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コミック版「魔女と傭兵」二巻がなんと発売二日で重版掛かりました。
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白い紙に垂らした一滴の墨が如く、誰かが漏らした言葉一つでその場の空気は一変する。
部屋に満ちていた厳かなものは一瞬にして掻き消え、代わりに渦巻いたのは黒煙にも似た険悪なもの。
ジグに向けられるのは半信半疑……というには些か疑に寄り過ぎている視線。
何しろ手練れの傭兵が同胞の遺言を持ってきたのだ。直接手を下したかどうかまでは分からずとも、何かしら関係していると考えるのが道理。
この事態を恐れていたからこそ、族長はジグとの話を内密に済ませたかったのだ。
「皆の者、まずは話を―――」
「貴様、話してもらおうか! テギネ様に……我らの誇りある武人に何があった!?」
「事と次第によってはタダでは帰さんぞ!」
静めようとした族長の言葉は怒声混じりの喧騒に掻き消された。
集ったジィンスゥ・ヤの面々が口々にジグを問い詰め、今にもひっ捕らえようかという様子で腰を浮かせている。
武を重視するジィンスゥ・ヤにとって、達人の持つ意味は大きい。
元より異郷の民である彼らは仲間意識が非常に強く、同胞を大切にする。ライカのような修羅道に堕ちて自ら離れていったものならばともかく、テギネは仲間を養うために出稼ぎに出ていた同胞だ。
達人とは彼らの強さの象徴であり、いつか自分もその背に追いつかんと憧れる存在でもあった。
周囲から向けられる殺気混じりの剣呑な視線は、常人であれば身の危険を感じて委縮するか、身構えるかしてしまいそうなほど鋭い。
ジグはそんな中にあっても変わらなかった。
彼は周囲の敵意や害意といった全てに頓着することなく、ただ事実のみを口にする。
「斬った」
あっさりと、今日の天気でも告げるようにジグは口にした。
喧騒がたった一言で時を止めたようにぴたりと消える。
「…………今、なんと……?」
誰ともなくこぼされた疑問。
ジグは彼らの方を向き、もう一度同じことを繰り返した。
「テギネは、俺が斬った」
聞き間違えようのない自供、いや宣言と言うべきか。
こうなることを予想していた族長とイサナが揃って頭を抱えるのが見えたと同時、ようやく言われた意味が染み渡ったのだろう。
静寂という紙を引き千切るような勢いでその場が荒れた。
「きっさ、まぁああああああ!!」
「殺せ! この男を斬り殺せぇ!!」
「生きてここから出られると思うなよ傭兵!」
喧々囂々。
聞くに堪えない怒号が広間に響き渡り、皆が腰の得物へ手を伸ばす。
流石はジィンスゥ・ヤと言うべきか、老若男女問わず戦いの心得があるようだ。ピンと背筋の伸びた老婆が鬼気迫る表情で鯉口を切る様は中々に迫力がある。
シュオウとその仲間が必死に止めているが、今にも爆発しそうな者たちが血走った眼でジグを睨みつけている。興奮する彼らとは対照的に、ジグは何の感情も浮かべずに傍観しているだけであった。
傭兵に限らず、戦場で仲間が死ぬことなど日常茶飯事である。
ジグも、ジグの所属していた傭兵団も精強であった。それでも戦いに絶対などなく、個の力だけでどうにかなるものではないのが戦争だ。余所と比べると少ないが、戦死者は度々出ていた。それが仕事であったし、それが日常だった。
だからジグには彼らの感覚が分からない。
平和な日常を送っているならともかく、槍働きで稼ごうということは常に死と隣り合わせであるということと同義。その道を選んだ者が死んだからと言って、悼みこそすれ何を怒ることがあろうか。
少なくともテギネにはその覚悟はあった。
「……期待外れだったか」
喧騒の中での小さな呟き。普通なら届くはずのない言葉が、しかし特異な聴覚をしている彼らには届いてしまった。
「貴様、今何と言った!」
「よしなさい、ツヅミ!」
侮られたように感じたのか、若い男が顔を怒りに歪めて吠えた。
シュオウの脇をすり抜け、制止の声を振り切るとジグに向けて真っ直ぐに敵意を向けてきた。
止めきれなかったシュオウが青い顔で焦りを見せるが、彼は他の面々を押しとどめるので手一杯になっている。
ツヅミと呼ばれた、団子鼻が特徴的な若い男がジグの前に立つ。
歳の割に腕が立つのだろう。複数人を相手していたとはいえ、シュオウを抜いてくるほどだ。
ジグは腕を組むと、その青年の眼を真っ直ぐに見返した。
ツヅミが前にするのは二メートルにも及ぶ巨躯と、服の上からでも分かるほどに鍛え上げられた肉体。ジグの体躯を改めて目にしたツヅミは一瞬怯んだが、すぐに持ち直すと食って掛かった。
