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硬い表情のシアンに通されたのは、以前にカークから出禁を喰らった応接間だ。
逆鱗に触れられたシアーシャが過剰な魔力を放出し、間近でそれを受けたカークの青い顔は記憶に新しい。
「おかけください」
扉を閉めたシアンが席を勧めながら、盗聴防止の防音魔具を起動する。
過剰な魔力放出の煽りを受けて壊れたものだが、修復するなり買いなおすなりしたのだろう。
部屋の全体を膜で覆うような感覚と共に、遠くに聞こえていた喧騒がぷつりと途絶える。
「あ、あれ……?」
戸惑ったような声に視線を向けると、お茶を用意しようとしたシアンが取っ手のないカップを手にしている。魔具ではないが、あれも魔力の余波で破損したものだ。魔力の波自体に物理的な力はほとんどないが、独特の振動を伴っているせいか陶器の類は影響を受けやすいようだ。
修理を手配した職員も茶器の取っ手までは見逃していたのか、そこだけ取れたままのカップにシアンが首を傾げている。
「……」
ちらりとシアーシャの方を見れば、スッと無言で視線を逸らされた。ジグもそこを指摘して賠償という話になっても詰まらないので、沈黙を貫くことにする。カップはともかく、防音という繊細そうな効果の魔具の賠償などいくらになるのか考えたくもない。
そんな二人の思惑など知る由もないシアンは、予備のカップを用意し茶を淹れている。
趣味でやっているカークと比べれば随分拙い手つきだが、それでも良質な茶葉はそれなりの香りを部屋に漂わせてくれた。
「それで、頼みというのは? わざわざ俺を呼ぶんだ、それなりの理由があるんだろ?」
ジグが話を促すと、彼女は躊躇いがちに口を開いた。
「ええ……お二人はストリゴで起きた異常事態をご存じですか?」
「……ああ。なんでも、大規模な災害のようなことがあったとは聞いている」
あまりその話題には触れたくないのだが、今や結構な噂話になっているのに何も知らないというのは逆に不自然というもの。
ジグは苦いものを感じながらも当たり障りのない知識だけを口にする。
「それが原因かは分かりませんが、今ストリゴでは魔獣の発生率が急上昇しています。ストリゴは元々鉱山街として発展していたせいか、魔獣の出現頻度はそう高くありませんでした。だからそれまでは現地を治めているマフィアや流れ着いた冒険者崩れでも対処できていたのですが、限界が来ています」
「確かに最近、ストリゴ方面での魔獣討伐依頼が増えていましたね」
話の矛先が自分の所業から離れたシアーシャが頷く。
普段から依頼書とにらめっこをする冒険者ならば気づいていて当然だ。
だがストリゴ方面の依頼を優先的に受けて欲しいという話だけならば、受付でするだけで事足りる。本題はこの先だ。
「ギルドでは現在、ストリゴに新たな支部を立ち上げようという動きが出ています。その下地を作るために職員や人材を送り込む準備をしているのですが……ストリゴが魔獣に蹂躙されてからでは間に合いません」
なるほど、ギルドが求めるのは鉱山資源か。
ストリゴは廃れたが、鉱山資源が尽きたというわけではない。ストリゴが提示するたっぷり利権の乗った金額よりも、多少危険を冒してでもフュエル岩山から輸送した方が利益になると判断しただけの話。
ここで恩を売ってストリゴの統治に食い込めればその利益を得られるが、魔獣に食い荒らされてはそれも叶わない。
「ストリゴを護るため、一部冒険者と職員を先んじて送り込むことで、なんとか現状を凌ぐ必要があるんです」
依頼を受けてから現地へ向かうのではなく、現場で臨機応変に対応できる人員を配置する方が効率的だ。要はその打診をジグとシアーシャに頼みたいということだろう。
―――額面通りに受け取るならば。
「それはいいんですけど……どうして私たちなんですか?」
シアーシャの疑問にシアンが一瞬口ごもり、取り繕うように明るい声を出す。
「シアーシャさんは優秀ですし、ギルドでの評価も高いのでっ」
「だが、まだ七等級……それも期間も経験も浅く、信用と実績があるとは言い難い。より適した人材はいくらでもいるように思うがな?」
短期的に見ればシアーシャが頭角を現してきたとはいえ、まだまだ平均冒険者の域は出ていない。カークや一部冒険者たちからは評価されているものの、全体として見ればまだまだなのだ。確実な仕事を要求するのなら、より高位の冒険者や頭数の多いクランに頼むのが道理というもの。
「ですよね。そもそも二人組に頼んだ程度でどうにかなるものでもないような?」
「それ、は……」
痛いところを突かれたシアンが言葉を詰まらせてしまう。彼女は若く優秀だが、この辺りの経験はアオイやカークに比べるとまだまだ浅い。
ジグは腕を組んで息を吐くと、汗を垂らすシアンに諦めろと表情で告げる。
「―――で、何人に断られた?」
ストリゴの治安が相当に悪いというのは誰でも一度は聞いたことがある。
