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微睡の中で誰かが肩を揺さぶっているのを感じる。
「……さん、起……い」
―――ライエルだろうか。どうせまた夜の街にくり出そうとでも騒いでいるのだろう。懲りない奴だ。以前二股をかけていた女に背中を刺されて俺が医者へ担ぎ来んだのをもう忘れたのか。戦場で死ぬならばともかく、あんな間抜けな死に様を見かけたこちらの身にもなって欲しいものだ。
「ジ……起き……い」
それを聞いた団長たちは大爆笑の大宴会で、普段物静かな副団長ですらその日は大笑いしていた。まともに心配していたのは俺と糧食班の女傑だけだった。
お前のせいであの娼館は団ごと出禁に―――
「―――ジグさん、起きてください」
遠く懐かしい記憶が、より大きな何かに遮られたところで目が覚める。
大きくはないが不思議と響く声に意識が浮上する。
「っ……」
どこかまだぼんやりとしていたジグだったが、自分を揺り動かす者の顔がはっきり意図したところで覚醒した。誰かの膝に頭を預けているのか、後頭部が柔らかい。
「……シアーシャ?」
「はい、おはようございます。もう夜ですけどね」
月夜を背に彼女が微笑んだ。蒼い瞳は月明かりを背負ってなお輝きを失わず、長い黒髪が帳のように垂れて頬をくすぐっている。
彼女の顔を見て安堵し、それにわずかな違和感を覚えながらジグが身を起こす。
だがその違和感はすぐにかき消え、意識を失う前のことを思い出して視線を険しくした。
「……シャナイアは、どうした?」
問われたシアーシャは一瞬きょとんとしていたが、その名が先の魔女を指しているのだと気づくと心底どうでもよさそうに目を細めた。その表情からは侮蔑とも、軽蔑ともつかない拒絶の感情が感じられる。
「さあ? 死んだんじゃないですか?」
「…………そうか」
彼女の反応だけで何があったのかを察したジグは身を起こして周囲を見回した。
そこに広がっているのは想像通りの光景だった―――悪い意味で。
酷い有様、という言葉すら虚しく聞こえる。
恐らく自分が意識を失った場所からそう離れてはいないはずだ。比較的無事に残っている門などの位置関係からそれが見て取れる。
だというのにこの変わりようはどうだ?
まるでこの辺りが空白地帯かと思うほどに何もない。戦争などで変わり果てた風景を幾度も目にしたことはあるが、何もなくなっているということはかつてなかった。
瓦礫も、残骸も、死体も。
まるで一切合切を全て波に攫われてしまったかのようだ。おそらく魔女二人が激突した中心地なのだろう。ここよりさらに離れた場所はジグのよく知る戦争の爪痕に似ている。
極めつけは大地に残された一直線の傷跡だ。
断絶された大地は地震で生じた地割れのようにも見えるが自然現象による不規則なそれと、眼の前にある空虚さを感じる裂け目は一致しない。
硬い黒パンをナイフで強引に切り分けた、とでも言うべきだろうか。裂け目は遠くまで続いており、終端では一際豪華な屋敷が真っ二つになっていた。途中にある建築物は自重を支えきれず裂け目へ落下しているのを見るに、随分良い造りをしているのだろう。
そうして被害状況を見ていると、裾が引っ張られた。
見ればシアーシャが気まずそうにもじもじとしている。
「あのー……ごめんなさい、やっちゃいました……」
まるで親の機嫌を窺うように顔を逸らして横目でこちらを盗み見ているその姿からは、彼女がこの事態を引き起こした張本人とは思わせない。だが紛れもなく、これは彼女がしたことなのだ。
魔女が異質な存在だとは、理解していたつもりだ。
つもりだったが、これはあまりに……
「…………あの、ジグさん?」
いつまでも黙ったままのジグに不安を覚えたのか、シアーシャが恐る恐る顔を上げている。蒼い瞳が彼女の心情を表すように揺れていた。
彼女の不安を解消すべきだと、そう感じている。
それが自分の意思なのかどうかも分からぬままに。
「……魔女同士の戦いだったんだ。手加減をする余裕などないさ」
「そうなんですよ……流石に疲れちゃいました」
そう口にしながらもジグの脳裏ではシャナイアの残した言葉がどこかで引っかかっていた。
自分は魔女の魔力に侵食され、魔女のために動くようにその意志を操られていると。
(……愚かな。敵の言葉を真に受けるなど。シャナイアが真実を語っている保証などない)
操られている……本当にそうだろうか?
