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それを知らされたヨランは大きく息を吸い、粘ついた汗の滲む手を法衣の裾で拭った。
驚きは大きかった。しかし狼狽や動揺までいかなかったのは、ヤサエルという危険人物がいなくなったかもしれないという安堵のせいもある。
だが同時に疑問も感じた。
「君や要請に行った僧兵を疑うわけではないが……俄かには信じられない事態だね。あの狂信者が死んだことは」
「私も信じられませんでしたが……かの免罪官が猊下より賜った宝杖、‟祖霊の赦罰”を街のマフィアが保管しているのを確認したとのことです。信じがたいことですが、事実かと」
俯いて報告する護衛を見もせずにヨランが組んだ手の上に顎を載せた。
認めたくはないが、アレを手放したということは本当に死んでいるのだろう。その宝杖が偽物かもしれないという仮定はあまり意味がない。もし奴が存命ならば、そんな紛い物の存在を許すはずがないからだ。
猊下から賜った宝杖にはそれだけの意義がある。偽物であろうと本物であろうと、それが奴の手から離れた場所で存在していることそれ自体が、ヤサエルが不在であることの証明になっている。
「……複数の大司教に目を付けられても生きていた男だよ?」
「存じています」
たとえ免罪官であろうとも、たとえ許されぬ戒律破りをしていたとしても。
いち僧兵が大司教を赦すことなど、許されるはずがない。
もしそんなことを許してしまえば、次は自分かもしれない……そう考えた高僧はヨランが想像しているよりも思いのほか多かった。
何度もの刺客が差し向けられ、何度もの毒を盛られ、何度もの謀略に遭い、
―――それら全てを、宝杖と身一つで蹴散らした。
「奴は左遷されたんじゃない……そうすることでしか、排除できなかった」
「よく、存じています」
返答を求めていたわけではない。ただ口にしたかっただけだ。
ヨランは深く息をつくと、己の認識を切り替えた。
「……それで、どこの組織がやったのかまでは調べがついているのかな?」
「いえ、まだ経過報告だけです。事実関係はこれから洗うよう伝えましたが、どうにも関係者たちの口が堅いようで……周辺住民の聞き込みから断片的に情報を集める必要がありそうです」
「冒険者たちの中にも信徒が居たはずだが、そちらは?」
「全員死亡しておりました。表向きには依頼中の不慮の事故という扱いでしたが……まさか、冒険者ギルドが?」
「いや、彼らの敵はあくまで魔獣だよ。直接我らと事を構えるような真似は出来ないさ。ただ良好な関係という訳でもない。どこかの組織や個人が動いたとしても不干渉……最悪もみ消すくらいはするかもしれないね」
言っておきながら、個人で抗う者などいるはずもないと失笑する。
突然笑ったことに戸惑う護衛になんでもないと首を振りながら、今後の方針を伝えた。
「では引き続き原因を調査するように。だがそちらに手を割きすぎる必要はない……目的を見誤らないようにね?」
「承知いたしました」
昼過ぎの屋敷、その裏庭。
鋭い息づかいと共に、乾いた木のぶつかり合う音が幾度も響いていた。
地を蹴り、身を翻す音は軽い。適度な緊張を持ちながらも程よく弛緩した空気が、これが殺し合いではなく訓練によるものだと伝えてくれる。
「ちっ……相変わらず、可愛げのない剣筋!」
横合いから顔に迫る一撃を下がって避ける。鼻先を掠め、逃げ遅れた白銀の髪を打つ木杖に悪態をつくのはエルシア=アーメット。三等級冒険者にして、元澄人教僧兵の経歴を持つ女でもある。
「可愛いだろう。急所は避けているぞ」
ジグは軽口を叩くと、眼前でぴたりと止まった木棍を払った。
眉間を狙った一撃を避けずに攻撃で迎え撃ち、エルシアを下がらせることで間合いから逃れていた。
これが仮に実戦なら、構わず当てればジグの眉間が割れていたが、命に届く前に顎を砕かれ意識を刈り取られていた……そんな交錯だった。
殺意の重さがないゆえに激しい打撃の応酬は、距離が離れたことで仕切り直しとなる。
二人が持つのは同じ長さの木棍だ。
長さはジグやエルシアが使っている武器に近い。魔力を吸って育った木から作った頑丈なだけのただの棒。
魔獣防衛にある程度の余裕ができたことで待機の増えたジグは、軽い鍛錬くらいなら問題ないかと裏庭で剣を振ろうとしていた。そこで鉢合わせしたエルシアに借りを返すと言われて始まったのがこの稽古だ。
二、三打ち合って分かったが、彼女がやろうとしているのは実戦稽古ではなく、動きや相手の間違いを指摘するような型稽古に近いものだった。
