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空が白み始める少し前に帰還したジグたちはとりあえずその場で解散し、宿に戻って休息をとった。
空きっ腹を抱えて眠るのは辛かったが、戦時ではままあることなので文句を言ってもいられない。
流石に翌日は朝の日課を休むと、魔女同士の戦いで疲れたのかよく眠るシアーシャを起こさずに街へ繰り出す。
ハリアンを離れていたのは数日だというのに随分と久しぶりの様な気がする。
ストリゴでの滞在は一時として休まる時間がなく、常にやることに追われていたせいもあるかもしれない。
郷愁の念、というには些か早すぎるこの感覚をどう呼べばよいものかと悩んだのは一瞬だけ。
すぐに騒ぎ始める腹の虫が、自分が風流人とは縁遠い人間であることを自覚させてくれる。
「……腹が減った」
口を突いて出るのは切なる三大欲求。
自然の摂理として、燃料がなければ体は動かない。とりわけ大きな体躯の持ち主ならば尚更だ。
心なしかジグの肩も少し落ちて見える。
テギネとの戦いで負った傷は致命傷こそ外れたものの、決して浅いものではなかった。常人であれば幾日にも分けて治療するであろう傷。それを一気に回復術で治してしまったのだから体力の消耗も凄まじい。
正直言って、限界である。
営業開始時間を把握している屋台の付近で待ち伏せ、開始と同時に早足で向かう。
普段からよく利用しているミートパイの出張販売をしている屋台だ。
店主は突然現れたジグに驚いた様子もなく、気さくに声を掛けてくれる。
「おぉあんた、ここ何日か見てなかったけど仕事かい?」
毎日のように走っているジグの顔はそれなりに知れ渡っており、いないと何かあったのかと思われる程度には浸透していたようだ。根無し草な傭兵業をしていた頃からすれば考えられないほど長い時間一所にとどまっているため、こういった反応をされるのは新鮮さと戸惑いを感じる。
「ああ、少しストリゴにな。十個頼む」
本当はあるだけ寄こせと言いたいくらいには空腹なのだが、他の客のことを考えない行動は顰蹙を買う。そう言った無法行為を働けば団ごと出禁にされかねないので、傭兵団にいた頃は厳しく躾けられたものだ。
無論、それでもやらかす者は後を断たなかったのだが。
今はフリーランスの身の上なので関係ないと言えばそうなのだが、あの時叩き込まれた技術や生き方はこれまでの人生で大いに役立ってきた。必要に迫られなければ変えるつもりもない。
「ストリゴぉ!? あんな治安悪い所によく……まああんたなら平気か」
店主が素っ頓狂な声を上げ、ジグのガタイと眼を見て納得したように頷いている。
ジグからしても酷い治安だったのだ。一般人からするとあそこに好き好んで行くのは同類か、自殺志願者にしか見えないのは無理もない。
「あそこは酷い所だったろう? 俺も昔に行ったことがあるが、その時でもかなり治安が悪かったんだ」
ストリゴがまだ鉱山街として機能していた時のことを言っているのだろう。
店主は手早く商品を詰めながらも当時を思い出して目を細めていた。
「ああ。特に飯が酷くてな、あんたのミートパイが恋しかったよ」
ジグは財布から銀貨を二枚取り出しながらしみじみと口にする。その言葉に一切の世辞はなく、ハリアンとストリゴでは食糧事情が違いすぎることを実感するものであった。
以前ストリゴの屋台で食べたパンはこれより五割ほど高く、それでいて味にはかなりの差がある。冒険者で言えば三等級と八等級くらいには違う。
「はっはっは! そりゃそうだろうよ!」
世辞抜きの称賛に満更でもないと闊達に笑いながら差し出す包みを受け取ると、その上にさらにもう一個ミートパイが置かれた。もう幾度も買っているから感覚で分かるが、一つ多い。
「店主、数を間違えていないか?」
「そいつはオマケだ。あんたが毎回豪快に買っていくもんだからよ、最近固定客が増えたんだわ。仕込みの数も相当増やしてな」
顎をしゃくる先を見てみれば、確かに積まれたコンテナの数が多いような気がする。
「助か……ありがとう」
満載の紙袋を手に礼を言えば、店主はひらひらと手を振って応えた。
「礼はいいから、さっさと食っちまいな。さっきから我慢できないって顔してるぜ?」
「……ぬ」
にたりと笑う店主に言われてそんなに顔に出ていただろうかと頬を撫でる。
再度頭を下げながら店を離れればそんな疑問などどこへやら。
さっそくオマケの一個の包みを剥がし、湯気を上げるミートパイにかぶりつく。
小さくはないミートパイの四割を口内に収める。
「……」
無言で咀嚼し、もう一口。
味を事細かに語る必要はない。美味さは食欲で示すのみ。
ジグはそう言わんばかりに真剣な眼をし、一つ目を飲み込む前に次の包みを破っている。
焼き上がってそう時間が経っていないだろうミートパイはまだ熱を持っており、カリっとした生地は断じて作り置きの物ではない。店主が朝早くから手間を掛けたのは間違いない。
「うむ」
四個目を食べきり、次を手にしたところでようやく腹の虫が本格的に起動し始める。
