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星灯りを背に、首の無い石像の上で金の瞳を爛爛とさせるシャナイア。
魔女としての強烈な存在感を前に、ジグが拳を強く握る。
やはり、生きていた。
あれだけの戦いの跡を見ておきながらそう感じるのはおかしいかもしれない。
割れた大地と穿たれた空。
人間の及ばぬまさしく災害と呼ぶべき痕跡は、とてもではないが敗者の生き残る余地があるとは思えない。
それでもジグは心のどこかで、魔女ならばあるいはと感じていた。
昼の魔獣が何かを警戒していたことでそれは確信に変わった。あれほどの魔獣が人間程度に怯えるはずも、ましてや撤退を選ぶことなどあり得ない。
だからこそジグはここに来たのだ。
「……久しい、と言うほどでもないか」
魔女を前にして出てきたのは何と詰まらない台詞だろうか。
そんな言葉でもシャナイアは嬉しいのか、感極まったように頬を緩める。
「ボクからすると、一日千秋の思いだったよぉ?」
片膝を抱えてもう片脚を投げ出したシャナイアがもどかしそうに言う。
寿命の短い人間と永い時を生きる魔女なのに、正反対の感想を抱くのがおかしいのか籠った笑い声を漏らしている。
「息災なようで何よりだ」
「ふん……あの馬鹿魔力の小娘にはちょっと驚いたけど……年の功さぁ」
鼻を鳴らしたシャナイアが頬をむくれさせる。
ジグは魔女同士の激突を直接目にしていないが、相当に激しかったのは間違いない。
それに負けてなお生きているということは、上手いこと逃げおおせたのだろう。
先ほど見たようにシャナイアは影を操り、身を隠すのにも長けている。同じ魔女相手であろうと姿を晦ますくらいはできるはず。
ジグとて彼女が異質な存在感を放つ魔女でなければ易々とは気づけない。初めて会った時はストリゴの異様な空気のせいで気づくのが遅れたが。
「あんな女のことより、ボクと話そうよぉ。もっと君のことが知りたいなぁ」
餌をねだるように猫なで声を上げるシャナイア。
その真意を問うように彼女の目を見返すが、彼女とは重ねてきた歳月が違うために失敗する。案外、情報を探っているというより、本当にジグのことが知りたいのかもしれない。
「あんな別れ方しちゃったからもう会えないかもぉ、なんて思っていたのに……まさか君の方から会いに来てくれるなんてねぇ。そんなにボクのことが忘れられなかったぁ?」
シャナイアがにたりと笑いながら影のような触手を生み出し、片手で弄ぶように撫でる。
罠にかかった獲物を見るような目が弧を描く。
絶世の美少女から向けられる官能的な視線には、男の本能を強く刺激する魔性の魅力が備わっている―――が、生憎とジグはそれに慣れている。
「期待させて悪いが、別件だ。それに俺は今、別の魔女の雇われでな」
灰の瞳は小揺るぎもせず、男を狂わせる魔女の誘惑を断ち切る。
「―――へぇ?」
ジグの拒絶ともとれる言葉にシャナイアの空気が変わった。
他の魔女という言葉に反応して口元がピクリと動き、目から笑みが消える。
「それってあの暴力魔女のことかなぁ? やれやれ……魔女の本質を忘れて人間ごっこに興じる、あんな半端者のどこがいいんだい?」
恋人との逢瀬で他の女の名を呼んでしまったが如く機嫌を損ねるシャナイア。
それほどまでにシアーシャを嫌うのは本能か、それとも相性か。
あるいは欲した雄の手綱を握られているのが気に食わないのか。
「人を欲するなればこそ、人のことを知るべきではないか?」
「飼われる愛玩動物の気持ちを理解しろってぇ? 冗談キツイよぉジグ君」
足を揺らしたシャナイアが小馬鹿にしたように鼻で笑う。
相手を対等に見ることのない魔女らしい台詞だ。傲慢で、高慢で、自信家。
まるで愛の言葉を囁くようなそぶりを見せつつも、本質的には餌を見る捕食者と変わらない。
ジグは嘲る魔女を見上げて不敵に笑った。
彼女が見下す人間として、未だ自分が絶対者だと信じて疑わない愚かな小娘を諫めるように。
「その差だよ。お前がシアーシャに負けたのは」
「――――――」
変化は劇的だった。
ざわりと髪が波打ったかと思うと、辺りを漂う影が鋭さを帯びる。
張り詰めた空気が冷気のように背筋を突き、命の危険を知らせてくる。
「面白い事を言うねぇ……このボクが、人間かぶれの小娘よりも劣っているだってぇ?」
「違うのか? こうして彼女に敗れて、こそこそ逃げ隠れておきながら」
再びの挑発。
シャナイアの怒りに呼応するように影が波打つ。
彼女が一つ命じるだけで脆弱な人間を瞬く間に小間切れにすることができるだろう。
それだけの力を、魔女は持っている。
まともな人間ならばその場で失神するほどの圧倒的な力。
