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魔獣の襲撃は毎日と言っていいほどあったが、戦力と物資の補充が出来たストリゴは多少の被害を出しつつもそれらを退けていた。
疫病の元になる腐敗した死体も粗方片づけ終え、瓦礫の撤去された場所には簡易的な天幕が立ち並んでいた。炊き出しから配給へと形態が変わった住民たちの炊事の煙が上がっており、鉱夫へと転職した男たちが食事をかき込んでいる。
主な食事は粥であり、麦粥、パン粥、豆粥、芋粥などなど、とにかく食べられるものは何でも粥にしているようだ。一度に大量に作れる上に、嵩が増えて消化にもいい粥は非常時に重宝する。鉱夫たちはそれに加えて干し肉や塩を足して栄養を補給していた。
まず荒れ果てた坑道を整備するところから始まった鉱山開発だが、思いのほか順調に進んでいるらしい。魔獣が棲み付いて作業に支障がでることも懸念されていたが、他の魔獣と同様に街の方へ引き寄せられていたので問題なかった。
魔術と人手、何より安い人命に任せた無茶な採掘作業は豊富な鉱山資源を掘り起こし、ホクホク顔の商人たちは荷馬車が悲鳴を上げるほど積み込んでハリアンに出立したとか。
危険はあるがまともな仕事と食事にありつける。
たったそれだけのことだが、住民たちはやりがいに満ちた顔をしていた。
そんな時だ。
―――北方に浮遊する巨大な魔獣あり。
見張りからそんな報が来たのは。
現地では担当の冒険者に加えて応援要員としてジグとシアーシャ、澄人教の僧兵数人が呼ばれていた。
緊急移動用の馬に二人乗りしたジグとシアーシャが来た頃には、魔獣の姿は望遠鏡を使わずとも小さく視認できる距離にまで来ていた。
二人に気づいたハインツが駆け寄り、緊迫した表情をわずかに安堵させる。
「間に合ってよかったぜ。あいつとまともに交戦したのはあんただけだからな、ジグ」
「風来鮊だと聞いたが、以前とは別個体か? ……ゆっくりでいいぞ」
先に馬を降りたジグがシアーシャへ手を貸す。
「わぷっ」
まだ馬に慣れていないのか、おぼつかない様子でおっかなびっくり飛び降りたシアーシャを軽々と受け止める。そのまま降ろしてやると、彼女は失敗したのを誤魔化すようにはにかんだ。
「報告だと同じらしいぜ。尾っぽが欠けてる」
ハインツが苦笑しながら手渡す望遠鏡で確認してみると、確かに尾先が斜めに欠けているのが見えた。同一個体というのは間違いなさそうだ。
自慢の尾を斬った者へ復讐に来たのか、人間が密集しているから狙いに来たのか、名の通り気まぐれなのか。いずれかは不明だが、奴は間違いなくストリゴを目指して飛んでいる。
「……」
しかしジグが気になったのはそこではない。
だがそれが何なのか、上手く言葉にできない。言い知れぬ違和感に眉根を寄せる。
「私も見たいです」
考えていても答えは出なかった。仕方なしに外套の裾を引いて控えめに主張するシアーシャへ望遠鏡を渡す。逆さまに覗き込む彼女を横目に、ハインツと物見櫓から降りてきたリザに意見を求める。
「どう見る?」
交戦した経験はあれど、魔獣退治の本職は彼らだ。たまたま上手く行って調子に乗った素人の浅知恵ほど恐ろしいものはない。
「……こっち襲うにしちゃあ高度が高すぎんかね?」
「まさか、私たちを無視して住民を襲うつもり?」
弓を射るにも魔術を放つにも遠すぎる魔獣に、リザたちが緊張を走らせる。
だがそのくらいはクロコスやシアンとて予想済みだ。空を往く魔獣とはそれだけの脅威なのだ。
「その可能性も考えて本部にはシャナイアを残してある。それに奴は羽ばたいて飛んでいるわけではない。鳥や虫と同じ軌道はとらんぞ」
「あーやっぱり? 幽霊鮫系の魔獣はなぜかふよふよ浮かんでるんだよなぁ……アレ未だに原理解明できてないんだよ。魔術なのは間違いないんだけど」
「シャナイアさんがいるならとりあえず安心ね。大人しく諦めてくれるといいんだけど……」
リザが望みの薄そうな願いを口にしながらクロスボウの弦を確かめる。
一度逃げた魔獣がわざわざ姿を現したのだ。ただ通り過ぎてくれると考えられるほど楽観的にはなれなかった。