「先の言葉、期待外れとはどういう意味だ?」
「言葉通りの意味だ。武人とやらも、結局はその程度の覚悟なのかと落胆していた」
「我らを愚弄するか……!」
ツヅミは声を震わせ、怒りで団子鼻を赤くしながら腰へ手をやった。
左手で強く鞘を握り、親指が鯉口を切る。
臨戦態勢を見せるツヅミに、ジグは白けた様な顔でため息をついた。
「人に限らず、殺して稼ごうというのだ。殺されたぐらいで何を騒ぐ。武器を、戦う力を手にするとはそういう事だ」
獲物を狩る猟師や、魔獣を殺して稼ぐ冒険者が死んだとして、誰が怒るだろうか。
互いに命の奪い合いをしている以上、悲しみこそすれど、恨みを抱くのはお門違いだ。それは相手が人間同士でも変わらない。
ジグの言葉はツヅミ自身にも思い当たるところがあるのか、わずかに視線を逸らした。
「……覚悟があっても、仲間を殺された恨みが消えるわけではない」
ややあって絞り出した声は最初の威勢こそなくなったものの、それでも割り切れない感情のこもったものだった。
ジグにその思いを斟酌してやる義理はない。だが否定するつもりもなかった。
仇討ち、結構なことではないか。武人だなんだと拘って己の心を偽るよりも余程人間らしい。
だからこれは、ただの買い被りだ。
異郷からやってきた武闘派集団だの、武人の誇りとやらも、感情に振り回される普通の人間と同じであったというだけのこと。
イサナやライカ、テギネと言った一部の傑出した人物だけを見て、全体もそうなのかもしれないと勝手に期待してしまったのだ。
誰も彼もが割り切って生きて行けるわけではないことなど、良く知っていたというのに。
恨み辛みの篭った視線を向けてくるジィンスゥ・ヤたちへ冷めた視線を送りそうになったのを、ゆっくり一度目を瞑ることで割り切る。
次に目を開いたジグは組んでいた腕を解き、ほんの少しだけつま先に体重を移す。
「―――ッ」
ぞわりと、全身が粟立つような感覚にその場にいる全員が息を止めた。
武器を抜いてはいない。ただ立ち方を変えただけ。
ただそれだけで“自分たちが決して有利な状況ではない”ことを気づかされたジィンスゥ・ヤたちが、目を見開いて口を噤んだ。
「恨みは消えない、か。道理だな」
ジグが重々しい口調でツヅミの台詞を繰り返した。
自身の言葉を返された彼は、しかし全身が金縛りにあったように動かない。動けない。
ツヅミの脳内には動いたその瞬間に、双刃剣でバラバラに殺される自分が映っていた。
さりとて戦いの意思を先に見せたのは自分の方だ。すぐに抜きかけの刀を納めようとしたが、中途半端に鍔を押し上げた親指は言うことを聞かなかった。唾液の干上がった口で息を呑もうとするが、うまくできない。
「ならばその恨み、晴らしてみるといい」
最早ツヅミは呼吸も満足にできない。
その場から逃げ出したくなるほどの圧力と、動いたら殺されるのではないかとの恐れ。
相反する二つの考えに押しつぶされそうになった彼は半ば恐慌状態に陥り、反射的に柄を握った右手に力を籠めてしまった。
「その辺にしてくれない?」
向かい合った二人の視界を過るは翠の雷。
言葉に遅れてふわりと揺れるは白の長髪。
抜かれるはずだったツヅミの刀を握る右手を上から抑えるは、彼女の持つ刀の柄。
一触即発、いや既に半ば爆発しかけていた場へ割り込むのは、神速と言って差し支えない身のこなしによるもの。
ジィンスゥ・ヤの達人、イサナ=ゲイホーン。
彼女は身に纏う雷の残滓と同じ色の瞳で、真っ直ぐにジグを見据えた。
「ウチの若い衆をイジメるのは感心しないわ」
音もなく二人の間に割り込んだイサナにツヅミが目を白黒させている。
彼女の動きに気づいたのは事前に知っていた族長と、次期達人候補と言われているシュオウくらいのものだ。そして捉えられた者に至ってはジグのみ。
そのことに気づいたイサナの額を汗が伝う。
読まれたことはある。
合わせられたこともある。
だが、見切られたのは初めてだ。
背後からの動きだというのにも関わらず、ジグの眼はイサナを完全に捉えていた。
過去二度の戦いにおいても、ここまで完全に捉えられたことは未だなかったはず。
腕は鈍っていない。それどころか敗北を糧に猛特訓を繰り返し、今なお向上している。
だというのに、イサナ最大の武器である速度が通用していない。
この短期間で一体どれほどの戦いを経たのか、どれほどの修羅場を潜り抜けてきたのか。
問いただしたくて堪らず熱いものがこみ上げてくるイサナだったが、族長の視線に気づいて自分の役割を思い出すのであった。
7/20に「魔女と傭兵」四巻が発売します。
多くの加筆部分に加えて、べんち先生の素晴らしいイラストがありますので是非どうぞ!




