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化け物。
この大陸に来て、初めて魔獣を見た時の感想はそれだった。
大きな体や鋭い爪牙に加えて、姿を消したり火を吹く等々、その危険性は熊や狼など比較にならない。
それでも魔獣の姿形や生態は既存の生物と似通っており、それがある種の進化であることを感じさせるものであった。魔獣たちは奇怪な見た目や生き方でありながらも、この地で育ち、この地に生きている……そう思わせてくれた。
魔力を持った人間が魔術を活用して生活しているのだ、魔力を持った魔獣がその性質を活かした生き方をしていてもおかしなことはなにもない。
だからこそその生物を見た時に、ジグは‟本当の化け物”という存在を理解した。
大きさは目算で体長二十メートル、体高は四メートルほどか。体色は青黒く、所々に苔のような緑が混じっている。奇妙なことに鱗があるのは触腕部分だけで、他は甲殻などに覆われていない地肌のままに見える。
逆三角形の頭部には目と口がなく、それらがあるべき場所には虚空を思わせる穴から触腕が伸びていた。
目のある場所から伸びている触腕には眼球が、口がある場所から伸びている触腕には口がついているようだ。中心には歪な鷲鼻から粘液が垂れている。
胴体は棒状に長く、背中部分から生えた細身の三対の脚が飛蝗のように体を支えていた。尾はぶるぶると震えるゼラチン質で、木の根のような突起が幾つも並んでいる。
体毛はほとんどないが、唯一頭部からのみ伸びた体毛は随分と長く、不気味なまでに艶を保っていた。触腕ではないようだが、意思を持っているかのようにざわざわとうねっている。
どういう意味を持った姿形で、どういう進化を辿った末にそうなったのか。
見た目からそれらがまるで読み取れない、まさしく異形の化け物であった。
「―――!?」
ぞわりと、悪寒が全身を駆け巡るのを感じた。
異様な存在感を放つその生物に脂汗が滲んだ手を無意識に握り締める。
「うわあ、気持ち悪い……何ですかあの魔獣は」
嫌悪感を示したシアーシャが引き気味に顔を顰めている。
ジグは思わずその顔を凝視してしまった。
「ジグさん?」
未だ油断の出来る状態でない場面で、敵から視線を外してまで顔を向けたことに彼女は怪訝そうな顔をした。
「……アレを見てそれしか感じんとは、頼もしいな」
不思議そうな顔のシアーシャへ曖昧に返しながら、今は目の前のことに意識を戻す。
幸いあの化け物は捕まえた風来鮊に夢中なようで、こちらへ触腕を伸ばしてきていない。
仕掛けるなら今だ。
「合図をしたら奴の右足を狙ってくれ」
「……足でいいんですか?」
「ああ」
「分かりました」
生物に共通する弱点として、頭部を狙うのは基本だ。
中には頭部を破壊されてもある程度活動できる魔獣もいると聞くが、それでも頭が重要器官であることに変わりはない。
一見無用な手間を掛ける頼みだったが、シアーシャは何も聞かずに頷いてくれる。
「リザと他の魔術師は奴が体勢を崩したら頭部を狙ってくれ。ただし、目くらまし重視でな」
「了解」
「ハインツ、付き合え。命の張り時だ」
「おう、行くか」
「お供します」
ハインツは首を突っ込んできた赤法衣の僧兵を胡乱気な目で見るが、何も言わずにハルバードを握りなおした。
役割を伝えると防壁の陰から化け物の隙を窺う。
風来鮊を手元に引き寄せた化け物は左右に虫のように頭を傾けながら、顔を近づけていた。
食べるつもりだ。
誰もがそう思い、攻撃の時を感じ取り身を固くした。
生物が持つ三大欲求を満たす瞬間こそ、最も隙ができる絶好の機会だ。
「は? あいつ、何を……」
だがその予想は外れた。
化け物は風来鮊を仰向けに地面に押さえつけると、小刻みに六本の脚を動かしてのし掛かったのだ。
風来鮊が空気を震わせて威嚇している。
しかし化け物はそんなことなどお構いなしに体を丸めると、ぶよぶよ揺れる尻の先端を風来鮊の腹に押し付けた。根のような突起から出た分泌物が風来鮊の肌を焼き、異臭が立ち込める。
それは決して食事などではない。
そう、まるで―――交尾のようであった。
「あいつ、他の魔獣でもお構いなしに繁殖するのか……!?」
「……いずれにしろ好機だ。行くぞ」
奴がどういう意図でそれを始めたのかは分からないが、こちらには関係ない。
食欲という隙が性欲という名に変わっただけだ。
完全に意識がこちらから逸れたのに合わせてジグたちが防壁から飛び出る。屈んで地形に身を隠し、左側に回り込むように移動する。
走りながら横目で確認すると、酸のような分泌物に焼かれて激しく尾を暴れさせる風来鮊が見えた。