シアーシャがやっと逆さまに見ていることに気づき、‟知ってましたよ?”とでも言いたげなすました顔をしている。狩りを失敗した猫のようであった。
気付かないふりをするジグは馬の横に括りつけていた双刃剣を降ろすと、棒立ちしている僧兵たちの方を盗み見た。何か仕込みのありそうな装飾を施された錫杖を手にしているが、ヤサエルが持っていたものと比べると見劣りするような気がする。
「―――」
ほんの数瞬、目が合った。
顔を動かさず、目線のみの動きだったはずだ。他の僧兵たちは気づかなかった。
それでもその中の一人、あの赤法衣を着た僧兵だけには気づかれた。
目深に被ったフードからわずかに覗いたのはくすんだ金の髪。
その奥に隠れた双眸の色までは確認できなかったが、こちらを見ていることは分かった。
「……厄介だな」
あの僧兵を要注意人物として警戒度を上げる。
魔獣も警戒しなければならないのに、これ以上心配事が増えるのにため息をつく。
「ジグさんジグさん」
刀身に巻かれた布を解いていると、シアーシャが望遠鏡を覗いたまま声を掛けてきた。
彼女はぎゅっと無駄に力を入れて左目を閉じたまま、右目をまん丸にして風来鮊を観察し続けていた。
「あの魔獣、どうしてあんなに焦っているんでしょう?」
「……焦っている?」
彼女の言葉に、何かが嵌るような感覚。
ぞわりとした直感を自覚するより先に動く。望遠鏡をシアーシャからひったくると、改めて空を忙しく飛ぶ風来鮊を映した。
そう、悠々とではなく鰭を小刻みに動かしている。
感じていた違和感はこれだ。あの魔獣は怒りや威嚇の際に鰭を波打たせることはあった。だが来るときも去る時も、その飛行は悠々と余裕のあるものだったはずだ。
何者も追いつけない空は風来鮊にとって絶対の安全地帯だったはず。
だというのに、なぜあそこまで慌てる必要がある?
「ッ!」
望遠鏡を動かし、風来鮊の後ろを見る。
そこには何もいない空が広がっているだけだ。姿を隠している可能性も考えて目を凝らしたが、不自然な揺らぎなどはなかった。
「……何が来る?」
ジグの様子に何かを感じ取ったハインツたちは既に武器を抜いており、その意識は警戒を越えて戦闘態勢にまで及んでいた。だがそれを頼もしいと感じる余裕すらない。
目を皿にして望遠鏡を覗き込みながらジグは予想を口にする。
「奴は何かに追われている。少なくとも、奴以上の何かに」
「確かなのか? 他に魔獣は確認できないが……リザ!」
何もいない空を見て怪訝そうにしたが、ジグの勘を信じてくれたようだ。
ハインツが声を掛けると、リザは返事もせずに物見櫓を駆け上がる。何段か飛ばしながら軽やかに梯子を登りきると、ジグへ向かって手を伸ばした。望遠鏡を投げろという意味らしい。
前に戯れで競った投擲技術を見込んでのことだろう。
言葉のない期待に応えて振りかぶり、回転を抑えて放り投げる。放物線を描いた望遠鏡は狙い通りにリザの下へ届いた。気遣いなど無用だとばかりに難なく空中で掴み取った彼女は身を乗り出して覗き込む。
しばし探すように望遠鏡を彷徨わせた彼女が、やがて切羽詰まった声で叫んだ。
「―――下だ! 下に何かいる!!」
(下だと!?)
やられた。
風来鮊が飛んでいるから追いかける相手も飛んでいるものとばかり思いこんでいた。
上を見ていた視線を下に戻す。
風来鮊の下を地面が不自然に盛り上がりながら追いかけているのが見えた。
いつぞやの潜口土竜を思い出させるが、それよりも範囲が広い。それにあのミミズは音を頼りに索敵しているはず。空を飛ぶ風来鮊を追えないはずだ。
「シアーシャ!!」
地中にいては手出しできない。
双刃剣を手に走り出しながら叫べば、返事の代わりに魔術の刺激臭が漂い始める。
ジグが接敵するよりも魔術が完成する方が早い。
詠唱が終わり、生み出された巨大な槍が幾本も盛り上がる地面に深く突き刺さる。
地中にいても串刺しにするであろう威力に砂埃が巻き上がり、地響きが収まった。
訪れる静寂。
巻き上がる砂埃が煙のように視界を遮っている中、大きな影がぐるぐると動いている。
頭上を見れば、それまで一目散に逃げていた風来鮊が頭上を旋回していた。
「あいつ、まさかこれを始末させるために来たんじゃ……」
疑念を口にした瞬間、大地が弾けた。




