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痛ましいまでの沈黙が広い部屋に落ちている。
僧兵二人がエルシアやクロコスたちを前にしているにもかかわらず、ジグたちの方を向いて隙を晒している。あまりに大きな隙を突く気にもなれないエルシアと、同じく意表を突かれたクロコスとバルジが動き損ねた。
「は、……」
ヨランが乾いた声で笑おうとするも、失敗して引き攣った空気が漏れるだけに終わる。
彼は粘ついた汗が額を伝うのを感じながら、絞り出すように重苦しい声を出した。
「それは……何かの冗談ですかな?」
確認する……というより、半ば願望の混じったソレ。
こんな状況で口にする冗談ではないと、頭で分かっていても他にどうすることもできなかった。そんな悲哀すら感じる声が煙のように吐き出される。
案の定、彼のか細い願いは彼女の首が振られることで断ち切られた。
「残念ながら事実です。互いに武器を持てばまだ目はあるのですが……無手での近接格闘ではそれも難しく」
重苦しいヨラン司祭とは対照的に免罪官の返答は実にあっさりしている。
自身の不利を口にしているというのに、彼女の口調は普段と何ら変わりない平坦なものであった。
実戦慣れしているからなのだろうか、淡々と彼我の戦力分析を行っている姿はどこか他人事のようにすら感じられた。
「……何とかなりませんかね? 何もここにいる全員を始末しろと言っているのではなくて、私が逃げられる時間稼ぎをしてくれれば良いのですが」
「この男を食い止めることは出来ますが……後のことは保証しませんよ?」
言うが早いか、彼女はジグに右の裏拳を繰り出した。
体格差から意識を奪う方向で仕掛けたのか、狙いは顎だ。
ジグが顎先を叩く軌道の裏拳を半歩ずらして躱すと、彼女は腕を振った勢いのまま左の回し蹴りへと移行。
「疾ッ!」
上段と見せかけての、下段。
蛇を思わせる鋭い蹴りはへの字を描く軌道に変化し、頭部狙いと思わせていたことから反応の遅れたジグの足を打つ。足の甲を使い、側面ではなく膝裏を狙った蹴りが小気味のいい音を立てる。
ジグの鍛えられた体幹は蹴りだけで転ぶことはなかったが、動きを一瞬止めることくらいは出来た。
わずかに下がった頭を狙い、右のフック。
ジグが左腕で受けようとするも、それもフェイントだ。本命は別にある。
回る勢いのまま姿勢を低く。両手を床につき、全身の発条を活かした左の後ろ蹴り上げ。
「勢ィ!」
変則の体勢から打ち上げられた強烈な蹴撃。
柔らかな四肢と三点に支えられた後ろ蹴りをまともに食らえば、顎どころか首にまで深刻なダメージを与える威力を秘めている。
足の力は腕の三倍あると言われている。
一度相手を視界から外すために命中精度に難はあるが、体格差を加味してもこの威力の蹴りを腕の力だけで防げるわけがない。
腹に響く重低音がこだました。
重い手応え、もとい足応えが直撃を彼女に伝えてくれる。
―――攻撃の失敗を。
「やはり油断ならんな。免罪官とは」
彼女のブーツ越しに足に伝わるのは頭部を捉えた感覚でもなく、ましてや胴や腕を打つものとも違う。
頭でも、胴でも、腕でもなければ、一体どこを蹴った?
疑問を解消するべく上下逆さまに見上げた彼女の視界に映るのは、足裏でがっちりと蹴り上げを受け止めているジグだった。
踏みつけと蹴り上げ。
二つの似て非なる足技がぎしぎしと音を立てて拮抗していた。
「……これほどでしたか」
乾坤一擲の一打を常識外れの業で凌がれた免罪官が溜息をつく。
彼女の勢いが止まった蹴り上げと、体重をかけて踏み下ろせるジグ。
どちらが有利かは火を見るよりも明らかであった。
「ふん!」
ジグが受け止めた足に力を籠め、相手の蹴りごと文字通り踏み潰す。
体勢を崩した免罪官がうつ伏せに床に倒れた。強く踏みつけた際に足首から小枝を折るような音が聞こえたが、苦悶の声一つ上げないのは敵ながら大したものだ。
足を背中へ移動させ、中心に体重をかける。
「で、どうする?」
免罪官の動きを完全に封じたジグが奥にいる依頼主へ次の指示を仰ぐ。
五秒にも満たないが短くも濃厚なやり取りにシアンは反応すら碌にできず、逆に全く動じていないように見えた。
「ょ……ヨラン司祭を捕えてください」
少し気の抜けた指示が出され、静まる部屋に浸透していく。
「そうこなくっちゃ!」