戦闘時には飲まず食わずでも動き続けられ、最小限の補給でも戦闘継続できるジグだが、こうして腰を据えて食べられると体が認識すればスイッチが切り替わる。
今の彼はただ食料を求めてうろついている冬眠明けの熊と大差ない。
「ふむ……」
ナッツでも食べるかのようにミートパイを口に放り込みながらも、彼が探すのは次の獲物だ。
早朝の屋台が徐々に開き始めるのを据わった眼で眺め、狙いを定めたのかのそのそと歩き出す。
「いらっしゃい!」
若い娘が店番をしている屋台は香ばしい匂いを漂わせている。
羊の肉だろうか。吊るされた一本の太い肉が焦げ茶色に焼かれ、娘がそれを削ぎ落して野菜と一緒に生地に挟んでいる。
「五個頼む……野菜多めで」
注文している最中に脳裏をふくよかな医者と師の顔が過ったので、免罪符のように野菜を多めに頼んでおく。
「はいよ。銀貨二枚ね」
ミートパイ片手に五個も頼んでくるジグを見て何か言いたげにしていた娘だったが、沢山買ってくれるのであれば文句もない。
慣れた手つきで野菜の水気を取ってから生地に敷き、大振りな肉斬り包丁を軽々と扱い肉を削ぎ落す。先に野菜へソースをかけ、肉を乗せてさらにもう一度。マスタードをこちらに見せてきたので頷けば、多めに振りかけられた。
ミートパイを頬張るジグの喉がごくりと音を立てて鳴った。
「……とりあえず一つどうぞ」
見かねたのか、それとも物騒な見た目の男に熱視線を注がれるのに耐えかねたのか。
生地をくるくると巻いて出来上がった物を受け取り、一口。
「うむ」
一つ頷き、二口、三口。
黙したまま、馬が人参を食べるように一本を食べきった。時間にして五秒掛かっていない。
あまりの早食いに娘が口を開けて動きを止めている。
「……」
ミートパイを食べながら無言で次を催促するジグの視線に慌てて次に取り掛かる娘。
さして時間を置かずに提供された残り四本を、それ以上の速度で平らげる。
「次だ」
待つ間に買っていた果物を絞ったジュースを三杯空にしたジグが、次を求めて視線を巡らせた。
どこか鬼気迫る空気すら醸し出している様子に他の客が引いていたが、そんなことに気づく余裕もないジグはただひたすらに食料を求めては大量の注文を繰り返した。
ジグが満足する頃には食材の無くなった屋台が引き上げていた。
「少し……食べ過ぎたか」
動くのが億劫になるほどに食べたのはいつぶりだろうか。
我に返って財布を見てみると、悲しくなるほどに痩せ細っていた。一体どれほどの無茶をすれば食事で金貨を使い切れるのだろうか。
「おのれ、シャナイアめ……」
全てはあの魔女が悪い……そう結論付けたジグは気持ちを新たに切り替える。
悩んだところで食べてしまったものはしょうがない。
幸い金のあてはある。カークへ仕事の報告を済ませればまとまった金額が支払われるはずだ。
奴は金払いがいい。当初の予定を大きく超えた仕事だが、相応の金額を期待できるはず。
やることを決めたジグが立ち上がる。
「今すぐ向かってもいいが……先にシアーシャを起こすか」
未だに眠っているであろう彼女のことを考え、ふと思い立って寄り道をする。
運よく残っていたミートパイを一つ買って宿に戻る。
思いの外付き合いの長くなった宿の階段を上り、彼女の部屋へ。
「……?」
シアーシャの部屋に向かう途中、何か良い匂いがして足を止める。
どうやら発生源は自分の部屋のようだ。
一応警戒しながらドアを開け、音を立てぬように部屋に入る。
中には想像通りシアーシャがいた。ベッドに腰かけ、窓の外を見ていた彼女がこちらに気づいて振り向く。風を受けたシアーシャの長い髪が靡いていた。
「あ、ジグさん。おはようございます」
「おはよう」
いつものように交わす朝の挨拶。
これも久しぶりだと感じてしまうのは、それだけ彼女の存在が馴染んでしまったからだろうか。
そんなことを考えていると、優しい匂いが鼻腔をくすぐった。
匂いの元を辿ると、テーブルに大きな鍋が置かれている。煮込んだスープは湯気を立てており、売り物でないことはすぐに分かった。
「厨房を借りて作っちゃいました。ジグさんお腹減ってそうだと思って……もしかして、もう済ませちゃいました?」
言葉の途中、ソースやらの匂いに気づいたのだろう。
間が悪かったかとわずかに表情を曇らせる彼女だが……あまり見くびってもらっては困る。
「丁度、食後の一杯が欲しいと思っていたところだ。貰えるか?」
師にも、戦友にも、わざわざ作ってもらったものを残すような指導は受けていない。
「あ……はい! 今よそいますね!」
曇った顔はどこへやら。
シアーシャは妙に張り切ってなみなみとよそった椀をこちらに差し出す。
口にしたスープは派手な味付けこそないが、胃を労わるような優しさが感じられるものだった。
落ち着いた環境で、ゆっくりと過ぎていく時間。
昨日までの血生臭い騒動など微塵も感じさせない、穏やかな空間がそこにはあった。
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