しかしそれほどの脅威に包囲されてなお、ジグは不敵な顔を崩さぬまま。
「…………」
思う通りの反応を得られないシャナイアの頬が引き攣る。
ただの人間が、圧倒的上位者である己の威嚇に微塵も動じていないのが不可解で、不愉快で、気に入らない。そんな内心を隠しきれていない。
「……ジグ君はちょっと勘違いしているようだねぇ……でもいいよぉ。生意気な君を徹底的に屈服させて、ボク好みに躾けてあげるのも一興さ」
どうやらやっとその気になったようだ。
隠しもしない膨大な魔力と強烈な刺激臭が狭い教会内に立ち込める。
ふわりとシャナイアが石像から降りた。
ふわり影に受け止めさせる様子はまるで体重が存在しないかのようで、長い髪が揺らめく姿は幽鬼を思わせる。
「あの魔女も連れずに、どんなつもりでのこのこ出てきたかは知らないけどさぁ……まさかこのまま無事に帰れるとは、思っていないよねぇ?」
見開かれた金の瞳はぴったりとジグに狙いを定めている。
逃がさない。
そんな意思が籠められた金眼がジグを射抜いた。
シャナイアがその気になった。
非常に危険極まりない状況だ。全力ではないにしろ、戦闘態勢を取った魔女を前にして人間が出来ることなど撤退一択……いや、それすら許されずに塵になるか、嬲り殺されるのが精々だ。
そんな災害を前にしておきながら、ジグが内に湛えるのは―――確かな怒りであった。
「どんなつもりで、だと?」
ジグにしては珍しいことに、言葉の端々から感情がこぼれ落ちる。
「おやぁ、ご主人様を害するかもしれない存在がそんなに憎いかい? 感情的になるなんて、君らしくもない」
初めて感情の動きを見せたジグにシャナイアの笑みが深まる。
か弱い人間の怒りなど子犬に吠えかかられるようなものだと、その表情が語っている。
「……」
その顔がまたジグの怒りを刺激する。何がジグを怒らせているのかすら理解していない、その顔が。
目が剣呑に細められ、拳が強く握りしめられる。
ゆらゆらと影の触手を動かすシャナイアの笑みが深まる。
「それとも……魔女の真実がそれほど気に入らなかったのかなぁ? ―――自分がただの操り人形になっているこ・と・が」
言葉尻を強調した、嘲りの混ざった挑発。
魔力の伴ったそれはこちらの冷静さを失わせ、短絡的な行動を誘おうとする搦め手。
こちらが本命だと、そう分かった上での白々しい言葉。
ジグの脳裏にかつての戦友であり、先輩であり、友の姿が過る。
「……はっ」
思わず、声が漏れた。
熱くなっていた胸の熱を息と共に吐き、冷たい夜の空気を入れることで宥める。
どれほどの激情を抱こうとも、怒りをそのままぶつけることをジグの戦い方は良しとしない。
頭は冷たく、心は熱く。師の教えは窮地にあっても忘れることはない。
双刃剣を抜く。ゆっくりと、見せつけるように。
戦いの意思を明確に示す。
「ひゅー、やる気だねぇ」
揶揄するように嘲笑う魔女が、腹立たしい。
腹が立つ。彼女が、自分が何を仕出かしたのかを理解していないことに。
腹が立つ。そのことを、文字通り歯牙にもかけていなかったことに。
そして―――あまりにも的外れな挑発が、腹立たしい。
「……赦せんな」
刀身の布が解かれ、赤黒い刃が姿を現す。
いい色だ。今の心情を示すのに、これ以上の色はない。
「何がかなぁ? ジグ君はこれからボクの番になるんだ。後学のために、君が何に怒っているのか教えて欲しいなぁー?」
戯言を抜かす能天気な魔女を無視し、腕を温める魔具を撫でる。
出がけに注いでもらった魔力で稼働する腕炉は冷えた夜においても温もりを保っており、ジグに十全な力を振るわせてくれる。
彼女を護るためというのは、間違いではない。
同じ魔女たる存在は危険だ。一度勝ったからと言って次もそうなるとは限らず、常に強い方が勝ち続けるわけではないのが殺し合いだ。
だがそれは怒りには繋がらない。
ジグを含め、それまで無数の命を奪って来たシアーシャが命を狙われるのは当然であり、それに対して怒るのは筋違いというもの。
そも状況を聞くに、先に吹っ掛けたのはシアーシャらしい。
では操られていたことか?
それも否だ。
真実はどうあれ、シャナイアは魔女の特性を話しただけのこと。仮に操られていたとしてもそれはシアーシャであり、シャナイアに当たるのはお門違いだ。
灰の瞳が確かな殺意を持って、金の瞳とぶつかる。
混じりっ気のない純粋な殺意。
意識的に感情を排除した、あまりにも真っ直ぐな意思表示。
「っ、」
噎せ返るほどに濃密な殺意に、シャナイアがわずかに息を呑んだ。
先の二因は彼の怒りに起因するものではない。
だからジグが怒っているのは、
「―――貴様は、俺との契約を反故にした」
その事実。ただ一点のみであるべきだ。




