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身構えてる時こそ不測の事態は起きないものとはよく言うが、この場合はそれに当て嵌まるのだろうか。この街に……いや、この大陸に来てからずっと予期せぬ何かが起き続けていた身から言わせてもらうと、結局はタイミングと生き方の問題なのだろう。
ストリゴに到着してからの三日目は何事も起こらずに済んだ。
散発的に現れる魔獣の対処は必要であったが、初日の仇猿の群れ、二日目の風来鮊と魔女。それら二つと比べれば凪と言っても差し支えのない障害に過ぎない。
支援物資が届くまでの残り三日もこのまま何事もなければいい……誰もがそんなことを夢見つつも、誰一人としてそうはならないだろうと諦観すら混じった願望を抱いていた時―――それは来た。
誰も、想像すらしなかった厄介事が。
「オヤジ! トンデモねぇのが来やがった!!」
慌ただしい足音と切羽詰まった声と共に、見張りをしていたマフィアが踏み込んできた。
中ではシアンたちギルド職員とクロコスが打ち合わせをしている最中であった。
蹴破るように扉を開けて入って来た亜人に皆が注目し、ギルド職員たちの護衛として残された冒険者が剣の柄を握っている。
殺気立つ冒険者をシアンが手で下がらせながら、クロコスと無言で視線を交わす。
「何があった」
クロコスは部下の無作法を咎めるような無駄はしない。それだけの事態が起きたのだ。
ここしばらくで魔獣の襲撃には慣れていたはずの部下がこれだけ取り乱している、その意味をよく理解していた。
「き、来たんだ……奴らが……!!」
余程慌ててきたのか、掠れた濁声を途切れ途切れに話している。
その声音に滲み出る憎悪と恐れが入り混じっていることに気づいたクロコスが目を細める。
何か、とても良くない予感がした。
皆の注目を集める中、彼は絞り出すような声で部屋中に響かせる。
「―――澄人教どもだ!!!」
空を泳ぐあの厄介な魔獣は西に飛び去り、此度の厄介事も西から訪れた。
西には何か悪いものでもあるのではないか? ただの偶然のはずだが、そう思わせる程度にはその一団は歓迎されていなかった。下手をすれば、魔獣以上に。
夕日に照らされて現れるは法衣を纏いし聖職者たち。その数およそ百。
荷馬車や馬に乗っている者もいるが、半数が徒歩なあたりに彼らの健脚ぶりが見て取れる。
敵意がないことを示すようにゆっくりと、無防備に荒れた街を進んでいく。
一見聖職者らしい楚々とした様子だが、亜人たちから向けられる殺意の混じった無数の視線を涼しい顔で受け流している。剥き出しの刃にも似た害意を前にして堂々としていられる様は、とても無害で穏健な集団には見えなかった。
「そこで止まれ」
それを予想していたのか、言葉よりも先に彼らの足が止まる。
目深に被ったフードの先、彼らの進行を阻むかのように現れたクロコスたちが敵意も露わにしている。
殺気立つ部下たちを押さえることもせず、しかし勝手な行動を許さないという意思も言葉に載せたクロコスが前に出た。
「狂信者共が、何の用でここへ来た。ストリゴくんだりまで出向くほどに我らが憎くなったか!」
二刀を背に腕を組み、仁王立ちしたクロコスが戦意を滾らせて一喝する。
赤い瞳は憤怒を孕み、撓る尾が大地を叩く。
法衣を着た集団が視線を周囲に走らせる。
いつの間にか、建物の影や瓦礫の間から姿を現した亜人たちに囲まれていた。
今にも飛び掛かってきそうな形相だが、それでも彼らの余裕は崩れない。
危機意識が欠けているわけではなく、それだけの力を有しているがゆえに。また亜人たちにも余力がなく、なるべくなら戦いを避けたい状況だと、彼らはよく理解していた。
応じるように二人が集団から前に出る。
一人は大柄……というよりも、でっぷりと肥えた腹をした人当たりの良さそうな好々爺。
そして彼を護るように付き従うのは、他と違う赤い法衣を纏った一人の僧兵。
殺気立つ亜人たちへ恰幅のいい老人は両手を広げて、説法をするかのような穏やかな声を返した。
「どうか、荒々しい心を落ち着けて。我々はあなた方を助けに来たのです」
「ああそうだろうとも。罪深い亜人共をその人生から解放してやろうと、お偉い人間サマがお慈悲を下さると言いたいわけだ?」
「……私たちの間には悲しい誤解があるようだ。亜人であることは罪ですが、なにも罪人のままでい続ける必要はありません。我らの下では多くの亜人が、その罪を償うべく献身し続けている。澄人教は、改心しようとする方には広く門戸を開いています」
がりりと、音が聞こえる程に歯を噛みしめたクロコスが怒りに身を震わせた。
それに気づいていながらも老人の言葉は止まらない。
「それに、先に助けを求めたのはそちらではありませんかな?」
「……なんだと?」