彼女と出会ってから、らしくない行動を取った自覚はある。だが場所や状況が変われば人も変わる。これだけの環境が変化しているのに変わらない方がどうかしている。
ならばなぜ、自分はあそこまで動揺した?
何が自分の意思で、何が魔女による侵食の影響なのか、その区別を付けられる方法はあるのか。
(……落ち着け。変わらぬことも……いや、変わらないことの方が多い)
自分の意思を強く意識して自問自答する。
たとえかつての仲間が敵に回ったとして、自分は剣を緩めるような真似をするだろうか?
―――否だ。それだけは断言できる。
誰が相手でも手を緩めない。敵対せずにすむ道があるなら選ぶだろうが、そうなってしまったなら一片の揺るぎもなく剣を向けられる。
(……仮に操られていようと、な)
今は、それで良しとしよう。
頭を切り替え、一つ深呼吸。
何とか表面上は普段通りの自分を取り戻したジグは、自らの護衛対象へ向き直った。
「シアーシャ」
「は、はい!」
「―――逃げるぞ」
「……え?」
ある意味ジグの内心よりもずっと重大な問題。
それはこの惨状の責任を誰がとるか、ということだ。
今この異常な場所にいるのはジグとシアーシャの二人だけ。
これをやったのが個人であるなどと思う人間などまずいないだろうが、こんなところに大した怪我もなくいることが知られれば何かしらの関連があると感づかれることになるだろう。
そうなれば後は悪魔の証明だ。
大量の魔具や危険物を暴発させただのなんだのと、こじつける方法はいくらでもある。
「実際、悪魔の証明ではなく事実だからな……」
「賠償とか求められたらいくらになるんでしょう……?」
呑気なことを言っているシアーシャと夜に紛れて走るが、その足取りは遅い。
頭を切り替えたと同時、凄まじいまでの飢餓感に襲われたジグは非常食を頬張りながら走っていた。萎えそうになる足へ少しでも早く栄養を送り届けるために貴重な蜂蜜の小瓶を飲み干し、ペミカンを放り込む。甘味と塩気と油が口の中で混ざり合い地獄のようなハーモニーを奏でているが、文句を言っていられる状況ではない。
「クソ、人の体力全て使い果たしてくれたな……」
おかげであれだけの傷はほとんど塞がっていたが、栄養不足で倒れる寸前だ。回復術を掛け過ぎると危険な状態にもなりかねないと言っていた意味が良く分かる。
悪態をつきながら口元を拭うジグを、何か言いたげな目でシアーシャが見ていた。
「この街には一人で来たのか?」
ジグに問われ、今思い出したという風にシアーシャが気まずそうな顔をした。
「……あ、そう言えば忘れていました。ノートンさん大丈夫かな?」
聞き覚えのある名前だ。確か刃蜂騒動の折に行動を共にした三等級冒険者だったはず。
恐らくカークがシアーシャのお目付け役に付けてくれたのだろう。
「……まずいな。アレに巻き込まれていたら死体も残らんぞ」
「だ、大丈夫のはずです。屋台広場の方だったから直撃はしていない……はずです」
はず……なんとも不安にさせる言葉だ。
とはいえ彼らも三等級、自分の身を守ることくらいはできるはずだ。出来てくれないと困る……というか、カークの胃が無くなってしまうかもしれない。