だが治安が悪いと聞いて思いつく惨状は、育ちや経験で大分個人差が出ることは想像に難くない。想像を絶するとはよく言ったものだ。
あの街の聞きしに勝る劣悪な環境を実際に見て知っている者がいれば、交流のある同業者には警告をするのが人情というものだ。お前の想像している環境など上澄みの部類だぞ、と。
冒険者は荒事程度で腰が引けるような職業ではないが、ストリゴの過酷さはそういったものとは毛色が違う。
危険な魔獣に真っ向から立ち向かうことは出来ても、ガリガリに痩せた物乞いから向けられる貧しさと飢餓に狂ってしまった視線に耐えられるかは別問題ということだ。
諦めたようにため息をついたシアンは項垂れると、ぽつぽつと懺悔するように話し始めた。
「……実は、クラン単位での依頼は全滅……受けてくれたのは何組かのパーティーと食い詰めてギルドに借金のある人くらいで……皆さんあの街に行くのがよっぽど嫌みたいです……」
「ギルドから睨まれるのも、皆で平等に受けるなら怖くもないしな」
さもありなん。あの街を少しでも知っているならばまともな選択だ。
薬が酒のように蔓延し、下手をすれば食事にも混ぜられているような場所には誰だって行きたくはない。うっかり酔いつぶれてしまえば、身包みどころか手足内臓に至るまで持っていかれかねない。
「ワダツミはどうした?」
「“裏社会科見学にしても段階があらぁ!”って怒られちゃいました……」
「面倒見のいい奴らもあそこは嫌か」
彼らならばあるいはと思ったのだが。
いや、若手の成長を重視するワダツミだからこそか。蔓延する薬と、正論や善意の心だけではどうにもならない現実を突きつけるには、あそこは刺激が強すぎる。
「で、最終的には田舎出で他所の街に疎い俺たちか。少しばかり、やり口が汚くはないか?」
「……私だってシアーシャさんをあそこに行かせるのは大反対ですよ……でも上に、何でもいいから人員を集めろって言われちゃって……あぁもお! こんな仕事辞めてやるぅ!!」
「わ、あらぶっていますね……どうどう」
バレてしまったことで溜め込んでいた物が噴き出したのか、シアンが乱心している。
子犬がキャンキャンと吠えるように上司への恨み言を吐き出すのをシアーシャが宥めている。
それを横目にさてどうしたものかと顎をさする。
あまり褒められたやり方ではないが、嘘は言っていない。彼女には世話になっているし、武器の手入れをしてもらった恩も考慮すれば報酬次第で受けてやってもいい……ジグ一人であれば。
問題はシアーシャだ。ああいった諸々限界極まる街に彼女を連れて行くのはどうなのだろう。
身の危険という意味では心配いらないが、薬や変な遊びに嵌ったりなどしたら取り返しがつかない。
先日来たときはほとんどをジグの捜索に費やしていたし、滞在時間そのものはかなり短かったと聞いている。
そもそも衛生環境の非常に悪いあの街にシアーシャを連れて行くのはいかがなものか……
「いいですよ。その依頼、受けましょう」
「えぇ!?」
護衛というよりは保護者染みてきたことをジグが考えていると、待てと言う間もなくシアーシャが先に答えてしまった。思わぬ返答にシアンが驚き、身を乗り出してシアーシャを止める。
「ダメですよ! シアーシャさんがあんな場所に行くなんて!!」
「……さっきと言っていることが違」
言いかけた所でキッと睨みつけられたので黙る。こうなった女性に逆らわずに従っておけと、フライパンで頭を殴られ突っ伏すライエルから教わっていた。
「あそこはケダモノたちの巣窟なんですよ? シアーシャさんみたいな綺麗な女性がいたら、骨も残さずにいただかれちゃいます! 私のことなら気にしないで下さい、上司殴ってから辞めますから!」
興奮して危険なことを口走り始めるシアン。騙し討ちのような真似が余程心の負担になっていたようだ。
「まあまあ、落ち着いて。シアンさんに辞められてしまうと私が困るんです。―――カークなら後で殴っておきますから」
シアーシャは聖母のような慈しみ深い顔でシアンを諭し、そっと手を取った。
感極まったシアンは自ら手を添え、ぐっと強く握る。
「大丈夫。ジグさんもいますし、ギルドの職員も来てくれるんでしょう?」
「はい、でも……」
仕事とはいえ、女性をあのような街へ送り出すのは良心が咎めるのだろう。
シアンの生来持つ善性が、彼女の表情を歪める。
それが懺悔する罪人のような面持ちならば、さながらシアーシャは全てを許すシスターか。
シアーシャは蒼い瞳を穏やかに細め、白魚のような指先で歪む頬を撫でた。
「シアンさんが一緒に来てくれれば、私も心強いです」
「―――え゛?」
「……そうか。そこまで覚悟が決まっているのなら、何も言うまい」
ジグが重々しく頷く。
なんと美しい友情だろうか。
大事へ向かう友人を一人では行かせぬと、非力な身で死地へ飛び込もうとは。
シアンの友情と、仕事への責任感にはジグをして脱帽せざるを得ない。
「―――嘘ですよね!?」