やはり交尾というよりも尻を押し付けているだけで、卵を植え付けているようにも見えない。攻撃というには迂遠過ぎるし、そもそも殺そうと思えばいつでもできるはず。風来鮊が痛めつけられているのは意図的なものではないように感じた。
異様な行動だが化け物にとっては大事なことのようで、必死に腰?を振っている。
「この位置でいいのでは?」
僧兵の言葉に化け物との距離を測る。
まだ少し遠いような気もするが、奴の感知範囲がどれくらいか分からない以上、無理は禁物だ。それにこの僧兵は奴について何か知っている素振りだった。
「シアーシャの魔術が発動した直後に行くぞ。だが魔術の効果は期待するな」
「え……わ、分かった」
「分かりました」
戸惑ってから頷くハインツと平然と首肯する僧兵。
即答できたのは本人の性質ゆえか、何かを知っているためか……現状では分からない。
シアーシャに見える角度で手を挙げて合図する。
直後に始まる詠唱と、攻撃魔術の刺激臭。
ジグが最も火力のあるシアーシャに頭部の攻撃を任せなかったのには理由がある。
それは勘であり、予感であり、予想でもあった。
(奴は……きっと魔術を避ける)
何の裏付けもないその勘。
それを証明するかのように、化け物は足元から生える杭を、犬が小便をする仕草で躱してみせた。
「っ!?」
折れ曲がった足の内側、関節部を狙った巨大な杭が空を切る。
それを見届けることなくジグは走り出した。僧兵と、驚きの気配をさせたハインツがそれでも出遅れずについてくる。
一拍遅れて化け物の顔付近で魔術が炸裂する。
目くらましと注意を引くことが目的で放たれた魔術は派手に爆炎や雷光を撒き散らしていた。
わずかに化け物が怯むが、有効打になっているとは思えない。
その証拠に、煙の中から眼球の付いた触腕が出てきた。視界を妨害する煙など直接抜けてしまえばいいとばかりに伸ばされた触腕がリザたちの姿を捉える。
「A――――――」
また魔術の詠唱だ。
聞き取れない声のようなものと共に漂う刺激臭。
煙を切り裂く閃光が複数、お返しとばかりに叩き込まれた。
「させるかよ!」
二度目の魔術を唱える化け物にハインツが肉薄し、真ん中の足にハルバードを叩きつける。
走る勢いと身体強化を載せた斧刃が肉を裂き、しかし骨の部分で止められた。肉を護るのは厚めの皮ぐらいしかないが、見た目以上の頑丈さを持っているらしい。
「おぉっらぁああああ!!」
得物は止められたが、ハインツはそれで止まらなかった。
左手でハルバードの柄の先を支えながら、右の肩当てで体ごと突っ込む全力のぶちかましを見舞う。
背後から風の魔術をぶつけて自身を押し出しながらの捨て身染みた体当たりは功を奏し、骨に食い込む斧刃を前進させた。
赤い衣が翻り、足の止まったハインツを追い抜いた。
足で地面を削りながら制動を掛け、独楽のように回転する。
「破ッ!」
ハルバードが食い込む反対側、寸分違わぬ位置に錫杖がめり込んだ。
振り始めた瞬間、魔具でもある錫杖に刻まれた魔力刻印が発動。噴射炎が錫杖の速度を急激に上げ、その威力を倍増させる。
斬撃と打撃。
両側から叩き込まれる二つの暴力に化け物の足が耐えられたのは数秒だった。
切れ込みを入れられ、逆側から強烈な打撃を受けた骨は蟹の脚を折るように割れた。
残った肉を断ち切り、完全に足を切断したハインツと僧兵がすれ違う。
走りながら双刃剣を握るジグ。
思い出すのはエルシアから伝えられた澄人の業、その理念。
僧兵の型は基本に螺旋の動きを取り入れている。
体捌き、力の入れ方、攻撃のいなし方。
それら全てに螺旋の動きが深く関係していた。
より力で優れる亜人との戦いで磨かれた技術だからか、力を有効に使う技法よりも流す技法が発展したのだろう。
だが螺旋運動とは何も防御のためだけに働く作用ではない。
錐で木の板を貫く際に、ただ力任せに突くよりも回転させた方が効率的なように。
螺旋運動とは攻撃にも活かせる技法なのだ。
これを極めれば拳での打撃ですら威力を増すことが可能だというが、今のジグにはそこまでの技量はない。しかし剣の切っ先に掛かる力を増大させるくらいは可能だ。
「……すぅ」
地面を潰すのではなく、掴むように踏み込む。
大切なのは軸をぶらさないこと。
踏み込んだ足腰、突き手の捻転を一直線に穂先まで伝達させることこそが肝要なのだ。
「―――穿て」
硬さは、感じなかった。
厚い皮で包まれた肉は豆腐を掻き分けるように双刃剣を迎え入れる。
回転する切っ先が骨に達し、太い骨がひしゃげるように砕け散っていった。
不思議なもので、一点に力を集中するはずの突きでありながら、刀身の幅以上に骨が穿たれている。
真ん中に風穴を開けられた足は自重に耐えられず、ぽっきりと折れた。




