅん……じゃ、君が飼われているのかなぁ?」
反応の薄いジグへ揶揄するような口振りでシャナイアが目を細める。
ジグはその言葉に手を止め、少し考えるようにしてから口を開いた。
「……そうかもしれないな。依頼主の命令に従うだけの傭兵なぞ、飼われた犬と大差はない……いや、犬に失礼か」
そう言って自嘲気味に笑うと、研いだばかりのナイフを指の腹にあてる。よく研がれた刀身はさして力もいれずに薄皮を切り、一筋の赤い線を描いた。
金で主を選び、主の指示した敵を、あるいは主に危険を齎す存在を殺す。
犬と違うのは金の切れ目が縁の切れ目であり、仕事次第では元の主すら噛み殺す。金に仕え、金に従い、金のために生きる。
慣らされているかはともかく、傭兵以上に飼われるという言葉が似合う者もいまい。
泥を踏むかのように言葉を流され、ただの挑発では真意を引き出せないと見たらしい。
シャナイアはわずかに逡巡した後、意図的に禁忌ともいえる部分へ手を伸ばした。
「とてもそうは見えないけどねぇ……じゃあジグ君はさ、依頼ならその魔女を斬れるの?」
「―――」
スッと、灰の瞳がシャナイアへ向けられる。
殺意はない。ただ冷たく、ただ鋭く、そして恐ろしい無機質さすら孕んだその眼に、彼女の身がわずかに強張る。
「……ほぉら、怒った。金のためだけなら、そんな眼ぇしないよね?」
怯えた自分を誤魔化すように、殊更笑みを深めたシャナイアが嘲る。
挑発する金の瞳と、熱のない灰の眼が一時交わった。
今にも首が飛んでしまうかと錯覚するような緊張感が場を支配する。一度突きつけられたそれの恐ろしさを知っている魔女の額を一筋の汗が伝い、乾いた喉が無意識に上下する。
空気が一瞬で張り詰めたのなら、弛緩するのも早かった。
「情が移ったのは…………認めよう。俺は自分で思っていたよりも、非情になり切れんようだ」
顔を先に逸らしたのは、ジグの方だった。
力が入った拍子に深く切れた指から流れる血を握り締める。指の隙間から溢れる血に目もくれずに寝台で寝息を立てるシアーシャを見て、この地に来てから知り合った者たちを思い起こした。
きっと今の自分は、彼らを殺せという依頼を受けない。そんな予感がした。
敵対したのならば、立ち向かって来るのならば―――戦える。斬れる。
だが例えば、依頼をこなすために彼らを排除するのが最適な場面であったなら。彼ら彼女らを積極的に殺す選択を取れるかというと、その自信はなかった。
かつて仲間を斬った判断を、今も変わらずにできるのだろうか。
人との関わりは判断を鈍くする。弱くなったと言い換えてもいい。
それは完成された傭兵であったジグという存在にわずかに入った罅であり、その罅はいつか彼の身を滅ぼすかもしれない。
「……だが」
ふっと、握る拳の力を抜いた。
血に濡れる掌は赤く汚れている。赤い筋が手の皺の隅々にまで伸び、複雑に繋がりを見せていた。
「柵とは枷にもなるが、やり方次第では役にも立つ。頭では理解していたつもりだったが……最近になって、今更実感しているよ」
そう、武器と同じだ。
枷になるか、矛になるか、全ては扱い方次第。
今までの自分はそこから逃げていただけに過ぎない。使い方の分からぬ道具から目を背け、自分には必要のないものだと断じていた。
分かってしまえばなんとも未熟な話だ。
幾多の戦場を生き残り、独り立ちしてからも上手くやって来れたことで少し増長してたらしい。
「へぇー……その魔女も、柵のひとつって訳かい?」
「……どうかな」
深く暴こうとするシャナイアへ、強がりではなく本心からの言葉で曖昧に濁す。
こちらに背を向けて眠るシアーシャを見た。
夜よりも昏い黒髪が帳のように広がっている。
「……多少、特別扱いをしている自覚はあるがな」
これから先、いつかは彼女と袂を分かつ時が来る。
その時に自分は、何の迷いもなく彼女と戦えるだろうか?
答えの出ない……出せない問いが、いつまでもジグの胸に去来していた。
遅れちゃいました……ユルシテ!