「ここより西にあるチャコルの街にて、あなたたちから支援を要請する手紙が届きました。そこで街の者たちは布教の旅に訪れていた私どもに救助を歎願されたのです」
「……」
老人の言葉にクロコスが考え込むように口を閉ざす。
確かに届く範囲での近隣街への支援要請はした。しかしその返事はほとんどがまともに返ってこず、手酷く罵倒する言葉を浴びせられたこともあった。まともな返答があったのはハリアンくらいだ。
「申し遅れました、私はヨラン=ギェラ。澄人の教えを広く伝える任を与えられております。……ここが悪徳に沈んだ街だということは重々承知していますが、それでも人命を無為に見捨てることを偉大なる祖は良しとしません」
「ふん、ただ教徒を増やしたいだけだろう」
「それも私の使命ですから、否定はしません。しかし増やすためにはまず助けねば。死人に教えを説くことなど出来はしません。街を助け、命を助け、心を助ける……教えを説くのはそれからの話。その上で私共の理念に共感していただけるなら、これ以上の喜びはありません」
周囲を囲まれながらも穏やかな姿勢を保つ堂々とした姿に、教徒たちが尊敬の眼差しを注いでいる。
不快気に視線を険しくするクロコスだが、内心では彼らの処遇に迷っていた。
本音を言えばこの場で八つ裂きにしてやりたい奴らだが、澄人教が保有する僧兵の実力は折り紙付きだ。たとえ人数差があったとしても容易には行かず、それで消耗してしまえば今度こそ全滅だ。
この件で冒険者たちの力は借りられない。彼らはあくまでも魔獣の脅威から護るために派遣されてきたのだ。たとえギルド側が内心でどう思おうと、広く布教されている澄人教と対立することは避けるのが当然だ。
ならば帰らせるかというと、それも難しい。
ファミリアたち亜人にとっては不倶戴天の敵だが、多くの人間たちにとってはその限りではないからだ。胡散臭い宗教団体だろうと、普段宗教に興味がなくとも、助かるならば縋る相手は何でもいいという連中はいくらでもいる。
そして結果的にだが、助けを求めたのはこちらなのだ。
無論こいつらに助けを求めたつもりはなかった。だが無差別に支援を要求しておきながら、求めていた助けと違うから帰れではあまりな言い草ではないか。
「……オヤジ」
「分かっている」
バルジが苦々しい顔でクロコスを見た。
言われなくとも、奴らがただ助けに来たわけではないことは明白だ。必ず見返りを求められる。
ヨラン自身、教徒を増やすのが目的だと明言している……が、それだけであるはずがない。
ただ献金を求められるだけならいい。それは鉱山資源の融通を求めるハリアンもそう変わらないし、明確な見返りを求められる方が付き合いやすい。
だがこういう手合いは取引に明確な線引きを用いず、長期に渡って信心を利用した搾取をする。
窮地にあればこそ人の心は揺らぎやすく、救いの手を差し伸べることでより強固な人心掌握と洗脳を可能とする。扱い方を間違えればケツの毛すら残らぬほどの食い物にされるのは間違いない。
そしてそれ以上に、なぜ今なのだ。
この機に乗じて亜人の街を作ろうと画策している最中、澄人教の存在は邪魔でしかない。
(嗅ぎつけられた? 馬鹿な)
あり得ないことだ。ファミリアでも一部の幹部にしか伝えておらず、彼らが裏切る可能性は限りなく低い。万が一裏切られたとしても、こいつらに情報を流すことだけはないと断言できる。
「今は、今だけはわだかまりを捨て、互いに助け合う時です」
真に迫った演技もここまでくれば大したものだ。
白々しい台詞に腸が煮えくり返る。今すぐにその醜い豚腹を引き裂いてやりたい。
しかしここで固辞するのは何かあると言っているようなものだ。
奴らにこの企みが気付かれること……それだけは避けねばならない。
「……分かった。諸君らの救援に感謝する」
「おお、分かって頂けましたか。聡明な亜人に心からの感謝を」
謝辞を交わす互いの言葉は寒々しいほどに上滑りしている。
そこでクロコスはふと意地の悪いことを思いついてにたりと笑みを浮かべた。あからさまな顔だが、鱗人の表情は人間には読みにくいので問題ない。
「ああ、よろしく頼む」
「……」
歩み寄り、手を差し出した。つまり握手を求めたのだ。
ヨランがそれを断れるはずもない。如何な事情があろうと助けるのが祖の教えだと、たったいま説いたばかりなのだから。
亜人を罪人だと忌避する奴らの嫌がる顔を見られるのならば、この腹黒い豚の手を握るのもやぶさかではない。
「はい、こちらこそ」
「……?」
しかしヨランは朗らかな笑みで、躊躇せずにその手を握った。
逆に不意を突かれたのはクロコスの方だ。まさか間を置かずに握手に応じるとは思ってもいなかった。
同時に目の前の好々爺然とした男に強い警戒心を抱いた。
これは想像以上に厄介な食わせ者かもしれない、と。