真っ先に反応したのはこの結果を想定していたエルシアだった。
好戦的に笑みを浮かべると法衣を靡かせて僧兵の一人に肉薄する。
「っ!? ちぃ!」
僧兵もすぐさま反応し、構えた錫杖を腰の入った動きで突き込んだ。
いい動きだがそれは悪手だ。反射的に最も慣れた動きで攻撃したのだろうが、相手は自身の手の内を知る同じ僧兵だったということを考慮していない。また相手は武器を手にしていないのだから、まずは近づかせないよう足止めを目的とした横薙ぎで対処すべきだったのだ。
エルシアは半身になり余裕を持った動きで突き込まれた錫杖を躱す。
錫杖は彼女の銀髪を掠めることすらできず、纏った雷が数本を焼いただけに終わった。
懐に入ったエルシアの腕が跳ねる。
半身のまま左の掌底で相手の腕を跳ね上げ、勢いそのまま踏み込んでの―――肘。
裡門頂肘。
打つというよりは体当たりに近い形で叩き込まれた左肘が、僧兵の右脇腹に突き刺さった。
「がはぁ!?」
人体の急所である脇腹への体重を載せた肘。まともに食らったら鍛えている人間でも堪ったものではない。容赦のない返し技に肋骨を折られた僧兵がえずき、それでも動きを止めずに錫杖を振り下ろす。
「お手本通り、死中に活ってね」
彼女はその行動すら予知ではなく想定していた。
至近距離を維持したまま錫杖を掴み、相手の重心の下へ潜り込む。
背中に相手の腹を載せ、豪快な一本背負い。
脇腹の痛みで受け身も取れずにまともに叩きつけられた僧兵は白眼を剥いて意識を失った。
エルシアは奪い取った錫杖片手に仁王立ちすると、銀髪を払ってふんすと鼻息を荒げた。
「冒険者舐めんな。こちとら気軽に受けた依頼で化け物出張ってくるなんて日常茶飯事なのよ」
動いたのはエルシアだけではない。
彼女に一拍遅れ、バルジとクロコスが同時に飛び出す。
「一度そのツラぶん殴ってやりたかったんだ!!」
「吠えるな。亜人風情が」
牙を剥き出しにしたバルジが一足飛びに距離を詰める。
敵意滾らせ襲い掛かる獣を前にしても、僧兵は冷静に錫杖を構えてバルジの頭部目掛けて薙ぎ払った。
「ぬおっ!?」
鋭い一閃に慌てて頭を下げるが、躱されることを読んでいた僧兵は薙いだ錫杖を淀みのない動作で振り下ろしへと変化させる。
持ち前の反射神経でこれを避けるバルジだが、風を纏った錫杖は毛に覆われた頬を切り裂いた。
「破!」
間合いを活かした二連撃でバルジの勢いを削いだ僧兵は流れるように次の攻撃へ。素早く錫杖を手元に引き戻すと渾身の打突を見舞う。
「させん!」
そこに割り込むのは黒い旋風。
赤い眼を憤怒に光らせたクロコスが上から急襲し、バルジに迫る錫杖を踏みつけた。
片足の爪でがっちりと錫杖と床を固定して放さぬまま、首元を薙ぐ上段蹴りを放つ。鋭い爪の付いた回し蹴りは剣の一振りにも等しい。
僧兵は上体を逸らしてこれを躱すと、時間差で振られた本命である尻尾をも余裕をもって防いだ。
亜人との戦いに慣れている僧兵にこの程度の奇襲は通用しない。
「ふん、見え透いた手を……っ!?」
わずかな痛みが僧兵の意識を乱す。
いつの間にか伸びた狼の足が、上体を逸らした僧兵の太腿をがっしりと掴んでいた。
上段蹴りも、尻尾の時間差攻撃も、全てはこのための布石。
獲物に手を掛けたバルジの眼が凶悪に光り、吐く息が獰猛さを帯びる。
「受けてみろや、人間サマぁあ!!」
亜人の脚力が存分に発揮されたバルジの体が跳ねる。
僧兵の太腿を足場にし、回避不可能の飛び膝蹴りが炸裂した。
「―――っ!?」
秀でた身体能力を十全に活かした一撃は両腕での防御をいとも簡単にぶち破り、僧兵の眉間を打ち抜く。割れた眉間からパッっと噴き出た血が天井にまで届いた。
苦悶の声を発することも出来ない強烈な一撃に僧兵の意識は一瞬で刈り取られ、大の字になって倒れ込む。
「っとと! あぶねぇ、もう一発入れちまうとこだったぜ」
トドメに顔面へ踏みつけをかまそうとしていたバルジが、意識のない僧兵に気づくと慌てて着地点をずらす。真横に叩き込まれた踏みつけは床を凹ませ、無防備に食らえば死んでいるほどの威力だった。
「よくやったバルジ。積年の恨み、多少は晴れたか」
「援護助かったぜオヤジ! やっぱ僧兵つぇえわ……」
クロコスに応えたバルジは見事にのびている僧兵を軽く蹴飛ばすと、その結果に満足げに頷いた。
「やっぱよ、これ食らって立てる奴なんているわけねぇよな」