だからジグも体格を活かした力押しをするのではなく、技をもってそれに応えていた。エルシアも身体強化以外の魔術を使わず、眼帯も着けたままでいる。
互いに本気ではなく、しかし手を抜いているわけでもない。
今はそんな打ち合いを、軽く汗が滲むほどに応酬したところだった。
「さて、鍛錬の相手としては悪くないが……借りを返すというには、些か物足りないな?」
木棍を肩に載せたジグがあえて挑発的な笑みを浮かべてみせる。
技量としても、同じ系列の武器を扱う相手としても、エルシアはいい鍛錬相手となる。
しかしそれは彼女にとっても同じことだ。双方に利がある以上、借りを返すという表現は適切ではない。
もっとも、そんなことは彼女が一番良く分かっているはずだ。
だからジグは煽ってみせた。準備運動はもういいだろう、と。
「フン! 上から目線で言ってくれるわね……いいでしょう、本題に入るわ」
鼻を鳴らした彼女が呼吸を整え、ゆるりと構えを変えた。
すっと、空気が少しだけ張り詰めたような気がした。
武術・剣術における構えの変化とは、ただ剣の置く場所を変えるというだけではない。
構えの変化とはすなわち意識の変化だ。
素早く攻撃に移れる上段。
防御と対応力に秀でた中段。
体力温存と悪路に適した下段。
何を目的とするか、どこに意識を割くのか、構えからはそれが読み取れる。
エルシアの構えは、先端をこちらに向けて腰を落とした下段。
膂力に優れた相手の攻撃を受け流し、反撃を狙う柔の構えだ。
「……私が元々は澄人教の僧兵というのは知ってる?」
細く長く呼吸するエルシアが落ち着いた声で問いかける。
「剣筋で薄々気づいてはいた」
直接誰かに聞いたわけではないが、法衣を着て同じ戦い方をする奴と戦えばおのずと気づく。
ストリゴに澄人教が来てからエルシアが少し殺気立っているのを見たこともある。
「なら話は早いわね。私の戦い方は奴らの僧兵のものよ。だから、それを教えてあげる」
「……何故、手の内を明かすようなことをする?」
自身の戦い方を知られることは剣士なら避けたいことのはずだ。
知られれば対策を立てられることとなり、死ぬ確率が上がることになる。
魔獣相手を仕事とする冒険者たちはそこまで切羽詰まった考えはしていないだろうが、それでもあまり褒められたことではない。借りを返す、程度ではあまり釣り合っていないように感じた。
ジグの疑問にエルシアは複雑な感情が籠められた笑みを浮かべる。
「澄人教共がただの善意でこんなことをするはずがないわ。必ず何か企んでいるはず。……それに私、あまり円満に僧兵を辞めたわけじゃないのよね。多少なりとも恨みはあるし……だったら腹いせにあいつらの対策を教えて苦しんでもらおうかなって。今のところアイツらと敵対しそうなのあんただけだし、亜人たちに教えるとそのまま殺しにかかってきそうだし」
エルシアが恨みを口にした辺りで眼帯に触れる。
人の心を見通すと言われる龍眼を隠し持った彼女が、あまり良い扱いをされてこなかったのは想像に難くない。あの司教を見る限り、教えとやらはあまり真っ当な運用をされていない可能性がある。
そしてそういった者たちにとって、心を見通す龍眼がどれほど厄介なのかは語るまでもない。
「……ちょっと、少しは同情しなさいよ」
表情一つ変えずに黙って聞いていると、口を尖らせたエルシアが文句を言ってくる。
ジグは不思議そうに首を傾げると、今目の前にいる彼女を見て言った。
「必要あるのか? 今のお前は誰に憚ることもない高位冒険者だ。おまけに、死なせるのが怖くて及び腰になってしまうほど大事な仲間もいる」
ジグの目には、過去を語るエルシアに何ら負い目のようなものは感じられなかった。
それは彼女が過去ではなく今を生きていることの証であり、その生き方に誇りを抱いているからこその在り方だ。
「もっと今の自分を誇れ。扱いを誤ると碌なことにならんが、存外大切な物だ。誇りとはな」
「……」
返答はない。
ただエルシアは無言で眼帯を取ると、いつぞやのように背後へ放った。
深紅と黒で彩られた禍々しい双眸がジグを捉え、その力を解放する。
「悪いけど」
エルシアは大量の魔力を撒き散らしながら、笑顔というには随分と圧の感じる表情でジグを見た。
全力を振るえることに喜びを感じているのか、威圧をばら撒きながらもどこか艶の感じられる仕草と声音。
「―――今日は立てなくなるまで付き合ってもらうから」
「……おいおい、立場を考えろよ」




